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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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呼び止める二文字

 玄関を開けた瞬間、リビングが妙に静かだった。

 いつもの生活音が薄い。テレビも、湯沸かしも、スマホの通知も。静けさが丁寧すぎて、逆に目立つ。


「ただいまー」


 返事がない。

 代わりに、床を擦るような小さな音。すり、すり。何かを引きずっている。


 俺は靴を揃えたまま、廊下の角からそっと覗いた。

 リビングの中央で、千紗が椅子を動かしていた。


 椅子を一脚、窓際へ。

 次にもう一脚、テーブルの横へ。

 最後に、ソファを数センチだけずらして、きゅ、と止める。


 机の上には、デスクライトが置かれている。光は狭い。まるで取調室の再現。

 その横に、見慣れた小さな鈴。


 ……なにしてんの。


 声に出す前に、胸の奥の受信機が先に反応した。

 これは“遊び”じゃなくて“手順”の匂いだ。千紗が、何かを整えようとしている。


「千紗?」


 振り向いた千紗の顔は、ちょっとだけ赤い。運動した赤じゃない。焦りの赤。

 それがまた、言葉より先に答えになる。


「おかえり」


「……なにしてんの」


 言ってしまった。二文字じゃないけど、ほぼ二文字のやつ。

 千紗は一瞬目を細めて、次の瞬間、笑いを飲み込んだ顔になった。


「それ、今日のテーマの言葉」


「テーマ?」


「うん。『なにしてんの』」


 俺は眉を上げた。

 千紗は両手を上げて弁解するみたいに言う。


「違うの。あなたを責めるためじゃない。自分を止めるため」


 自分を止める。

 その言い方が、いきなり刺さった。


 チッが舌の先まで来た。刺さりの音が出かかる。

 俺は歯の裏で止めた。


 チッ=ブザー。凹凸。


 心の中で合言葉を握ると、口の中のトゲが丸くなる。

 俺は玄関からちゃんと入って、椅子の配置を見回した。


「……取調室、復活?」


「半分だけ。今日は“取り調べマイセルフ”じゃない。もっと軽い。『問いかけ』の方」


 千紗は椅子の背を軽く叩いた。

 それが、あの“第三の動き”を呼ぶ合図みたいで、俺は少し安心する。立つか座るか、やるかやらないか、ゼロか百かを避けるための家具。


「とりあえず座って」


「いや、状況説明が先」


「状況説明は、座ってからでいい。第三の動き」


「……理屈が強い」


 言いながら、俺は椅子に腰を下ろした。

 千紗は真正面じゃなく、斜めの席に座る。いつも通り。人を追い詰めない角度。


 テーブルの上に、メモ用紙が数枚並んでいる。

 そこに太い文字で書いてある。


『なにしてんの(自分用)』

『なにしてんの(相手用)』

『なにしてんの(世界用)』


「世界用ってなに」


「世界に振り回されてるときに使うやつ。『世界、なにしてんの』って」


 俺は吹きそうになった。

 ギャグの入口。寄せすぎると逃げる。俺は息を整える代わりに、冷蔵庫へ行った。


 りんごを一つ取り出して、テーブルに置く。包丁は使わない。今日は“割る”日だ。


「食感で割る?」


「うん」


 千紗はりんごをかじった。


 シャク。


 その音で、部屋の空気が少しだけ柔らかくなる。

 千紗の眉間の線が、ほんのわずかにほどけた。


「で、なにがあった」


 俺が聞くと、千紗はりんごを持ったまま、目だけをデスクライトに向けた。


「今日、会社でさ。会議が続いて、途中から“自分の声”が消えたの」


「消えた?」


「うん。『うんうん』って相槌は打てるのに、意見が出てこない。出てこないのに、焦る。焦るのに、笑う。変な顔になってたと思う」


 千紗は自分の頬を指で軽く押した。

 その仕草が、すごく“ちゃんとした人が崩れそうなとき”のやつで、俺の胸がきゅっとなる。


「帰り道、気づいたの。私、ずっと“早送り”してた。心が」


 早送り。

 俺の中の炭酸がぷしゅっと鳴って、同時に白湯が「落ち着け」と湯気を立てる。


 俺はテーブルの鈴を指で弾いた。ちりん。

 武器。背中を押す合図。


「じゃあ、『なにしてんの』はその早送りを止めるため?」


「そう。止めるっていうか、スリットを入れる。薄い隙間」


「千紗が言うと、急に格好いいな」


「格好つけてない。必死。……あなたみたいに『チッ=ブザー→凹凸→一手』って、私も欲しかった」


 俺は頷いた。

 手順は増やしていい。増やして、生活が軽くなるなら。


「だから“問いかけ”を手順にした。『なにしてんの』って聞くと、今の自分が見えるから」


 千紗はメモ用紙を一枚取って、読み上げた。


『なにしてんの(自分用)

 1) いま、呼吸してる?

 2) いま、誰の声を優先してる?

 3) いま、ゼロか百かになってない?』


「……これ、良いな」


「でしょ」


 千紗は少し得意そうに笑って、すぐに顔を曇らせた。


「でも、家に着くまでの間に、別の方向に使いそうになった」


「別の方向?」


 千紗はメモ用紙の二枚目を指差した。


『なにしてんの(相手用)

 1) その言葉、誰を急がせてる?

 2) その“今すぐ”は本当に今すぐ?

 3) “今日中”の範囲、どこからどこまで?』


「これを、上司に投げつけたくなった」


 ああ、分かる。

 投げつけたくなるときって、たぶん本当は投げつけたいんじゃなくて、“守りたい”だけだ。


 俺の舌の裏にチッが来る。ブザーが鳴る。

 凹凸。歯の裏で止める。


「投げつけなくて偉い」


「偉いって言うと、余計ムカつく」


「じゃあ、偉くない。でも、うまい」


 千紗が笑って、りんごをもう一口かじる。


 シャク。


「あなたは? 今日、なにしてたの」


「仕事してた。『本日中』も来た」


「チッした?」


「しかけた」


「凹凸」


「凹凸」


 言葉が手すりになる夜。

 変だけど、変だから効く。


 千紗は三枚目のメモを持ち上げた。


『なにしてんの(世界用)

 1) その速度、誰が得してる?

 2) その正しさ、誰を置いていく?

 3) いま必要なのは“答え”じゃなく“椅子”じゃない?』


「椅子って書いてある」


「うん。世界がゼロか百かで迫ってくるときは、椅子を置くのが一番」


 千紗は立ち上がって、窓際に置いた椅子を軽く引いた。

 そこに座るでもなく、背もたれに手を置いただけで、部屋に余白が生まれる。


「たとえば、明日。会議で“今すぐ決めて”が来たら」


「来る」


「そのときに、私が自分に聞くの。『なにしてんの』って」


 千紗は、手のひらを胸に当てる。


「で、答えをひとつだけ選ぶ。“一手”。

 『三分ください』って言う」


 スリット。

 薄い隙間。そこに呼吸が入り、受信機が起動する。


「いいね」


 俺は鈴を鳴らした。ちりん。

 千紗が少しだけ肩を下げる。背中が押される。


「で、あなたはさ」と千紗が言った。「私が椅子動かしてたの見て、思ったでしょ」


「なに」


「『なにしてんの』って、ちょっと笑いそうになったでしょ」


「……なった」


「でも、笑わなかった」


「ギャグに寄せすぎると逃げるから」


「そこ、分かってるの、好き」


 千紗は照れたみたいに目を逸らし、冷蔵庫を指差した。


「りんご、もう一個ある?」


「ある」


「じゃあ、今日は“問いかけ”の夜にしよう」


 千紗はメモ用紙を一枚、俺の方へ滑らせた。

 そこに新しく書き足してある。


『なにしてんの(ふたり用)

 1) いま、同じ速度?

 2) いま、どっちの小さな叫びを拾う?

 3) いま、鈴を鳴らす?』


 俺は紙を見て、胸がふっと軽くなった。

 受信機は、ひとりで回すより、ふたりで回した方が楽だ。


「同じ速度、かな」


「うん。今日は同じにしよ」


「小さな叫びは?」


 千紗は少し考えて、言った。


「私の。今日は私のを拾って。明日はあなたの」


「了解」


「鈴は?」


 千紗がテーブルの鈴に指を伸ばす。

 俺は頷く。


「鳴らそう。さぁ」


 ちりん。


 合図が鳴って、取調室でも会議でもない、ただのリビングがちゃんと“安全地帯”になる。

 千紗が笑って、さっきよりずっと自然な声で言った。


「ねえ、ほんと、なにしてんのって言葉、便利だね」


「便利って言うな、手すりだろ」


「じゃあ手すり。刺さったときの」


 俺は立ち上がり、キッチンへ向かった。

 今日の晩ごはんを“今すぐ”決める必要はない。冷蔵庫の中身を見て、椅子に座って、考えて、りんごをシャクして、余白を作ればいい。


 その途中、千紗が背中に言う。


「……今日、ありがとう」


 俺は振り返らず、鈴だけ鳴らした。


 ちりん。


 答えの代わりの合図。

 明るいまま、ちゃんと終われる夜の音。

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