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好きの言語化は背中を押す

 「そんなに好きなら好きって言っちゃえば?」


 朝、歯磨き粉のミントが強い口のまま、千紗が言った。

 言い方が軽いのに、刺さり方はピンポイントで、俺はうがいの水をちょっとだけむせた。


「……何の話?」

「今のあなたの“好き”の話」

「好きって、何」

「それが分かってない顔してるのが、もう好き」


 同居恋人の千紗は、白湯のマグをテーブルに置く。湯気がゆっくり上がって、朝の空気に丸みを作る。

 質問より先に湯。うちの作法。


 俺はスマホを見た。

 昨日からずっと、同じページを開いている。ヘッドホンのレビュー。新しいやつ。

 別に買うと決めたわけじゃない。ただ、見てるだけ。……のはず。


「……これ?」

「それ。あなた、三日くらい“見てるだけ”って言いながら、毎日同じとこ撫でてる」

「撫でてない」

「親指の腹が“好き”って言ってる」


 親指の腹で感情を暴かれるの、結構恥ずかしい。

 俺はマグを握って、湯気に顔を近づけた。熱でごまかす。


「欲しいだけだよ」

「欲しい、も好きの仲間。で、何が怖い?」

「……言うと、決めなきゃいけない気がする」

「ほら。好きって言うと、線を引いた気がするんだ」

「うん」

「でも線は檻じゃない。戻れるための約束だよ」


 千紗は淡々と言い切って、棚の上の小さな鈴を指で弾いた。

 ちりん。

 刃物じゃない武器。背中を押す合図。


「今日の合言葉、凹凸」

「凹凸」


 刺さったときの手すり。

 言ったら、少し呼吸が戻る。


「で、朝の練習。言ってみて」

「え、何を」

「“俺はこれが好き”」


 唐突に告白の稽古が始まった。朝だぞ。

 でも千紗はこういうとき、逃げ道を塞がない。出入口を作る。


「……俺は、音が好き」

「いいね。もっと具体」

「……ノイズキャンセルが強い音」

「音じゃないじゃん」

「音の消え方が好き」


 言った瞬間、自分でも「ちょっと詩っぽいな」と思ってしまい、照れが走る。

 千紗は笑わない。そこが優しい。


「よし。もう一回。今度は“好き”って言葉をちゃんと入れて」

「……俺、音の消え方が好き」

「はい、できた」

「できたって言うな」

「できたは材料。今日持ってけ」


 千紗は弁当袋の横に、りんごの小さいタッパーを置いた。二枚だけ入ってる。


「それだけ?」

「それだけで戻れる日もある」

「俺の扱いが、だんだん“整える対象”になってない?」

「受信機は、対象を整えるんじゃなくて、対象が整う道具を渡すの」


 言い返せない。

 俺はタッパーを鞄に入れて、玄関で靴を履いた。


「じゃ、行ってくる」

「いってら。好き、言ってこい」

「どこで」

「必要なとこで」


 必要なとこ。

 その言い方が、今日いちばん効いた。


     ◆


 会社では、好きと言う場面が思ったより多い。

 でもみんな、好きって言わない。

 代わりに言う。「いいですね」「助かります」「それ、アリです」。


 午前の会議で、新しい企画の方向性が揉めた。

 正しさが二つ並ぶと、空気が固くなる。ジレンマの匂い。


「ユーザー視点だと、Aの方が分かりやすいです」

「でも、差別化ならBでしょ」

「Aは守りすぎ」

「Bは攻めすぎ」


 声が重なって、誰も“決める”を口にしない。

 俺の内なる五人が席に着く。


 白湯「落ち着け。事実」

 紅茶「言葉を丸く」

 ほうじ茶「焦げるな」

 コーヒー「数字で切れ」

 炭酸「勢い! どっちか行け!」


(炭酸がうるさい)


 そこでふと、千紗の朝の言葉が浮かぶ。

 好きと言うと、線を引いた気がする。

 でも線は檻じゃない。


 俺は口を開いた。


「……俺、Aが好きです」


 言った瞬間、会議室が静かになった。

 “好き”って、こんなに音がするんだなと思った。

 真面目な場で出すと、余計に。


 でも、続ける。勢いじゃなく手順で。


「好きって言うと軽いかもですけど、Aの“分かりやすさ”が好きです。ここを軸にして、Bの差別化は後付けで盛れる。順番を守りたい」


 上司が眉を上げた。否定じゃない、興味の動き。


「順番、か」

「はい。いきなり差別化を前に出すと、迷子が増える気がします」


 誰かが小さく頷いた。

 空気が一段、柔らかくなる。

 好き、という言葉が、場の硬さを割って、間を作った。


「なるほどね。じゃあAで骨組み作って、Bの要素を刺す」

「刺すって言うなよ」

「刺さない、通す。……スリットで」


 隣の先輩が妙に嬉しそうに言って、会議室に小さな笑いが起きた。

 ギャグに寄せすぎない程度の救命具。

 俺は内心で息を吐いた。うまく行った。


     ◆


 昼休み。

 コンビニ前のベンチで、俺はりんごを一枚噛んだ。


 シャク。


 音が、胸の奥の緊張を割る。

 割れたところから、さっきの自分の声が出てくる。


(俺、会議で“好き”って言った)


 ちょっとだけ誇らしい。

 ちょっとだけ恥ずかしい。

 この両方が、生きてる感じだ。


 そこへ後輩が来た。

 いつも元気なやつが、今日は靴紐みたいに顔がほどけている。


「先輩、ちょっといいすか」

「凹凸?」

「え、凹凸って何すか」

「刺さったときの手すり。今、何刺さってる?」

「……好きって言えないのが刺さってます」


 いきなり来た。今日のテーマ、回収が早い。


「誰に」

「同じ部署の人っす。……好きだと思うんすけど、言ったら壊れそうで」


 壊れそう。

 好きって言うと、線を引いた気がする。

 でも線は檻じゃない。

 朝からずっと同じことを思っている。


「好きって言うと、何が壊れる気がする?」

「今の距離。ちょうどいい距離が」


 距離。

 確かに、言葉は距離を変える。

 でも、変えないために言わないのも、距離を変える。

 沈黙はじわじわ動く。


「じゃあ、スリットで言え」

「スリット?」

「細く通す。ゼロか百かにしない」


 俺はりんごをもう一口噛んで、考えながら言った。


「たとえば、“好きかも”って言うのはどうだ」

「ダサくないすか」

「ダサいかどうかは置いとけ。大事なのは“通す”こと」

「……好きかも」

「あと、好きって言う対象を少しズラす。人じゃなくて、相手のやってることを好きって言う」

「え」

「“その話し方、好き”とか。“それ選ぶセンス、好き”とか」


 後輩が目を丸くした。

 何かがほどけた顔。


「それ、言えるかも」

「言えるなら勝ち。言えたら材料」


 後輩が笑った。

 笑いは、決意の背中を押す。


     ◆


 夜。

 帰宅してドアを開けると、湯気の匂いがした。

 千紗がキッチンから顔を出す。


「おかえり。今日、好き言えた?」

「……言えた」

「どこで」

「会議で」

「会議で!?」

「自分でも驚いてる」


 千紗はマグを二つ持ってきて、俺の前に白湯を置いた。

 質問より先に湯。

 そして、受信機の目で俺を見る。


「詳しく」

「A案が好きって言った。理由も言った。空気がちょっと良くなった」

「好きが、場を整えた」

「うん。好きって、武器だな」

「刃物じゃない方のね」


 千紗が棚の鈴を取った。

 鳴らす前に言うのが、うちのルール。


「言って」

「……さぁ」


 ちりん。

 音が部屋の角を丸くする。


「で、あなたの本日の“本命の好き”は?」

「え」

「会議の好きじゃなくて、生活の好き」


 突然、矢印がこっちに戻る。

 俺は白湯を一口飲んで、逃げ道を探して、やめた。

 今日は必要なとこで言う日だ。


「……千紗が好き」

「知ってる」

「知ってる、じゃなくて……言う。千紗が好き」


 言った瞬間、千紗は一度だけ目を瞬いた。

 驚いた顔。

 驚くんだ、今さらでも。そこが可愛い。


「そんなに好きなら好きって言っちゃえば?」

「それ、朝言ってたやつ」

「うん。答え合わせ」


 千紗は笑って、俺の肩にもたれてきた。

 重さがちょうどいい。

 言葉があると、体温がもっと意味を持つ。


「ねえ」

「ん」

「好きって言葉、雑に使うと軽いけど、ちゃんと使うと重いね」

「重いの、嫌じゃない?」

「嫌じゃない。重いのは、持てるってことだから」


 千紗の言い方は、いつも生活の側にある。

 俺はその“生活の言葉”が好きだ。


 俺はもう一つ、言うべきことを思い出した。

 鞄から、例のヘッドホンのページを開くスマホを取り出す。

 千紗に見せる。


「俺、これ、好き」

「知ってる」

「知ってる、じゃなくて言う。俺、音の消え方が好き。だから、これ買いたい」

「はい、決めた」

「決めた」


 決めたら、怖さがちょっと減った。

 線を引いた気がするけど、檻じゃない。

 明日、買わない選択だってできる。

 でも今日は、好きが通った日だ。


「凹凸」

「凹凸」


 合言葉を交わして、千紗が小さく言った。


「好きって言える人、かっこいい」

「褒めると恥ずかしい」

「恥ずかしいのは材料」


 いつものやつ。

 俺は笑って、りんごを一口噛んだ。


 シャク。


 音が、今日の終わりに句読点を打つ。

 好きって、言ってしまえば、それだけ。

 でも、その“それだけ”が、案外いろんなものを支えてる。

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