上げる日と上がりすぎない日
夜のキッチンで、炭酸が二本並んでいた。
同じメーカー、同じサイズ。違うのは、冷え具合と、置き方の雑さ。
「……やってるね」
千紗がそう言った時点で、俺はもう“やってる”顔だったと思う。
目が覚めすぎてる。息が軽すぎる。言葉が早すぎる。
ハイ。しかも、二段。
「今日、いいことあった?」
「いいことが、二つ」
俺は炭酸を一本持ち上げて、ぷしゅっと開けた。泡の音が、合図みたいに弾ける。
「HIGH」
千紗が眉を上げる。
「言い方」
「いや、言いたくなる。だって、こういう日って、あるじゃん。いきなり二枚抜き」
俺は冷蔵庫の扉に貼ったメモを剥がして、千紗に見せた。
今日の成果の走り書き。箇条書きの文字が、いつもより太い。
・面倒案件、範囲確認→削る→拾う で完遂
・後輩が“先輩みたいになりたい”って言った
・上司が「助かった」って、ちゃんと目を見て言った
「……それは、確かに二段」
千紗は微笑んだ。でも、次の瞬間、ちゃんと受信機の顔になる。
「で、もう一段上げようとしてる?」
バレてる。
俺は炭酸の二本目を指差した。
「上げたい。上げられる気がする。今なら何でもできる気がする」
「その“何でも”が危ない」
千紗は椅子を引いた。
テーブルの前に、椅子を二脚。第三の動きの準備。立つか走るかの二択にしないための家具。
「座って」
「でも、ハイの日だよ?」
「だから座る。ハイは止めない。安全に登る」
千紗は、テーブルの上に小さな鈴を置いた。ちりん。
武器。刃物じゃない。背中を押す合図。
今日は“止める”ためじゃなく、“段差を数える”ための音だ。
「ねえ、あなた。今のあなたって、階段を二段飛ばしで上がるタイプだよね」
「効率」
「効率って言うと格好いいけど、足首捻るやつ」
俺は笑った。笑いが泡みたいに弾ける。
でも千紗の目は笑ってない。心配じゃない。手順の目だ。
「じゃあ、今日は『HIGH & HIGH』の取り扱い説明書を作ろう」
「取扱説明書?」
「うん。ハイのときほど、手順が要る。
落ちるのって、だいたい“上がりすぎた”あとだから」
千紗はノートを開いた。紙の上に、太い文字で書く。
『HIGH & HIGH:上げる日
でも、呼吸は落とさない日』
俺の中の五人が勝手に席に着く。
白湯が「まず水」と言う。
紅茶が「言葉を整えろ」と言う。
ほうじ茶が「焦げるな」と言う。
コーヒーが「もっとやれる」と腕を組む。
炭酸が「ぷしゅっ!」と踊る。
千紗が言う。
「まず確認。チッは出てない?」
「今日、出てない。むしろ、ニヤ」
「ニヤもブザーにしよう」
「え」
「ハイのブザー。『ニヤ=ブザー』」
俺は吹き出しそうになった。
ギャグ寄りの入口。でも、千紗の顔が真剣なので、ちゃんと笑いにしない。
「ニヤが出たら?」
「凹凸」
「凹凸?」
「うん。刺さるのが嫌なときだけじゃない。
滑りそうなときにも、手すりが要る」
なるほど、と思った。
ハイって、気持ちいいのに、足元が滑る。勢いがあるほど、段差が見えなくなる。
「次。一手」
千紗はペン先でノートをトントン叩く。
「ハイのときの一手は、走ることじゃない。
“次の段を確認する”こと」
「次の段?」
「うん。いま何が良かったのかを、言葉にする。
言葉にすると、ハイが“空気”じゃなく“根拠”になる」
俺は炭酸を飲んで、息を整えた。
ぷは。泡が喉を叩く。気持ちいい。
「今日良かったのは、範囲確認して削れたこと。
後輩を拾えたこと。
上司がちゃんと“助かった”って言ったこと」
「はい。じゃあそれぞれ、体に残ってる感覚は?」
千紗が問いかける。受信機が起動する質問。
俺は少し目を閉じて、答えた。
「削れたのは、肩が軽い。
後輩のは、胸が熱い。
上司のは、背中がまっすぐになる」
「いい。じゃあ、その感覚を“食感”で割る」
千紗は冷蔵庫から、りんごを出してきた。
ハイの日に、りんご。ちゃんと手順の匂いがする。
「シャクで、浮遊感を割る」
俺はりんごをかじった。
シャク。
音が、ハイの泡を一度切る。
切れるけど、落ちない。むしろ、足場が出る。
「で、あなたが今したい“もう一段上げたい”って、具体的に何?」
千紗が聞く。
俺は勢いで答えそうになって、椅子を少し回した。第三の動き。即答しないための回転。
「……新しい企画、今夜のうちに骨子まで作って送ろうとしてた」
「それが二本目の炭酸ね」
「そう。今なら作れる気がする」
「作れる。たぶん。でも、代償は?」
千紗の質問が、まっすぐ刺さる。でも、痛いだけじゃない。凹凸がある。
「……睡眠。あと、明日の俺の呼吸」
「それ、奪い去るのは誰?」
「俺」
「自分が自分を誘拐してる」
千紗の言い方が、妙に可笑しくて、俺は笑った。
でも笑いの中に、ちゃんと納得が混ざる。
「じゃあ取扱説明書に書こう」
千紗はノートにチェック欄を作り始めた。
□ HIGH:良かったことを言葉にする
□ HIGH:体感(肩/胸/背中)を確認する
□ HIGH:食感で割る(りんごのシャク)
□ HIGH:二本目を開ける前に“代償”を言う
□ HIGH:代償が大きいなら椅子を置く(明日に回す)
「椅子って、明日に回すこと?」
「うん。“やらない”じゃない。“座って保留”」
ゼロか百かじゃない。
ハイのときほど、保留が大事。
走りたい気持ちを否定しないまま、方向だけ変える。
千紗は鈴を鳴らした。ちりん。
「さぁ。今日の“二本目”をどうする?」
俺は炭酸の二本目を見た。
冷え具合がちょうどいい。開けたら気持ちいい。
でも、今夜の俺は、足首を守りたい。
「……半分だけ」
「半分?」
「開ける。でも、企画は“骨子のメモだけ”。送信しない。
明日の俺に渡すための線だけ引く」
「いい。線」
千紗が頷く。
俺は二本目を開けた。ぷしゅ。泡が踊る。
「HIGH」
「HIGH & HIGH」
千紗も同じように小さく言って、笑った。
落ちない笑い。沈まない夜。
俺はメモを一枚取り、企画の核だけを書いた。
見出しだけ。三行だけ。
線を引く。握れるライン。
書き終えて、メモを封筒に入れ、封筒の表にこう書いた。
『明日の俺へ:二本目の続き』
千紗が覗いて、満足そうに言った。
「それ、最高。自分への引継ぎ」
「受信機は、未来の俺も拾う」
「そう。未来のあなたの小さな叫びもね」
俺は椅子にもたれた。
炭酸の泡がまだ口の中で弾けている。
でも足元は、りんごのシャクで固めた。
ハイは消してない。安全に持ってる。
窓の外で風が通って、カーテンが揺れた。
スリット。薄い隙間。そこに呼吸が入る。
千紗が言った。
「ねえ。今日のあなた、上がってたけど、落ちてない」
「取扱説明書のおかげ」
「じゃあ最後に、合言葉」
俺は鈴に触れて、ちりん。
「凹凸」
「凹凸」
「さぁ」
「さぁ」
ハイの階段を、二段上げた夜。
でも息はちゃんと残ってる。
それが、俺たちの“HIGH & HIGH”だった。




