奪うのは君じゃなく時間
千紗が帰ってきたとき、玄関のドアは「ただいま」より先にため息を吐いた。
コートの袖が落ちる音、靴を揃えるいつもの丁寧さ。その全部が、丁寧すぎて、逆に小さな叫びになっている。
「おかえり」
「……ただいま」
声の温度が、ぬるい。冷たいじゃなく、ぬるい。熱も冷えも出せないやつ。
俺の受信機が、ピッと光った。
「今日、刺さった?」
千紗は答えない。代わりに、カバンをソファに置く。置き方が、雑じゃないのに乱れている。
それが答えだ。
俺は舌の裏で「チッ」を一度転がした。出さない。出したらブザーが外に漏れる。
チッ=ブザー。
凹凸。
心の中で合言葉を握ると、焦りが床に落ちる。滑らない。立てる。
「……会議が、長かった」
千紗はリビングの椅子に座るでもなく、背もたれに手をかけたまま止まった。
椅子の第三の動き。立つか座るかの二択じゃない、「まだ決めない」を許す姿勢。
「何が一番きつかった?」
「『今すぐ決めて』って言われた。今すぐって、どの今すぐ?って思った」
千紗の眉間に、細い線が入る。あの線は、怒りというより、逃げ道を探している線だ。
握れるラインが必要な顔。
俺はキッチンに行き、りんごを一つ、まな板じゃなく手のひらに乗せて持ってきた。刃物は出さない。今日は“奪い去る”日だから。
りんごを差し出す。
「食感で割る?」
千紗は一拍置いて、かじった。
シャク。
その音で、部屋の空気が一段だけ軽くなる。
「……うん。割れた」
「よし。じゃ、ここから先は、俺の番」
千紗が目を細める。
「なに、怖い宣言」
「誘拐する」
「は?」
「どうやって君を奪い去ろう、っていう話。今夜」
千紗の口が半開きになって、次の瞬間、笑いそうになったのを必死で止めた顔になる。
ギャグに寄せすぎないで、と彼女の目が言う。俺も頷く。
「犯罪じゃない。合意のあるやつ」
「……どこからどこまでが合意?」
「いまから確認する。取調べじゃなく契約」
俺はテーブルに、紙を一枚置いた。白いコピー用紙。そこにペンで大きく書く。
『奪うのは 君じゃなく 時間』
「え、なにそれ」
「今日の敵は、“今すぐ”とか“決めて”とか、そういうやつ。君を持ってくやつじゃない。君の時間を食うやつ」
千紗は、もう一口りんごをかじって、シャクを増やす。
炭酸みたいに笑いが弾けそうで、でも目は少し潤んでる。沈まない。沈ませない。
「奪い去るって、具体的に」
「計画がある」
俺はポケットから、小さな鈴を出してテーブルに置いた。ちりん、と鳴る。
武器。背中を押す合図。
「合図はこれ。あと、言葉」
「……『さぁ』?」
「そう。鈴が鳴ったら、君は“今すぐ”から逃げていい。逃げるって言うと大げさだけど、スリットを作る。薄い隙間」
千紗は椅子に、今度はちゃんと座った。背もたれにもたれず、少し前のめり。
興味と警戒が半々。
「で、どこに奪い去るの」
「ベタに言うと、夜のコンビニ。そこから、川沿い。風鈴が鳴る場所でもいいけど、今日は冬寄りだから音が少ない。代わりに、橋の下の自販機で炭酸買う」
「……すごい地味」
「地味が強い。派手にすると、君の“ちゃんとしなきゃ”が追いかけてくる」
千紗は笑って、でもすぐ真顔に戻る。
「……私、ちゃんとしなきゃって顔してた?」
「してた。眉間の線が、ギュッて」
千紗は自分の眉間を指でなぞって、ため息を飲み込む。
「今日さ。会議の最後に、『あなたの気持ちは分かるけど、今はそれどころじゃない』って言われたの。
分かるって言いながら、分かってないやつ」
チッが俺の舌の先まで来た。ブザーが鳴った。
俺は歯の裏で止める。
チッ=ブザー。凹凸。
心の中の五人が、いつもの席に着く。
白湯が「まず息」と言う。
紅茶が「言葉を整えろ」と言う。
ほうじ茶が「焦げる前に火を弱めろ」と言う。
コーヒーが「論破したい」と腕を組む。
炭酸が「奪い去れ!」と跳ねる。
俺はテーブルの紙を指でトントン叩いた。
「分かった。じゃあ今夜の誘拐目的、追加。
“分かったフリ”から、君を奪い去る」
「……え、なにそれ。助かる」
千紗の声が少し軽くなった。受信できたサイン。
「ただし、合意の再確認」
俺はペンでチェック欄を作っていく。ふざけてるようで、ちゃんとしてるやつ。
□ いまから一時間、仕事のことは“保留”にする
□ スマホは持つが、通知は切る(緊急だけ受信)
□ 途中で『凹凸』と言ったら即停止して帰る
□ 途中で『チッ』が出たら、ブザー扱いで一手を選ぶ
□ “奪い去られる”のではなく“一緒に奪う”
「最後のやつ、好き」
「だろ。共同作業にすると、罪悪感が減る」
千紗はペンを取って、チェックを入れた。全部。
最後の項目だけ、二重丸をつける。かわいいが、言わない。
「じゃ、被害者…じゃない、参加者。準備は?」
「上着。あと、りんごもう一口」
シャク。
その音が、スタートのピストルみたいに響く。
俺は鈴を鳴らした。ちりん。背中が押される。
「さぁ」
夜の街は、昼ほど“今すぐ”を投げてこない。
コンビニの自動ドアは、俺たちを歓迎するでも拒むでもなく、ただ開く。第三の動きみたいに、淡々と。
「炭酸、いる?」
「いる」
「コーヒーは?」
「今日は、いらない。戦闘モード戻ってくる」
「紅茶は?」
「家で。帰ったら」
千紗は自分の内なる五人を、ちゃんと把握してる。
俺が好きなのは、そういうところだ。勝手に崩れない。崩れても戻る手順を持ってる。
川沿いに出ると、街灯の光が水面に線を引いていた。
線。握れるライン。
千紗はその線を見て、ぽつりと言った。
「今日、私、ゼロか百かになってた。
“言い返す”か“飲み込む”かしかなくて」
「第三の動き、作ろう」
「椅子?」
「椅子でもいいし、スリットでもいい。たとえば、こう」
俺は炭酸の缶を指で弾いた。ぷしゅっ、と開く音。
炭酸が「ここ!」と叫ぶ。
「今すぐ決めろって言われたら、こう返す。
『決めたいので、三分ください』
“今すぐ”に、スリットを入れる」
千紗は歩きながら、口の中でその言葉を転がす。
「三分ください……いいね。反抗じゃない。選択肢が生まれる」
「そう。ゼロか百かじゃない。三分の隙間。
その間に受信機を起動して、相手の事情も拾って、自分の事情も拾う」
千紗は立ち止まって、川の匂いを吸った。
「ねえ、奪い去るってさ、もっと強引なやつだと思ってた」
「強引に奪うのは君じゃなくて、君を削る言葉の方だよ」
「……詩人ぶるな」
「二十世紀の俺が出た」
千紗が吹き出して、笑いがちゃんと笑いになる。
沈まない夜。ここ大事。
帰り道、千紗が言った。
「でもさ、私、明日も会議ある」
「知ってる。だから“奪い去る”は今夜だけじゃない。手順として持ち帰る」
「手順?」
「チッ=ブザー→凹凸→一手、を会議用に変形する」
俺は指で空中に書く。
「チッ(ムッ)=ブザー
凹凸(合言葉)=『三分ください』
一手=『範囲を聞く/優先度を確認/保留を置く』」
千紗は頷いて、鈴を指で鳴らした。ちりん。
「……さぁ」
小さな合図。背中を押す武器。
その一言で、彼女の肩がほんの少し下がった。
家に着いて、玄関で千紗が立ち止まった。
靴を揃える動作が、さっきより柔らかい。きれいだけど、追い詰められてない。
「ねえ」
「ん」
「今日、奪い去られたの、ちょっと悔しい」
「え、なんで」
「私も奪いたかった。あなたの“本日中”を」
その言葉に、胸がぎゅっとなる。刺さる。でも凹凸がある。
「じゃあ、交換しよう」
「交換?」
「君の“今すぐ”を俺が奪う。
俺の“本日中”を君が奪う。
お互い、敵から時間を盗む共犯」
千紗は少し考えて、笑った。
「共犯、いいね。罪状は?」
「過剰なちゃんとしすぎ」
「重罪」
「だから、執行猶予として、紅茶」
千紗はキッチンへ向かいながら言った。
「りんご、もう一個切る?」
「今日は切らない。シャクで割る日だった」
「了解。じゃ、シャク担当は私」
シャク。
台所から聞こえる音が、今日を割って、明日との間にスリットを作る。
俺はテーブルの鈴を、指先でそっと鳴らした。
ちりん。
奪い去るのは、君じゃない。
君の隣に残るための、たった一時間の時間だ。




