世紀の境目の再生ボタン
スマホの通知音が鳴った瞬間、俺の中の「炭酸」が勝手に開いた。ぷしゅっ。泡が脳内に散って、懐かしい匂いが混じる。
「実家の押し入れ整理してたら出てきた。お前の字。今夜、ちょっと来れる?」
送ってきたのは、幼なじみのタケ。名字よりあだ名がしっくりくる男だ。文面は短いのに、俺の胸の底を指でトントン叩く。小さな叫びのノック。受信機、起動。
仕事中だった。画面には「至急」の赤い印。今日も今日で、世紀末でもないのに世紀末みたいな顔をしている自分がいる。
「チッ」
出かかった音が、歯の裏で止まる。
チッ=ブザー。
ここから、凹凸。
俺は椅子を少しだけ回転させた。正面突破か逃走かの二択に、第三の動き。椅子がくるりと回るだけで、世界が「まだ決めなくていい」に寄る。ゼロか百かにしない手順は、こういうところに置いてある。
頭の中の五人を呼ぶ。
白湯が「落ち着け」と手のひらを当てる。
紅茶が「返信は丁寧に」と言う。
ほうじ茶が「火を弱めろ」と眉を下げる。
コーヒーが「要件整理」と短く言う。
炭酸が「行こ行こ行こ!」と跳ねる。
俺は仕事のチャットに短く返した。
「至急部分だけ先に出します。残りは明朝で調整させてください」
送信。続いてタケへ。
「行ける。何時?」
返事はすぐだった。
「19時。箱、開けるなよ? なんか…“開ける係”がいる感じする」
開ける係。その言い方が、もう二十世紀だ。俺たちは何かと係を作った。秘密基地係、給食の余りじゃんけん係、そして、未来宛ての手紙係。
定時を少しだけはみ出して退社し、駅の改札で千紗に電話した。
「今日、寄り道していい?」
「声が“泡”だね」
千紗はすぐ見抜く。俺の小さな叫びを拾う姿勢、受信機は彼女の方が上手い。
「幼なじみから呼び出し。押し入れから、俺の字が出てきたって」
「それは…世紀の香り」
「うん。たぶん、二十世紀の俺が、まだそこにいる」
少し黙ってから、千紗が言った。
「じゃあ、武器持ってって」
「刃物じゃなく?」
「もちろん。鈴。あと、合図の『さぁ』も」
電話を切ったあと、バッグの外ポケットに指を入れる。小さな鈴が触れた。歩くたびに鳴る、背中を押す合図。武器。
タケの実家は、昔のままの住宅街にあった。街灯の光がやけに黄色い。門の前で待っていたタケは、俺を見るなり変な顔をした。
「変わってねえな」
「お前もな。言い方だけは」
「だって今日の話、二十世紀のノリじゃないと無理」
居間のちゃぶ台に、菓子箱みたいな缶が置かれていた。表面にマジックで書かれた文字がある。
『2000年の俺たちへ 開けるな 夏休み係より』
俺は息を吸った。胸の奥が、ちょっとだけ痛い。痛いけど沈まない。掴める痛さだ。凹凸。
タケが缶を指で弾いた。
「な。お前の字。しかも“開けるな”って書いてあるのに、未来の俺らに開けさせようとしてる矛盾」
「俺たち、矛盾でできてたからな」
タケは笑って、でも目は少し真面目だった。
「開ける係、呼ぶ?」
「呼ぶ」
俺は千紗にメッセージを送った。
『世紀末の缶。開ける係、至急』
千紗は絵文字ひとつで返してきた。鈴の絵。ちりん。
待っている間、タケは押し入れの奥から、もう一つ物を引っ張り出した。透明なプラケース。中に、カセットテープが三本。
「見てこれ。ミックステープ。タイトルがさ…」
ケースのラベルに、丸い字で書かれている。
『夜の自転車』
『世界が終わる前に食べたいもの』
『20世紀のまま押す』
俺は笑ってしまった。ダサいのに、まっすぐだ。あの頃の俺は「かっこよくない」と思うことを恐れていなかった。恐れるのは、退屈だけ。
「自転車で夜走って、ラジオ聴いて、勝手に世界の終わりを想像して…」
「で、世界が終わる前に食べたいものを真剣に議論した」
「りんご」
「お前、それ毎回言うよな」
「食感で割れるから」
タケは「はいはい」と肩をすくめた。
玄関のチャイムが鳴って、千紗が入ってきた。いつものテンポで靴を揃え、部屋の空気を一瞬で整える人。
「こんばんは。開ける係です」
「頼む」
千紗はちゃぶ台の前に座るでも立つでもなく、椅子を少し引いて、腰だけかけた。第三の動き。準備完了の姿勢。
「ルール確認。『開けるな』って書いてあるものは、まず“開けない選択肢”を置く」
「うん」
「でも、開けるなら、凹凸。刺さったら手すりを掴む。あと、チッはブザー」
タケが感心した顔をする。
「なにその夫婦マニュアル。強い」
千紗は笑って、缶を両手で撫でた。まるで古いラジオのつまみを回すみたいに。
「開けます。さぁ」
合図。武器。
蓋は意外とあっさり外れた。中から出てきたのは、折りたたまれた紙束と、ビー玉、プラスチックの鍵、そして小さなポケットラジオ。
「うわ、これ…」
俺の喉がきゅっと鳴った。ポケットラジオ。イヤホンの片耳だけで世界を聴いていたやつ。電池がまだ入っているかは分からないのに、手に取るだけで指先が当時に戻る。
紙束の一番上に、俺の字。
『2000年の俺へ』
千紗が視線で聞く。「読む?」
俺は頷いた。凹凸を掴んで、ゆっくり紙を開く。
『もしこれを読んでるなら、世界はまだ終わってない。よかった。
でもたぶん、大人になったら、毎日が“本日中”だ。
そのときは、ラジオをつけろ。
誰かの声を受け取れ。
自分の声も、拾え。
それができたら、ひとつだけやってほしい。
20世紀のまま、再生ボタンを押せ。』
俺は鼻で息を吐いた。笑いそうで、泣きそうで、どっちにも寄せないように、椅子を少しだけ引き寄せる。第三の動きに逃がす。
タケが紙を覗き込み、口を尖らせた。
「お前、昔から指示厨だな」
「未来の俺を信用してない」
「信用してないっていうか、未来の俺が『チッ』って言うのを想像してたんだろ」
千紗が、ちょんと指で机を叩いた。
「今、チッしそう?」
俺は正直に言った。
「…ちょっと」
「ブザー。凹凸」
「凹凸」
言ってみるだけで、胸の中の角が丸くなる。魔法じゃない。ただの手すり。でも、手すりってそれで十分だ。
タケがポケットラジオを持ち上げた。
「電池、入ってるかな」
裏蓋を開ける。単三が二本。錆びてない。タケがスイッチを入れると、じじっとノイズが走った。
ノイズは、過去の砂嵐みたいで、妙に優しい。
周波数を合わせるつまみを回す。線を引くみたいに、少しずつ。すると、突然、声が入った。
『…こんばんは。今日も一日、おつかれさま。
今夜のテーマは、“タイムカプセルみたいに残ってしまった言葉”です…』
千紗が目を丸くした。
「え、今のラジオで、そんな優しい番組ある?」
タケが首を振る。
「いや、これ、AMだろ。今この周波数、埋まってるはず…」
俺は背中の鈴に指を当てた。ちりん。武器が鳴る。背中が押される。
「……さぁ」
俺は口にした。合図。
タケと千紗は顔を見合わせ、そして笑った。
「なにそれ、儀式?」
「儀式。二十世紀の俺が書いたやつだから」
番組は続いた。
『“残ってしまった言葉”は、毒にも薬にもなる。
毒になりそうなら、手順を作ればいい。
ゼロか百かにしない椅子を置く。
線を引く。
スリットを作る。
それでも刺さったら、凹凸を掴む。』
俺は、口が開いたままになった。タケも同じ顔。千紗は、ゆっくり頷いている。まるで最初から知っていたみたいに。
「これ…」
俺が言いかけたところで、ラジオがじじっと大きく鳴り、ぷつんと切れた。部屋に戻るのは、ちゃぶ台の木目の静けさだけ。
タケがぽつりと言う。
「偶然って、時々、やりすぎるよな」
千紗はラジオをそっと置き、俺の手元の紙を指差した。
「続きがある。読んで」
俺は紙束をめくった。最後のページに、短く書いてある。
『もし今、隣に誰かがいるなら、言え。
“天国で会いましょう”って言うのは、大げさだ。
だからこう言え。
“鈴の鳴る場所で会おう”。
それが、俺たちの天国。』
タケが「うわ」と声を漏らし、笑いと照れが混ざった顔をした。
「お前、昔から詩人ぶってたな」
「ぶってない。必死だった」
千紗が、軽く俺の肩に肘を当てた。凹凸。痛くない接触。確認の合図。
「今のあなたに必要なのは、どれ?」
俺は五人に聞いた。
白湯が「呼吸」と言う。
紅茶が「言葉」と言う。
ほうじ茶が「火加減」と言う。
コーヒーが「次の一手」と言う。
炭酸が「外に出よ!」と跳ねる。
俺は答えた。
「外。少し走りたい」
タケが立ち上がり、昔のままのノリで言った。
「自転車、あるぞ。二台。まだ乗れる」
十分後、住宅街の夜を、三人で自転車で走った。空気が少し湿っていて、でも冷たい。時代のスリットを風が通っていく。
川沿いの堤防まで来ると、街灯の線が水面に伸びていた。線。握れるライン。俺たちは自転車を止め、座るでも立つでもない場所を探して、堤防の端に腰を下ろした。椅子はないけど、段差が椅子になってくれる。
千紗がバッグから小さなりんご飴を取り出した。
「食感で割る?」
「割る」
俺たちは順番にかじった。シャク、と飴が割れる。甘さが舌に乗って、胸の中の“本日中”が少し小さくなる。
タケが川を見ながら言った。
「二十世紀ってさ、終わる終わる言われてたのに、結局終わらなかったな」
「終わったのは、俺たちの夏休みだけ」
「それが一番デカい」
千紗が、静かに鈴を鳴らした。ちりん。夜に小さな光が混ざる音。
「終わらせないものを決めればいいよ。毎日じゃなくても。たとえば…こういう夜」
俺は笑った。
「二十世紀の俺が聞いたら、どや顔するな」
「どや顔していいよ。あの子、頑張ってたんだもん」
タケが急に真面目な声になる。
「なあ。お前さ。大人になってから、たぶん、何回も『チッ』ってなっただろ」
「なった」
「そのたびに、どうしてた?」
俺は川の向こうの光を見て、答えた。
「凹凸。受信機。鈴。椅子。線。スリット。…あと、千紗」
千紗が小さく笑って、俺の肘にまた凹凸を作った。
「よし。じゃあ、次の一手」
タケが首を傾げる。
「次の一手?」
千紗は言った。
「缶の中身、持って帰って。ラジオは置いとく? それとも、また埋める?」
俺は考えた。ゼロか百かにしない。持つか捨てるかじゃない。第三の動き。
「持ち帰って、窓際に置く。すぐ使える場所。たまにノイズだけ聴く」
「いいね」
タケが笑って言う。
「じゃ、俺は“開けるな”を次に回す係やるわ。今度は俺が書く。『2026年の俺たちへ』って」
千紗が指を鳴らした。
「それ、いい。未来のあなたが刺さったときの手すりになる」
俺は川風を吸って、胸の中の泡を落ち着かせた。炭酸が「うん」と頷き、白湯が温度を整え、紅茶が言葉を揃え、ほうじ茶が火を弱め、コーヒーが「帰って寝ろ」と言う。
帰り道、自転車のベルを鳴らした。ちりん。鈴と似た音。背中を押す合図。
俺は小さく呟いた。
「鈴の鳴る場所で会おう」
千紗が隣で、同じ速度で走りながら答えた。
「うん。世紀が変わっても、そこは変えない」
タケが後ろから叫ぶ。
「おーい! 二十世紀のまま押すなよ、転ぶぞ!」
「押すのは再生ボタンだけだ!」
笑い声が、夜の線を滑っていく。
世界は終わらない。
だから俺たちは、今日も小さく再生する。
大げさじゃない天国を、生活の中に作りながら。




