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風鈴の待ち合わせ

 画面の右上で、通知がぴこんと跳ねた。


「本日中でお願いします」


 その一文が、胸の奥の小さいブザーを押した。舌の先に「チッ」が出かかって、歯の裏で止まる。


 チッ=ブザー。


 ここまでが、いつもの自動運転。そこから先は、手動。


 俺は肩の力を抜く代わりに、椅子の背もたれを少し倒した。椅子は便利だ。立つか座るかの二択に、第三の動きをくれる。ゼロか百かじゃない、三十度の逃げ道。


 画面の隅に映る自分の顔は、すでに「百」の顔をしかけていた。眉間に線が入る。線。握れるライン。千紗に教わったやつ。


 俺は唇を閉じて、心の中の五人をテーブルに呼ぶ。


 白湯が「まず飲みな」と言う。

 紅茶が「礼儀を崩さないでね」と眉を上げる。

 ほうじ茶が「焦げる前に火を弱めろ」と落ち着いた声を出す。

 コーヒーが「交渉。条件。数字」と短く言う。

 炭酸が「ぷしゅっ!」と勝手に開いて、泡で机を濡らす。だめだ、お前は元気すぎる。


 俺は深呼吸して、合言葉を口の中で転がした。


「凹凸」


 刺さったときの手すり。つるつるの壁に、指がかかる出っ張り。


 さて、一手。


 受信機になれ。相手の小さな叫びを拾え。叫びは怒鳴り声じゃない。「本日中」の裏に、たぶん別の人の「助けて」がいる。


 とはいえ、俺の今日も今日で、もう決まってる。


 ポケットの中で、小さく鈴が鳴った。歩くたびに、かすかな音。千紗が「武器」と呼ぶやつ。刃物じゃない。背中を押す合図。


 今朝、玄関で千紗は俺のネクタイを直しながら、さらっと言った。


「今日はね、鈴の日。仕事は仕事。でも、鈴の鳴る場所で会おう」


「どこそれ」


「駅前の風鈴屋台。夏の終わりのやつ。ほら、去年『天国』って呼んでた」


 去年の、あの夜。風鈴の音が通りいっぱいに降ってきて、湿った風が甘くて、俺たちはどうでもいいことで笑った。

 天国って、こういうことかもな、って。大げさな宗教じゃなく、生活の中の小さい「救い」の名前。


 つまり今日は、天国で会う約束をしている。


 だからこそ、ここで「チッ」を投げたら駄目だ。チッはブザーであって、武器じゃない。武器は鈴。「さぁ」。


 俺はチャットを開き、短く打った。


「承知しました。いま確認します。〆切の理由と最優先範囲だけ教えてください。どこまでが“本日中”ですか?」


 送信。


 返事が来るまでの数十秒、俺は机の上のりんごグミを一粒つまんで噛んだ。シャク、ではないけど、食感で割る。感情を砕いて、飲み込めるサイズにする。


 返事はすぐ来た。


「上が役員会に持っていく資料に差し込みたいそうです。数字部分が必須。文章は最低限でOKです」


 ほうじ茶が頷く。「焦げる前に火を弱めろ」

 コーヒーが言う。「数字が必須。文章は削れる」

 紅茶が微笑む。「相手の事情を受信できている」

 白湯が「よし」と言って、炭酸は「まだ走れる!」と暴れる。うるさい。


 俺は椅子を起こし、立ち上がった。第三の動きは終わり。次は足。


「了解です。数字とグラフ優先で、文章は見出しのみで仕上げます。二時間ください」


 送信。返事はスタンプだけだった。たぶん、助かったのは向こうも同じだ。


 タイマーを二時間にセットして、俺は集中に入った。

 画面の中の表は、最初はただの四角だ。でも、四角を並べているうちに、見える。線が。流れが。相手が欲しいのは「全部」じゃない。役員会に通る一本のラインだけ。


 途中で、隣の席の後輩が覗き込んだ。


「先輩、顔こわいっす」


「こわくない。線引いてるだけ」


「なにそれ。え、やばい宗教?」


「違う。ゼロか百かにしない手順」


 後輩は笑って、でも真面目に言った。


「手伝います? グラフ作るの、俺の方が早いっす」


 俺は一瞬、遠慮が顔を出した。いつもの癖。全部自分で抱えるやつ。白湯が肩を叩く。「受信機。助けを拾え」


「頼む。ここ、同じ数字を別の角度で見せたい。二種類、作ってくれ」


「了解!」


 後輩が椅子を引く音が、妙に頼もしかった。椅子は第三の動き。誰かが席に入ってくれると、世界が動く。


 二時間後。数字とグラフだけの資料が、シンプルに整った。文章は見出しと箇条書き。余白は多め。空白は、押し付けではなく、相手の呼吸の場所。


 送信ボタンを押した瞬間、肩の筋肉がほどけて、俺は息を吐いた。


「おつかれ。天国、間に合いそう?」


 スマホに千紗からメッセージが来ていた。相変わらず、こっちの心臓の小さな叫びを拾うのがうまい。受信機は、俺だけじゃない。


「間に合う。いや、間に合わせる。鈴、鳴ってる」


「いいね。凹凸、忘れずに」


「忘れない。刺さったら掴む」


 帰り支度をしていると、さっきの後輩がひょいと顔を出した。


「先輩、今日帰れます?」


「帰る。約束がある」


「じゃ、俺も帰るっす。風呂の約束」


「なんだそれ」


「自分との。天国は風呂っす」


 くだらない。けど、妙にいい。天国の形は、人それぞれだ。


 駅へ向かう道で、夕方の風が少しだけ涼しくなっていた。季節のスリット。夏と秋の間の薄い隙間。そこに風が通る。


 改札を抜けると、駅前の小さな広場に屋台が並んでいて、風鈴がぶら下がっていた。ガラスの透明が夕日を噛んで、きらっと光る。音が、降ってくる。ちりん、りん。遠くからでも聞こえる。


 千紗は、もういた。屋台の前で、一本の線みたいに立っている。白いシャツに、髪をひとつに結んで、足元はスニーカー。手には、紙袋。


 俺に気づくと、千紗は小さく鈴みたいに笑った。


「おかえり。今日中に、間に合った?」


「間に合った。危なかったけど」


「チッ、した?」


 俺は胸の前で指を二本立てた。


「しかけた。でも、ブザーで止めた。凹凸掴んだ」


「よし」


 千紗は紙袋から、りんごを一つ取り出した。赤い、つやつやのやつ。


「はい。食感で割る」


「今日も手順が完璧だな」


「手順があるから、完璧じゃなくていいの」


 俺たちはりんごをかじった。シャク。音が、気持ちを割る。歯の裏に残っていた「チッ」のささくれが、甘さに溶ける。


 千紗は屋台の風鈴を見上げて言った。


「ねえ。去年、ここで言ったじゃん」


「天国?」


「そう。『天国で会いましょう』って。あれ、ずっと好き」


 千紗がその言葉を口にすると、不思議と重くならない。天国は、遠い場所じゃない。帰り道の途中にある。風鈴の音が鳴る場所。約束が息をしている場所。


「俺も好き。今日の天国は、ちょっと短いけど」


「短くていい。長さで決まらない。凹凸みたいに、掴めれば」


 千紗は風鈴を一つ選んだ。透明なガラスに、細い青い線が一本だけ入っている。線。握れるライン。


「これにする」


「理由は?」


「ゼロか百かにしない色。青ってさ、冷たいだけじゃなくて、落ち着く。今日のあなたにちょうどいい」


 店主が短冊に名前を書いてくれるというので、千紗はペンを受け取った。そこに書いたのは、俺の名前でも千紗の名前でもなく、たった二文字。


「凹凸」


 俺は吹き出しそうになって、でも堪えた。ギャグに寄せすぎると、天国が逃げる。ここはちゃんと、刺さったままにしておきたい。


「真面目に書くとこだぞ」


「真面目だよ。刺さったときの手すり。短冊は、風に揺れて、思い出せる。受信機がバグったときのリセットボタン」


 風鈴を受け取って、千紗は紙袋に大事そうに入れた。


「帰ったら、窓に下げよう。風が通るスリット、あそこに」


「ベランダの?」


「うん。椅子も置こう。窓際に、ひとつ」


「椅子が第三の動きになるやつ?」


「そう。座るでも寝るでもない、ちょっと休む場所」


 俺は頷いた。生活の中に、天国の装置を仕込む。派手じゃない。けど、確かに効く。


 屋台の間を歩きながら、千紗が言った。


「今日、何が一番きつかった?」


 いきなり核心。千紗はいつも、相手の小さな叫びを拾う。拾うけど、抱え込まない。投げ返してくれる。背中を押す合図。


「『本日中』って言葉」


「理由は?」


「全部持っていかれる感じがする。今日の予定も、俺の呼吸も」


「うん。じゃ、次の運用。『本日中』が来たら?」


 千紗は指で、見えないマニュアルのページをめくった。


「チッ=ブザー→凹凸→一手、だろ?」


「そう。で、一手は?」


「範囲を聞く。理由を受信する。削れるところを探す。助けを拾う」


「完璧」


「完璧じゃなくていいって言ったのに」


「じゃあ、合格。七十点で天国」


 千紗は笑って、俺の腕に軽く肘を当てた。凹凸。ぶつかる、でも痛くない。手すり。


 帰り道、風鈴の音が少し遠ざかっていく。天国から現実へ、ゆっくり戻る。境界はスリットみたいに薄い。


 家に着くと、千紗はさっそく窓際に風鈴を下げた。短冊の「凹凸」が風に揺れて、紙がすれる音が小さく鳴る。


 ちりん。


 鈴と似ている。背中を押す音。


 俺はコップに水を注いで白湯の席を作り、千紗は紅茶をいれ、ほうじ茶は湯気で居場所を示し、コーヒーは香りで机を占領し、炭酸は冷蔵庫でぷしゅっと笑った。


 五人が揃うと、部屋の空気が少しだけ整う。


「ねえ」と千紗が言った。「今日の天国、どうだった?」


 俺は窓の風鈴を見て答えた。


「会えた。鈴の鳴る場所で、ちゃんと会えた」


「じゃあ明日も、明後日も。天国を作ろう」


「作れる?」


「作れるよ。大げさじゃなく。小さく。スリットみたいに。線みたいに。椅子みたいに」


 ちりん、と風鈴が鳴った。外の風が、少しだけ強くなったらしい。


 俺はその音を、受信機みたいに胸で拾って、口に出した。


「……さぁ」


 千紗が笑う。


「うん。さぁ、晩ごはん。りんご、もう一口いる?」


「いる。食感で割るの、まだ足りない」


「じゃ、もう一回シャクしよ」


 シャク。天国は、遠い場所じゃない。

 鈴が鳴って、風が通って、俺たちがちゃんと会える場所だ。

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