言っちゃいけない言葉の後始末
「……あんたがいなけりゃ、よかったのに」
口から出た瞬間、言葉が自分の耳に刺さった。
刺さったのに、私は抜けない。抜けないから、続けてしまう。
「ほんと、いっつもさ。タイミング悪いんだよ」
玄関のドアが、ぎい、と嫌な音を立てて閉まった。
彼女は靴を脱ぎかけたまま固まって、私を見た。私の方は見ていない。台所の流しを見ている。そこに並んだ洗い物を見ている。見ることで、見ないふりをする。
湯気の消えた鍋。冷めたスープ。台所の隅に置いた、失敗したケーキ。
今日は、私の誕生日。
私は自分の誕生日に、自分の口で火事を起こした。
「……そう」
彼女はそれだけ言って、ゆっくり靴を揃えた。
揃え方が丁寧すぎる。丁寧な怒りは、あとから効く。
「ごめん、言いすぎた」
言いすぎた、じゃない。
言ってはいけない言葉を言った。
なのに私は、軽い語尾で薄めようとしてしまう。最悪だ。
「言いすぎたっていうか」
彼女が、玄関の段差に座った。
座るのは、怒鳴らない合図だ。怒鳴らない人ほど、深く刺す。
「言ったね。ちゃんと」
ちゃんと。
その言葉が、私の胸の奥を押した。
私は鍋を見たまま、ふっと笑って誤魔化しそうになって、やめた。
今日は、誤魔化さないって決めた日だったのに。
誕生日の私は、誓いより口が早い。
「……今日、うまくいかなかったんだよ」
「ケーキ?」
「ケーキも。仕事も。電話も。なんか全部」
全部がうまくいかないとき、人は一番近いところに八つ当たりする。
一番近いところにいるのは、彼女だ。
同居三年目。冷蔵庫の段を共有し、洗濯ネットを共有し、微妙な気分の空気も共有する人。
「私、帰ってこなきゃよかった?」
彼女が言った。
声音は平らなのに、質問が重い。
私はやっと振り向いた。
「違う」
即答。
違うのに、言葉の選び方が下手で、違うの形にできない。
「じゃあ、何」
彼女は私の目を見た。
逃げるな、と目が言う。
私は喉を鳴らして、正直を引っ張り出した。
「……うまくやりたかった」
「なにを」
「今日を」
言った途端、鼻の奥がつんとした。
情けない。誕生日なのに。
でも情けないのが、今日の私の本物だ。
「サプライズでもしたかったの?」
彼女が、台所の隅を見た。
失敗ケーキが、しょんぼりした物体としてそこにいる。焼き色が不均一で、クリームは分離しかけて、苺だけが元気。
「……見ないで」
「見える場所に置いたの、誰」
「私」
「じゃあ見られる前提でしょ」
彼女は立ち上がって、台所に入ってきた。
私は咄嗟に失敗ケーキを隠そうとして、手が滑った。
皿が、カタン、と音を立てる。
その音で、私の中の恥ずかしさが爆発した。
「ほら! こういうとこ!」
私は声を荒げた。
荒げた先にいるのは、彼女だ。
「あなたが来ると、いつもこうなる! タイミングが悪いっていうか、なんていうか!」
言いながら、自分で分かる。
これは嘘だ。
タイミングが悪いんじゃない。
私が、勝手にタイミングを決めて、勝手に崩れて、勝手に他人のせいにしてる。
彼女は、ケーキを見て、私を見て、それから台所の引き出しを開けた。
スプーンを二本出して、私の前に差し出す。
「食べよ」
「……は?」
「食べる。今。反省の儀式」
「儀式って」
「言いすぎた人と、言われた人の、応急処置」
応急処置。
この人の言葉はいつも、生活の匂いがする。
生活の言葉は、余計に効く。
「私、ほんとに最低だ」
私が言うと、彼女は肩をすくめた。
「最低は、今じゃない。今はまだ“やらかした人”。最低は、逃げたあとに確定する」
逃げるな。
またそれだ。
私はスプーンを握った。指先が冷たい。
私たちは並んで、失敗ケーキをすくった。
一口。
甘い。甘いのに、どこかしょっぱい。
しょっぱいのは、たぶん私の顔のせいだ。
「味、どう」
彼女が聞く。
「……ケーキ自体は、いける」
「クリームは?」
「……分離してる」
「だよね」
彼女が笑った。
私は笑えない。
でも、笑えない私を彼女は責めない。
「ねえ」
彼女が言う。
「さっきの言葉、取り消す?」
「取り消す」
私は即答した。
「ちゃんと?」
「ちゃんと取り消す。……いなけりゃよかった、なんて、思ってない」
「じゃあ、何を思ったの」
私はスプーンを皿に置いた。
逃げ道を塞ぐために、両手を膝の上に置く。
こうすると、嘘がつきにくい。
「……私がいなけりゃよかった、って思った」
彼女が瞬きをした。
怒るかと思った。
でも彼女は怒らない。代わりに、少しだけ眉を下げた。
「自分に言いたかった言葉を、私に投げたんだ」
当たっている。
当たりすぎて痛い。
私は頷いた。
「今日、うまくやりたかったのに、うまくできなくて。
それで、あなたが帰ってきたら、なんか、急に現実が来て。
現実って、私のへたさが全部見えるじゃん」
「うん」
「見られたくなかった」
「私に?」
「うん……」
彼女はスプーンでケーキの苺を持ち上げ、私の前に置いた。
「じゃあ、見られたくなかった相手に、最悪の言葉を言ったね」
「……うん」
「合理的じゃない」
「……うん」
「あなたって、そういうとこある」
彼女が言い切って、苺を食べた。
苺がプツンと音を立てる気がした。
その小さな音で、私は少し笑ってしまった。
笑ってしまって、すぐに顔を覆う。
「ごめん。ほんとにごめん」
「謝り方も、あなたって感じ」
「なにそれ」
「謝りすぎて、相手の怒りの置き場所を消すやつ」
彼女の声は、責めていない。
整えている。
その整える力に、私は甘えてしまう。
「じゃあ、どうすればいい」
私が聞くと、彼女は少し考えてから言った。
「まず、あの言葉は私に言う言葉じゃないって、あなたが自分に教える。
次に、私に言ってほしい言葉を言う」
「言ってほしい言葉?」
「うん」
彼女が指を折る。
「一個目。今日、誕生日だったんでしょ。おめでとうって言ってほしいのは、あなた」
「……」
「二個目。うまくできない自分を、見てほしいのは、あなた」
「……」
「三個目。帰ってきた私に、言うなら“おかえり”。それが普通」
普通。
普通が、今日の私には難しい。
私は息を吸って、吐いて、言った。
「……おかえり」
彼女は頷いた。
「ただいま」
「……今日、誕生日で」
「知ってる。だから、帰りに買った」
彼女がエコバッグから、コンビニ袋を出した。
中から出てきたのは、ちゃんとした小さいケーキ。ホールじゃない。二個入り。
そして、ロウソクが一本。
「……え」
「ホールは無理だと思った」
「なんで分かるの」
「あなた、普段から“無理を盛る”癖あるから」
無理を盛る。
私は思わず吹き出した。
吹き出したあと、すぐに泣きそうになった。
「私、今日、ほんとはこれがやりたかった」
「じゃあやろう」
彼女はテーブルの上を片づけ、失敗ケーキを端に寄せた。
失敗は捨てない。端に置く。
端に置けるなら、私も端に置ける気がした。
彼女がロウソクに火をつけた。
小さな炎。
さっきまで玄関で燃えていたのは、別の火だった。
これは、生活の火だ。
「ほら。願い事」
「願い事なんて」
「やるの。儀式」
私は笑って、目を閉じた。
願い事はひとつだけ。
言っちゃいけない言葉を、次は飲み込めるように。
飲み込むんじゃなくて、言い換えられるように。
誰かを燃やして温まるんじゃなく、同じ火を見て笑えるように。
目を開けて、私は息を吹きかけた。
ロウソクの火が消える。
その瞬間、胸の奥の火も、少し落ち着いた。
「……ねえ」
私は彼女を見る。
「さっきの、取り消したい。ちゃんと」
「うん」
「いなけりゃよかった、なんて、思ってない。
むしろ、いてくれて助かった。
助かったのに、助かったって言うのが下手で、八つ当たりした」
彼女は、少しだけ目を細めた。
笑う直前の顔。
「じゃあ、次からはこう言って」
「なに」
「“今、余裕ない。助けて”」
「言えるかな」
「言える。あなたは口が強いんじゃなくて、怖いだけ」
怖い。
その言葉が、妙に優しい。
怖いって言われると、私は悪人じゃなくなる。
「……うん。怖い」
「よし。じゃあ次は、怖いときに怖いって言う練習」
彼女はコンビニケーキの箱を開けて、フォークを二本出した。
さっきと同じ応急処置。
でも今度は、ちゃんと甘い。
「誕生日、おめでとう」
彼女が言った。
私は、反射で「ありがとう」を言いそうになって、今日は別の言葉も足した。
「ありがとう。……いてくれて、よかった」
彼女が一拍置いて、笑った。
「それが言えたなら、合格」
私はケーキをひと口食べた。
甘い。
今度は、ちゃんと甘い。
言葉は、時々爆弾になる。
でも、爆弾にしたのは私で、解除するのも私だ。
解除の仕方はまだ下手だけど、今日は、解除しようとした。
失敗ケーキは、端で静かに待っている。
私も、端で待っている部分がある。
その端っこを、彼女が「そこに置いとけ」と言ってくれる。
だから私は、もう一度言った。
今度は、火を増やさない言い方で。
「……おかえり」
「ただいま」




