苛立ちを噛まずに逃がす
舌打ちって、音が小さいくせに、部屋の空気を切り裂く。
「チッ」。たったこれだけで、自分の中の何かが“尖ってる”ってバレる。
しかも、言った本人がいちばん後味悪い。逃げたのに、残る。
その日の朝、俺は自分に三回舌打ちした。
一回目は、靴下が片方だけ裏返っていたとき。
二回目は、スマホの充電が2%だったとき。
三回目は、駅の改札でICが反応しなかったとき。
「チッ」
出てしまった。
しかも、割と綺麗な「チッ」。自分で言うな。
改札の前で後ろが詰まって、俺は慌ててカードを出した。
通れたけど、肩が上がったままだ。
肩が上がると、苛立ちが育つ。苛立ちは、肩こりで増殖する生き物だ。
会社に着くまでの間に、俺の中の炭酸が泡立ちっぱなしだった。
炭酸「チッ案件多すぎ!」
コーヒー「遅れるな。時間割を守れ」
ほうじ茶「焦げるぞ。火加減」
紅茶「言葉を丸く。舌は尖らせない」
白湯「まず深呼吸」
(炭酸がうるさい)
午前、資料の数字が一桁ズレてるのを見つけた。
自分のミスじゃないのに、修正するのは俺。いつものやつ。
「チッ」
出そうになった。
口の端が勝手に準備してる感じ。
危ない。今日は、これが増えると“人に向く”。
俺は机の下でこっそり拳を握って、喉の奥で言った。
(凹凸)
手すり。刺さったときの合言葉。
言うと、舌の先が少し引っ込む。便利だな、凹凸。
昼休み、コンビニに行こうと席を立ったら、後輩が「先輩、これ…」とプリントを差し出してきた。
誤字。しかも今日提出。
「すみません、今、気づいて」
「……うん」
うん、の中にいろんな音が混ざる。
チッの音も混ざる。
でも、人に向けて鳴らしたら、それは武器じゃなくて刃物だ。
「直そう。どこが変?」
「ここと、ここと…」
「OK。順番。まず致命から」
自分の声が思ったより落ち着いていて、俺は内心で拍手した。
危ない音を別の音にすり替えられた。ギリ。
修正して、昼飯を買い損ねて、結局デスクでウィダーみたいなゼリーを吸った。
吸いながら思う。
(今日、チッが多いな)
帰宅が遅くなる日より、こういう“細かいのが刺さる日”の方が、じわじわ効く。
夜、家に帰って玄関を開けた瞬間、肩の力が抜けると思ったのに抜けない。
抜けないまま、靴を脱いで、つい。
「チッ」
言ってしまった。
靴ひもがほどけなくて。
ほんと、しょうもない。
その音を、千紗は逃さなかった。
「おかえり。……今の、チッ?」
キッチンから湯気と一緒に声が飛んできた。
白湯の匂い。質問より先に湯、うちの作法。
「ただいま」
「ただいま、は偉い。でも、チッは何」
「靴ひも」
「靴ひもに謝って」
言い方が妙に真顔で、俺は笑いそうになって、笑えなかった。
笑えないのが問題。
千紗が白湯を置く。湯気が上がる。湯気はいつも慌てない。
千紗は俺の親指の腹を軽くつまんだ。刺さりどころチェック。
「今日のあなた、舌が先に動いてる」
「……うん」
「受信機じゃなくて、放送局になってる」
「放送局って言うな」
「チッは、電波強い」
千紗は椅子に座って、テーブルをトントン叩いた。
座れ、の合図。
「事実」
「細かいのが多かった。改札、数字、誤字、昼飯抜き」
「気持ち」
「苛立ち。あと、悔しい。こんなんで苛立つ自分が」
「行動」
「チッって言っちゃう」
「うん。じゃあ手順。チッを禁止しない」
俺は眉を上げた。
「禁止しないの?」
「禁止すると増える。あなた、禁止されると炭酸が暴れる」
「当たってる…」
「だから、チッを“合図”にする。圧抜きのブザー」
圧抜き。
言われて、ちょっと救われた。
苛立ちは悪じゃない。溜まりすぎると爆発するだけ。
千紗は棚の上の小さな陶器の鈴を手に取った。
うちの武器。刃物じゃない方。
「鳴らす前に言って」
「……さぁ」
「ちりん」
鈴が鳴る。
その音で、部屋の空気が一段丸くなる。
「チッが出そうになったら、次はこれ」
「凹凸?」
「凹凸は手すり。今日はその次。『一手』」
千紗は指で空中に小さな矢印を書く。
「チッ(ブザー)→凹凸(手すり)→一手(動く)」
「一手って、将棋みたい」
「生活は将棋。詰まないための一手」
千紗は冷蔵庫から、りんごを出してきた。
最近の武器、食感。二枚だけ皿に置く。
「噛む?」
「噛む」
シャク。
音が、苛立ちの角を削る。
舌打ちの代わりに、噛む音が部屋に残る。こっちの音の方が平和だ。
「ねえ、今日、チッって言いたくなった瞬間、いちばんはどれ」
「昼の誤字」
「後輩に?」
「……向きそうだった」
「向かなくて偉い」
「褒めると恥ずかしい」
「恥ずかしいのは材料」
いつもの流れ。
でも今日は、その材料を具体にする。
「じゃあ、一手。明日、同じことが来たらどうする?」
「……まず深呼吸」
「いい。次」
「『今から直すね』って言う。チッじゃなくて」
「さらに次」
「後輩に“チェックの順番”を渡す」
千紗が頷く。受信機の頷き。
「ほら。チッのエネルギーを、刃物じゃない武器に変換できてる」
「変換…」
「うん。苛立ちは燃料。方向だけ変える」
俺は白湯を飲んだ。
温かいのが、喉の奥の“チッ”の棘を溶かす。
今日の苛立ちは、ただの悪じゃなくて、疲れと空腹と、少しの自尊心の擦り傷だ。
千紗が立ち上がって、メモ帳を持ってきた。
そこに太い字で書く。
『チッ=ブザー』
その下に、小さく。
『凹凸→一手』
「冷蔵庫に貼る?」
「貼るの恥ずかしい」
「恥ずかしいのは材料」
「万能すぎるな、その台詞」
結局、貼った。
冷蔵庫の扉に「チッ=ブザー」。
生活のど真ん中に、俺のダサい部分が堂々と掲示される。
でも、不思議と嫌じゃない。
隠して増えるより、見えて減る方がいい。
その後、風呂に入って、髪を乾かして、ソファに沈んだとき。
千紗がぽつりと言った。
「ねえ」
「ん」
「あなたのチッ、嫌いじゃないよ」
「え」
「嫌いじゃない。でも、刺さる日もある。だから合図にしたの、正解」
言い方が、優しいのに、逃げ道がない。
俺は照れて、目を逸らして、でもちゃんと言った。
「……ごめん」
「謝るより、一手」
「一手?」
「今、する一手」
千紗が鈴を手に取る。
鳴らす前に言うのが、うちのルール。
「……さぁ」
「ちりん」
俺は千紗の手を握った。
それだけ。
それだけで、舌の先の尖りが引っ込む。
「凹凸」
「凹凸」
合言葉を交わして、俺は今日の自分を少しだけ許した。
舌打ちは消えない。
でも、舌打ちを“合図”にできるなら、次は人を切らない。
明日、また改札が反応しなくても。
また数字がズレても。
また誤字が飛んできても。
「チッ」
そう鳴った瞬間に、俺は手すりを掴んで、一手だけ動く。
舌の音じゃなく、生活の音で、ちゃんと前へ行く。




