ただ、が余白を守る
「ただ」って言葉は、逃げ道みたいな顔をしている。
「ただの偶然」「ただの好み」「ただ疲れてるだけ」。
そう言ってしまえば、いろんなものが小さくなる。小さくなるのは楽だ。
でも、小さくしすぎると、ほんとは大事なものまで、見えなくなる。
その日の帰り道、俺はコンビニの前で立ち止まって、スマホを見ていた。
千紗からのメッセージ。
『今日、ただいまって言う?』
質問が変。
でも千紗の質問はだいたい変で、変だから刺さりどころが少ない。
刺さりどころが少ないのに、ちゃんと当たる。
『言うよ。なんで?』
返すと、即レスが来た。
『言いたくない日っぽいから』
……受信機、こわい。
俺はスマホをポケットにしまって、店に入った。
買ったのはりんごでも炭酸でもなく、ただのプリン。安いやつ。
理由はない。と言いたい。
でも理由がないときほど、理由はだいたいある。
家に帰る。鍵を回す。
玄関の向こうは湯気の匂い。白湯。うちの作法、「質問より先に湯」。
「おかえり」
千紗がキッチンから顔を出す。
髪を適当に結んで、袖をまくって、目だけはピンポイント。
「ただいま」
言えた。
言えたけど、声がちょっと薄い。自分で分かる。
「言えたね」
「言えたって言うな」
「言えたは材料」
千紗は白湯のマグを俺に渡して、テーブルの上を指でトントン叩いた。
座れ、の合図。
「今日の“ただ”は?」
「ただ?」
「“ただ”って言いそうな顔してる。『ただ疲れただけ』って」
図星で、俺は笑えなかった。
笑えないときは、まず手すり。
「凹凸」
千紗が言う。
俺も言う。
「凹凸」
合言葉は、刺さったときの手すり。
マグの湯気が、喉を先に温めてくれる。
「事実から」
「……仕事で、褒められた」
「へえ」
「でも、喜べなかった」
「どうして」
「……ただ、って言いたくなったから」
千紗は頷いた。
頷き方が、否定じゃなく、受信のそれ。
「褒められたのに、喜べないの、あるね」
「ある。俺、性格悪い?」
「性格じゃなくて、容量。今日は容量が薄い日」
容量。
最近よく出てくる言葉。
“それだけ”で戻る日もある。
でも今日は、“それだけ”で戻れないかもしれない。
千紗は冷蔵庫から、味噌汁の鍋を出して温め始めた。
煮立つ音が、部屋の角を丸くする。
「褒められた内容は?」
「企画が通った。俺の案で」
「それ、すごいじゃん」
「すごいって言われると、余計、ただって言いたくなる」
「なんで?」
「……俺じゃなくても、通った気がする」
言った瞬間、胸の奥がチクッとした。
ささくれみたいな自己否定。
引っかかって痛いくせに、抜くのが怖い。
「それ、ただの謙遜?」
「……いや。怖い」
「何が怖い」
「俺が嬉しいって認めたら、次も期待される。期待に応えられなかったら、落ちる」
千紗は味噌汁の火を弱めて、俺の前に座った。
真正面じゃなく、少し斜め。圧をかけない角度。
「つまり、“ただ”は予防線だ」
「……うん」
「予防線は悪くない。だけどね、線を引きすぎると、檻になる」
「最近、線の話多いな」
「あなたが線の季節だから」
季節。
妙にしっくり来て、俺は少し笑った。
笑えると、ささくれが少し柔らかくなる。
千紗は棚の上の陶器の鈴を手に取った。
今日の武器。
「鳴らす前に言って」
「……さぁ」
ちりん。
音が鳴ると、部屋に小さな余白ができる。
余白ができると、“ただ”の下に隠れていたものが少し見える。
「ねえ」
「ん」
「“ただ”って言葉、二種類あると思う」
「二種類?」
「ひとつは、雑に逃げる“ただ”。もうひとつは、余白を守る“ただ”」
「余白を守る?」
「うん。今のあなたの“ただ”は、逃げじゃない。壊れないために余白を守ってる」
余白。
リオの“空白”じゃないけど、似てる。
余白がないと、次の一歩が入らない。
「じゃあ、俺の“ただ”は、必要?」
「必要。でも、使い方を選べる」
千紗は立ち上がって、引き出しから小皿を出した。
そこに、俺が買ってきたプリンを置く。
スプーンを二本。
「プリン、買ってきた」
「ただのプリン」
「ただのプリン、最高。今日は“ただ”を味方にする日」
俺はスプーンでプリンを掬った。
甘い。
ただ甘い。
その“ただ”が、胃のあたりにふっと灯る。
「今日、褒められたとき、何言った?」
「……ありがとうございます、だけ」
「それだけ?」
「それだけ」
「じゃあ、家で足す。ここで足す」
千紗は俺の目を見た。
圧はない。でも逃げ道は減る。
出入口はある。
「“嬉しい”って言って」
「……え」
「嬉しいって言うと檻になるなら、スリットで言う。細く」
スリット。
細く通す。ゼロか百かにしない。
俺は一回、白湯を飲んで、喉を温めた。
「……ちょっと、嬉しい」
「いいね。今のが余白を守る“ただ”」
千紗は頷いて、プリンを一口食べた。
「甘い」
「ただ甘い」
「ただ甘い、って言える日は強い」
強い。
強いって言われると、また予防線を張りたくなる。
でも今日は、その前に手すり。
「凹凸」
「凹凸」
二人で言うと、部屋の温度が一定になる。
千紗は味噌汁をよそって、俺の前に置いた。
湯気が上がる。
湯気は、ただ上がる。
ただ、が、今日は良い顔をしている。
「ねえ、明日も“ただ”って言いそう?」
「言いそう」
「じゃあ、準備しとく。明日の“ただ”は、逃げじゃなく、余白の合図って決めとく」
「決めるだけでいい?」
「決めるだけで違う。線は約束だから」
俺は味噌汁を飲んだ。
しみる。
ただ、しみる。
それだけで、今日はもう十分だと思えた。
棚の鈴を手に取る。
鳴らす前に言う。
「……さぁ」
ちりん。
音が、今日の終わりに丸い印をつける。
俺は最後に、もう一回だけ言った。
「……ただいま」
「うん。おかえり」
ただ。
それだけ。
でも、それだけが、明日へ繋がる。




