疑いを毒にしない手順
疑いって、音がしないのにうるさい。
脳内で「本当に?」「たまたま?」「やっぱり?」がドラムロールみたいに鳴って、目の前の現実が小さくなる。
その日の俺は、朝から“探偵”だった。しかも、腕が悪い探偵。
きっかけは、千紗のスマホの画面だった。
テーブルに置かれた端末が、通知で一瞬だけ光る。
『今日、例の件どうする? 19:30で押さえとく?』
送り主の表示名は「K」。
Kって誰だよ。って、俺の頭の中の炭酸が叫んだ。
千紗は白湯を注ぎながら、いつも通りに言う。
「おはよ。湯、先ね」
質問より先に湯。うちの作法。
なのに俺の目は、湯気じゃなくて「K」に吸い寄せられる。
「……おはよう」
「声、薄い。刺さった?」
「刺さったっていうか……今、俺の中で事件が起きた」
「事件?」
「Kが出た」
千紗は一瞬だけ瞬いて、すぐに平常運転の顔に戻った。
「Kね」
「ね、じゃない」
「ね、って言っちゃった」
「今の“ね”が怖い」
俺は自分でも情けないと思いながら、マグを握った。
白湯は温かいのに、胸の奥が冷える。
(疑い、来た)
疑いは、正義の顔で来る。
“確かめたほうがいい”って言いながら、勝手に心を尖らせる。
千紗が、さらっと合言葉を置く。
「凹凸」
「……凹凸」
手すりを掴むと、呼吸が一段落ちる。
落ちたところで、千紗は言った。
「今のあなた、受信機じゃなくて盗聴器になってる」
「言い方」
「違い、大事。受信機は“聞かせてもらう”。盗聴器は“勝手に拾う”」
ぐうの音も出ない。
俺は、視線を逸らして言う。
「……だって、知らない」
「知らないは事実。そこに、妄想を足すな」
「妄想足してない」
「足してる。あなたの眉が語ってる」
千紗はマグを俺の前に置いて、棚の鈴を指で弾いた。
ちりん。刃物じゃない武器。背中を押す合図。
「今日はね、ダウトの手順を作る」
「ダウトの手順」
「疑いを毒にしない。推理にしない。手順にする」
俺は白湯を一口飲んだ。
熱が喉を通って、言葉の角が少し丸くなる。
「手順って、どう」
「順番。事実→気持ち→質問」
「気持ち……は、嫉妬?」
「うん。嫉妬。あと、置いていかれる不安」
「うわ」
「“うわ”禁止。凹凸」
「凹凸……」
俺は観念して、正直に言った。
「……嫌だ。知らないKが、19:30を押さえるのが」
「よし。言えた。次、質問」
「……Kって誰」
千紗は肩をすくめた。
「聞けたじゃん。答える。Kは、香澄」
「……かすみ?」
「女友達。大学の同期。表示名、勝手にKにしてる。短いから」
短いから、って理由が生活っぽくて、妙に安心しそうになる。
なるのに、俺の炭酸がまだ泡立つ。
「19:30は?」
「今日、あなたの“例の”ヘッドホン、買いに行く?」
「……え」
「あなた、ずっと見てたでしょ。レビュー。親指の腹が好きって言ってたやつ」
「……」
「香澄に、店の在庫と取り置き聞いてただけ」
ここで、俺の中の五人が一斉に喋り始めた。
白湯「落ち着け。事実が出た」
紅茶「謝る準備」
ほうじ茶「焦げるな。まだ最後まで聞け」
コーヒー「時系列を確認しろ。誰が何をいつ」
炭酸「ほらな! でもちょっと悔しい!」
悔しいのは、当たって欲しかったからじゃない。
当たらなくてよかったのに、最初に疑った自分が恥ずかしい。
「……俺、何してんだろ」
「疑い方の練習中」
「練習って言うな」
「練習だよ。疑いはなくならない。扱いが上手くなるだけ」
千紗は軽く笑って、俺の手の甲を指でトントンした。
「ね、今日のダウト、まだ残ってる?」
「……ちょっと」
「どこが」
「Kが女友達でも、19:30押さえるとか、俺の知らないところで決まってるのが」
「そこね。疑いじゃなくて、置いていかれる感じ」
「うん」
千紗は頷いた。
受信機の頷き。
「じゃあ、線を引く。情報の線」
「情報の線?」
「“あなたに関係ある予定は、あなたに先に言う”って約束」
「……それ、欲しい」
「言えば作れる。言わないと、勝手に疑いが育つ」
俺は息を吸って、言った。
「……俺、そういうの、先に知りたい」
「うん。ごめん。今日はサプライズに寄せすぎた」
「サプライズ、下手」
「下手。あなた相手にサプライズすると、受信機が先に拾うから」
自虐がうまい。
俺は小さく笑ってしまった。笑えると、疑いの音量が下がる。
出勤しても、午前中は頭の片隅がざわざわした。
疑いは解けたのに、余韻が残る。
余韻は、雑にするとまた毒になる。
昼休み、俺は屋上に出て、ノートに一本線を引いた。
左に「事実」。右に「妄想」。
真ん中に細い通路。「質問」。
(疑ったら、真ん中を通る)
それが、今日の“ダウトプロトコル”。
自分用の取扱説明書。
夜、19:30。
駅前で千紗と合流する。
千紗はいつも通りの顔で、いつも通りじゃない袋を持っていた。紙袋の角が、やけに丁寧。
「行くよ」
「どこへ」
「耳の楽園」
言い方が雑で笑う。
店に着き、試聴ブースに入る。
千紗が店員と話して、俺が試して、うんうん唸る。
音が消えると、世界の輪郭がはっきりする。
“好き”が、ちゃんと自分の中で鳴った。
「……これ、好き」
「言えたね」
「言えたって言うな」
「言えたは材料」
結局、俺は買った。
買って、店を出たところで、千紗が小さな封筒を差し出した。
「はい。ダウト代」
「ダウト代?」
「今日、疑った分、払う。中身は“ごめん”と“約束”」
封筒の中には、付箋が二枚入っていた。
『関係ある予定は先に言う』
『疑ったら真ん中(質問)を通る』
俺は喉の奥が少し熱くなった。
こういうのは、嬉しいのに照れる。
「……凹凸」
「凹凸」
二人で言うと、歩道の雑踏が少し遠くなる。
帰宅して、白湯を飲んで、りんごを噛んだ。
シャク。
音が、今日の余計な泡を割る。
千紗が棚の鈴を手に取る。
「鳴らす前に言って」
「……さぁ」
ちりん。
音が、今日の終わりを丸くする。
「ねえ」
「ん」
「疑いって、なくすものじゃないんだね」
「うん。疑いは、心が大事を守ろうとするときに出る」
「守り方を間違えると、毒」
「守り方が上手いと、確認」
俺は封筒の付箋を冷蔵庫に貼った。
二枚の約束が、生活の真ん中に立つ。
疑いが来ても、次は推理じゃなく手順でいける。
「……俺さ」
「ん」
「今日、ちょっと恥ずかしかったけど」
「うん」
「千紗のこと、好きだなって思った。疑うほど大事って、面倒だけどさ」
「面倒は、生活」
「それ、最近万能すぎる」
「万能じゃない。ちゃんと手順がある」
俺は付箋の真ん中を指でなぞって、言った。
「真ん中、通る」
「うん。受信機、戻ってきた」
疑いの音は、もううるさくない。
代わりに、鈴の音が残る。
小さく、はっきり。




