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自分を問いただす夜

 リビングのテーブルに、デスクライトを置いた。角度を下げ、光を狭くする。あっという間に“それっぽい”空気が立ち上がる。


「……できた」


 俺は自分で言って、自分で笑いそうになった。笑いに寄せすぎると、肝心のところが逃げる。だから、椅子を一脚、テーブルの向こう側に追加する。これで第三の動きが生まれる。立つか座るかの二択じゃなく、座ってもいいし、まだ決めなくてもいい。


 玄関が開いて、千紗が帰ってきた。靴を揃える音が静かで、それだけで部屋が整う。


「ただいま。……なにこれ」


 千紗の目が、デスクライトと二脚の椅子と、テーブルの上のノートと、ペンと、そして小さな鈴に止まる。


「取調室」


「取調室?」


「うん。取り調べ、マイセルフ」


 千紗は一拍置いてから、声を低くしてみせた。


「あなた。今夜、何をやらかしましたか」


 ギャグの入口が見えた。危険。寄せすぎない。俺は手のひらを上げた。


「まって、ちゃんとやる。笑いの手前で止めるやつ」


「了解。じゃあ正式に。……ブザーは鳴ってる?」


 千紗はもう分かってる。俺の声の奥の、もっと小さい声を拾う。受信機。


 俺はうなずいて、喉の奥の引っかかりを取り出すみたいに言った。


「鳴った。会社で、“本日中”が来た」


「チッ、した?」


「しかけた。歯の裏で止めた。チッ=ブザー」


「よし。凹凸」


「凹凸」


 合言葉を口にすると、胸の内側に手すりが生える。滑り落ちないための凹凸。俺はテーブルの上の鈴を指で弾いた。ちりん。武器。刃物じゃない。背中を押す合図。


 千紗はコートを脱ぎ、椅子に腰を下ろした。正面の席じゃない。斜め。真正面にしないのが、千紗のやり方だ。ゼロか百かにしない距離の取り方。


「では始めます。被疑者、座って」


「被疑者って言うな」


「呼び方は自由。ここはリビング。刑務所じゃない」


 言いながら千紗は、俺にもう一脚を指した。俺は座る……直前で、椅子の背もたれに片手をかけたまま止まった。座るでも立つでもない。第三の動きの中間。


「……座らないの?」


「いまは、半分で」


「半分でいい」


 千紗はノートを開き、ペン先を揃えた。尋問官の顔。だけど怖くない。怖くしないのが、千紗の才能だ。


「まず、被疑者の供述を聞きます。何が刺さった?」


 俺は一瞬、言葉を探した。言葉が見つからないとき、体が先に出る。俺は冷蔵庫へ行って、りんごを一つ取り出した。包丁は使わない。今日は刃物じゃない日。りんごをそのままテーブルに置き、ひとくちかじる。


 シャク。


 食感で割る。感情を、飲み込めるサイズに砕く。


「“本日中”って言葉が刺さった。今日の予定も、呼吸も、全部持っていかれる感じがした」


「被疑者は、何をしたくなった?」


「全部投げたくなった」


「投げるなら、何を?」


「……俺の機嫌」


 言った瞬間、千紗は頷いた。受信機が拾って、机に置く動作。大げさじゃないけど、ちゃんと扱う。


「じゃあ次。機嫌は投げていい。でも、相手に当てない。ここ、重要」


「うん」


「それで、あなたはどっちに寄った? ゼロか百か」


 俺は椅子の背もたれにかけた手に力を入れて、わずかに体を揺らした。椅子がぎし、と鳴る。椅子は第三の動き。答えの前に逃げ道を作ってくれる。


「百に寄った。瞬間的に。『全部やる、徹夜でも』って」


「コーヒーが暴走しがちなやつね」


 千紗が言うと、俺の頭の中の五人が勝手に並んだ。


 白湯が「落ち着け」と湯気を立てる。

 紅茶が「言い方を選べ」と眉を上げる。

 ほうじ茶が「焦げる前に火を弱めろ」と落ち着いた声を出す。

 コーヒーが「やれば終わる」と腕を組む。

 炭酸が「ぷしゅっ!」と勝手に開き、「全部やろ!」と泡を飛ばす。


 千紗はノートに、五つの丸を描いた。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。丸の横に、矢印を引く。


「今日は誰が主導権を握ってた?」


「コーヒーと炭酸が手を組んだ。最悪のコンビ」


「最悪って言わない。勢いがあるのは武器にもなる」


 千紗はテーブルの鈴を指した。


「武器は?」


「鈴。合図は『さぁ』」


「じゃ、今。『さぁ』は何に使う?」


 俺はりんごをもう一口かじった。シャク。少し落ち着く。


「……自分に使う。『さぁ、範囲を聞け』とか」


「いい。取り調べの目的が見えてきた」


 千紗は、デスクライトの光をさらに少しだけ狭めた。光がノートに落ちる。そこに、線が引かれる。握れるライン。線があると、話が散らばらない。


「では、被疑者。事件当時の状況を再現してください」


「事件って言うなって」


「言葉は演出。演出は心を動かす。今夜は“ちゃんとする”演出が必要」


 俺はスマホを取り出し、会社のチャットを開いて見せた。千紗は覗き込まない。距離を保ったまま、音だけで受信するように言った。


「読んで」


 俺は読み上げた。


「『本日中でお願いします』」


 読んだ瞬間、胸の奥にまた小さなブザーが鳴る。チッが舌の先に出かかる。俺は歯の裏で止めた。


「いま、チッした?」


「しかけた」


「ブザー確認。凹凸」


「凹凸」


 千紗はペン先でノートをとんとんと叩いた。


「次。一手」


 俺は息を吸って、口に出した。


「『承知しました。最優先範囲と理由を教えてください。どこまでが“本日中”ですか?』」


「いい。受信機が働いた。相手の小さな叫びを拾いに行ってる」


 千紗は軽くうなずいて、ノートに“受信”と書いた。


「で、相手の返事は?」


「『役員会に差し込みたい。数字部分が必須。文章は最低限でOK』」


「はい。ここで何ができる?」


 千紗の質問は、詰めるためじゃない。選べるようにするため。ゼロか百かから、三つぐらいの選択肢に割る。


「数字だけ先に出す」

「文章は見出しにする」

「助けを拾う……後輩とかに、グラフ頼む」


 言いながら、俺の肩が少し軽くなった。選択肢が三つあるだけで、人は救われる。


 千紗はペンを置いて、ふっと笑った。


「被疑者、今、顔が“世紀末”から戻った」


「世紀末って言うな」


「あなた、仕事中たまに世紀末の顔する。『世界が終わる前提で全部やる』みたいな」


 刺さる。でも、痛くない。凹凸を掴める刺さり方。


「……俺、終わらせたがる癖ある」


「終わらせたがるって言うと格好いいけど、要は“全部抱えたい”だね」


「うん」


「じゃ、取り調べの核心。あなたは何を守りたい?」


 千紗の声が少し柔らかくなった。リビングの取調室が、ちゃんとリビングに戻り始める。


 俺はりんごを見た。机の鈴を見た。デスクライトの光の狭さを見た。ここにあるのは、手順の道具。俺が守りたいのは、たぶん、道具じゃない。


「……俺の呼吸。千紗との夜。あと、明日の俺」


「いいね。じゃあ、守るための運用を決めよう」


 千紗はノートの端に、スリットみたいな細い隙間を描いた。紙の余白に、わざと空白を作る。


「ゼロか百かにしないためのスリット。今日のあなたは、どこに穴を開ける?」


 俺は考えて、言った。


「“本日中”が来たら、まず範囲を聞く。次に、数字だけ先に出す。文章は削る。どうしてもなら、助けを拾う」


「それを、短く」


「……チッ=ブザー→凹凸→一手。『範囲聞く、削る、拾う』」


「完璧」


「完璧じゃなくていい」


「そうだった。七十点で合格」


 千紗は立ち上がって、デスクライトのスイッチを消した。取調室が終わる合図。明かりが広がって、部屋が普通のリビングに戻る。


「取り調べ終了。被疑者は釈放」


「釈放って言うな」


「釈放された人の特典。お風呂か、晩ごはんか、ソファでだらだら。どれ?」


 俺は椅子にちゃんと座って、背もたれにもたれた。第三の動きが、今は「休む」に変わる。


「晩ごはん。あと、ちょっとだけソファ」


「よし。さぁ」


 千紗が言って、鈴を鳴らした。ちりん。背中を押す武器。


 キッチンへ向かう千紗の背中を見ながら、俺はノートを閉じた。そこには、立派な答えじゃなく、小さい手順が書いてある。それがいい。生活はいつも“小さい”で回るから。


 俺は、りんごを最後にもう一口かじった。


 シャク。


 音が、今日を割ってくれる。明日が入り込む隙間ができる。


 千紗が振り返って言った。


「ねえ。今日のあなた、ちゃんと自分の小さな叫び拾えたよ」


 受信機が褒められてるみたいで、俺は少しだけ照れた。


「……凹凸、あったからな」


「じゃあこれからも、刺さったら掴もう。取調室はいつでも開ける」


「リビングでな」


「うん。リビングで」


 風が窓のスリットを通って、カーテンが少し揺れた。

 鈴は鳴らない。でも、ちゃんと背中は押されている。

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