年齢欄を燃やす夜
冷蔵庫に貼ってある磁石が、今日に限ってやけに主張していた。
「特売」。
「ポイント二倍」。
「年齢確認」。
最後の一枚だけ、なぜか文字が太い気がする。気のせいなのに、刺さるときってそういうものだ。
「……ねえ」
千紗がリビングの入口で立ち止まった。カバンはまだ肩にかかっている。帰宅直後の姿勢なのに、空気が“外”のまま。
受信機が、ピッと点灯する。
「刺さった?」
俺が聞くと、千紗はうなずいて、口を横に引いた。笑いでも怒りでもない顔。どっちでもないときの顔。
「今日、飲み会の二次会でさ。初対面の人に言われたの」
「うん」
「『何歳に見える?』って。あと、すぐ『年齢当てていい?』って」
チッが舌先まで来た。
俺は歯の裏で止める。
チッ=ブザー。凹凸。
「……千紗、答えた?」
「笑って逃げた。けどさ、逃げた自分に、ちょっと腹立った」
逃げるのは悪じゃない。ゼロか百かじゃない第三の動きだ。
でも千紗は“逃げたこと”じゃなく、“逃げた理由”に腹を立てている。
「腹立ったの、なんで?」
「“年齢を言うか言わないか”の二択にされるのが嫌だった。そこに私の選択肢がないのが」
うん、と俺は頷いた。
それはまさに「椅子」の案件だ。第三の動きが必要。
「じゃあ今夜、ショータイムにする?」
千紗が眉を上げる。
「なにそれ」
「年齢不showitime」
「……言い方」
「しかも w/ZERO」
俺はテーブルの上の小さな鈴を鳴らした。ちりん。
武器。刃物じゃない。背中を押す合図。
「ゼロって?」
「“ゼロか百かにしない”のゼロ。あと、ゼロから始める、のゼロ」
千紗は小さく笑って、肩から力が少し抜けた。
その“少し”が大事だ。
「ショータイムって、何するの」
「年齢欄を燃やす儀式」
「燃やすな」
「燃やさない。比喩。ほら、スリット作るだけ」
俺はリビングの椅子を二脚、テーブルの両側に置いた。真正面じゃない角度にする。追い詰めないための配置。
さらに、デスクライトを置いて光を狭める。取調室の再現…ではなく、舞台のスポットライト。
「ここがステージ。年齢の話をしてくる世界に対して、こっちの“返し”を練習する」
「返し、ね」
千紗は椅子に腰を下ろすでもなく、背もたれに手を置いた。第三の動き。まだ決めない姿勢。
「まず、今日の敵を確認」
俺は紙に大きく書いた。
『敵:年齢を“情報”じゃなく“値踏み”にするやつ』
千紗が言う。
「値踏み、まさにそれ」
「で、味方は?」
俺は鈴を指で弾く。ちりん。
「凹凸。受信機。椅子。線。スリット。あと、内なる五人」
千紗はテーブルを見て、言った。
「五人、呼ぶ?」
「呼ぼう」
俺はキッチンへ行って、白湯をひとつ、紅茶のティーバッグ、ほうじ茶、コーヒー、そして炭酸を一本持って戻ってきた。
テーブルに並べるだけで、心の中が“会議”を始める。
白湯が「落ち着け」と言う。
紅茶が「言葉を整えろ」と言う。
ほうじ茶が「焦げる前に火を弱めろ」と言う。
コーヒーが「論破すればいい」と腕を組む。
炭酸が「ぷしゅっ!」と開いて「ショータイム!」と泡を飛ばす。
「炭酸がうるさい」
「今日だけ主役にしていい」
千紗が炭酸の缶を指で弾く。ぷしゅ。
その音が、舞台の幕が開く音みたいに聞こえた。
「じゃ、ショータイム。お客さん役は俺。千紗は自分役」
「逆じゃない?」
「今日は千紗が主役。俺は客席」
俺はわざと大げさに手を叩いた。三回で止める。寄せすぎない。
「さて。客席からの質問です。『何歳に見える?』」
千紗は目を細めた。
一瞬、今日の嫌な空気が戻りそうになる。
その瞬間に、俺は鈴を鳴らした。ちりん。
「ブザーじゃない。武器。背中押す合図。さぁ」
千紗は深呼吸して、答えた。
「……それ、当てたら何かもらえるの?」
「お、いい」
「当てられても、私が得しないから。賞品がないなら参加しない」
俺は思わず笑った。
軽い、でも刺さる返し。
ゼロか百かじゃない。参加しない、でも関係を壊さない。椅子が置かれている。
「次。『年齢、教えてよ』」
千紗は指で眉間の線をなぞって、言葉を選んだ。紅茶が手を挙げる。
「……年齢は非公開。代わりに、好きな食感なら教える」
俺は吹き出した。
食感で割る、ここで使うのはずるい。強い。
「好きな食感?」
「りんごのシャク。あと、揚げたての衣のカリ」
「最高」
千紗が肩をすくめる。
「年齢を言うより、その方が私が私のままいられる」
その言葉が、まっすぐだった。
“自分のまま”は、年齢の話よりよっぽど大事。
俺は紙に書き足す。
『返し案A:賞品がないなら参加しない』
『返し案B:年齢は非公開。食感なら公開』
「次、もう少し強いのも欲しい」
千紗が言った。目の奥に、今日の悔しさがまだ残ってる。
消さなくていい。沈ませないで、武器にする。
「強いの、いく?」
「いく」
俺は客席の声を変える。少し嫌味っぽく。
「『えー、そんなのケチー。年齢くらいさー』」
千紗は一拍置いて、椅子に座った。背筋を伸ばす。
ゼロか百かじゃない。でも、線を引く姿勢。
「……年齢って、“くらい”じゃない。
聞かれて嫌なら嫌って言っていい。私は嫌」
静かに言う。声を荒げない。
だけど線は太い。握れるライン。
俺は、拍手をしそうになって止めた。寄せすぎない。
代わりに鈴を鳴らす。ちりん。
「それ、すごくいい。ちゃんと線」
千紗は息を吐いた。ほうじ茶が頷く。「焦げる前に火を弱めた」
「でも、これ言ったら空気悪くならない?」
「なるかもしれない。でも、空気が悪くなることより、千紗が削れる方が悪い」
千紗は少し考えて、メモに“第三の動き”を足した。
「じゃあ、こう。
嫌って言ったあとに、椅子を置く」
「椅子?」
「うん。空気を壊さないためのスリット」
千紗は続けた。
「『私は嫌。代わりに、最近ハマってるものなら話すよ』」
「いい。選択肢を渡してる。逃げじゃなく、案内」
千紗の目が少し明るくなる。
ショータイムが、ちゃんと“味方の舞台”になってきた。
「……ねえ」
千紗が言った。
「今日、言われたとき、私、頭の中で“ゼロ”になったんだよね」
「ゼロ?」
「うん。何も言えなくなった。笑うか黙るかしかなくて」
俺は頷いた。
ゼロは悪じゃない。ゼロは“スタート地点”だ。
問題は、ゼロのまま凍ること。だからゼロから一歩だけ出す合図がいる。
俺は鈴を指で押さえて、千紗に見せた。
「これが“ゼロ w/ 鈴”。凍ったら鳴らす。鳴らしたら、『さぁ』」
千紗は鈴に指を伸ばし、ちりんと鳴らした。
「……さぁ」
その一言で、空気が少しだけ動く。
ゼロが、ゼロのままじゃなくなる。
「じゃ、最後に“舞台袖の合言葉”決めよう」
「凹凸?」
「凹凸もあるけど、今日専用のやつ。短くて、気持ちよくて、あなたのままの言葉」
千紗は少し考えて、りんごを手に取った。
かじって、シャク。
その音の後に、ぽつりと答える。
「……『年齢より、いま』」
「いい」
俺は紙に書いた。
『合言葉:年齢より、いま』
千紗は笑って、椅子にもたれた。第三の動きが、今夜は「休む」に変わる。
「ねえ、これさ。明日、また聞かれたら言える気がする」
「言える。言えなくてもいい。ゼロになったら、鈴」
「ちりん、ね」
「ちりん。さぁ」
千紗は炭酸をひと口飲んで、ぷはっと笑った。
「なんか、ほんとショータイムだった」
「年齢不showitime、成功」
「言い方はダサい」
「二十世紀の俺が出た」
千紗が笑って、俺は安心した。
笑いは逃げじゃない。今日はちゃんと、背中を押す音になってる。
窓の外で風が通って、カーテンが少し揺れた。
スリット。薄い隙間。そこに呼吸が入り込む。
千紗が小さく言う。
「年齢って、ただの数字なのに、時々刃物みたいに使われる」
「だからこっちは、刃物じゃない武器で返す。鈴と、言葉と、椅子」
俺は鈴を鳴らした。ちりん。
「年齢より、いま」
千紗が同じ言葉を返す。
「年齢より、いま」
ゼロから始める夜は、ちゃんと明るい。
幕が下りても、舞台袖に合図が残る。




