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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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小さな一言が一日を支える

 「それだけ」って言葉は、軽いふりが上手い。

 おまけみたいな顔をして、実は心臓の真ん中に居座る。

 言われた側は「それだけ?」って聞き返したくなるし、言った側は「それ以上は言えない」って顔をする。


 その日の朝、俺は玄関で靴を履きながら、千紗に言った。


「今日、帰り遅くなる」

「何時」

「……二十二時くらい」

「了解。それだけ?」

「それだけ」


 言った瞬間、千紗の目が細くなった。

 受信機の目。

 “それだけ”の裏を拾いにくる目。


「それだけって言うとき、だいたいそれだけじゃない」

「それだけだよ」

「じゃあ確認。事実」

「仕事が詰んでる」

「気持ち」

「……疲れてる」

「行動」

「……帰って寝る」


 千紗は白湯のマグを俺の手に押し付けた。

 質問より先に湯。うちの作法。


「それだけ、で終わらせない。終わらせるなら“武器”置いて」

「武器?」

「刃物じゃない方。今日は短いやつ」


 千紗は棚の上の小さな鈴を指で弾いた。ちりん。

 音が、玄関の空気を少し柔らかくする。


「合図?」

「うん。今日のあなたは、長い言葉が無理そう。だから“それだけ”で支えるなら、支える用の“それだけ”を作る」

「支える用のそれだけ……?」


 千紗は冷蔵庫から小さいタッパーを出してきた。

 中に、りんごのスライスが二枚だけ入っている。

 え、少な。


「少な」

「それだけ」

「攻めてくるな」

「攻めない。これが今日の“それだけ”」


 千紗はタッパーの蓋に付箋を貼った。

 そこに、二文字。


『凹凸』


「刺さったら、これ。噛んで、言って、それだけで戻る」

「戻る?」

「戻る。あなたがあなたに。仕事が飲み込みそうな日に、最低限の手すり」


 最低限。

 それだけ。

 でも、最低限があると、崩れない。


 俺はタッパーを鞄に入れて、千紗の頬に軽く触れた。

 触れ方も、短い。それだけの触れ方。


「行ってくる」

「いってら。凹凸」

「凹凸」


 合言葉を交わして、ドアを閉めた。


 午前中から、会議と会議の間に会議が生えた。

 生えた、って言い方が一番しっくりくる。勝手に増える。

 チャットも鳴る。メールも増える。

 「今日、遅くなる」が現実になるほど、気分が薄くなる。


 昼過ぎ、上司が言った。


「今日中に、これ、方向性固めたい」


 今日中。

 また来た。二択の刃。

 俺は頷きながら、胸の奥で「そりゃないぜ」が小さく芽を出すのを感じた。

 でも叫べない。叫ぶ体力がない。

 だから、今日は“それだけ”で耐える。


 トイレの個室に入って、鞄からタッパーを出した。

 りんご、二枚。

 それだけ。


 一枚目をかじる。


 シャク。


 音が、頭の中の絡まりを割る。

 割れると、ほんの少しだけ間ができる。

 間ができると、呼吸が戻る。


 二枚目をかじる。


 シャク。


 そして、声に出さない程度に口を動かす。


(凹凸)


 それだけ。

 それだけで、戻れた気がした。

 “戻れた気がする”くらいでいい。今日はそれで十分。


 席に戻って、コーヒー担当の声が言う。

 時間割。数字。締切。

 ほうじ茶担当が言う。焦げるな。温度を見ろ。

 紅茶担当が言う。言葉を丸く。

 炭酸担当が言う。勢い!

 白湯担当が言う。順番。


 内なる五人がいるのはいつもと同じ。

 でも今日は、議長がいない。

 だから、議長席に“それだけ”を置く。


 俺はホワイトボードに、一本線を引いた。

 左に「今日中に決めること」。

 右に「明日に回すこと」。

 その間に細い通路。「保留箱」。


「今日はここまで。それ以上は明日」


 口に出したら、会議室の空気が少しだけ整った。

 誰かが「助かる」と言った。

 助かる、って言葉は、小さいのに効く。

 それだけで、人は立てる。


 夜、残業は予想通り伸びた。

 気づけば二十二時。

 電車の窓に映る自分の顔が、塩こしょうのままだった。


 帰宅してドアを開けると、湯気の匂いがした。

 千紗が玄関まで来て、俺の顔を見る。


「おかえり。生きてる?」

「ギリ」

「それだけ?」

「……それだけ、じゃない」


 言えた。

 言えたのは、たぶん、りんご二枚のおかげだ。

 それだけ、って言葉の裏を、ちゃんと拾えるくらいには戻ってきた。


 千紗は白湯を渡して、俺の肩に手を置いた。

 押すんじゃなく、置く。

 その重さが、今日の終わりの印。


「じゃあ、少しだけ出して。事実」

「会議が増えた。今日中が多かった」

「気持ち」

「しんどい。でも、折れなかった」

「行動」

「帰って、寝る」


 千紗は頷いて、棚の鈴を取った。

 鳴らす前に言うのが、うちのルール。


「言って」

「……さぁ」


 ちりん。

 音が鳴ると、今日の仕事の空気が、玄関に置いていける気がする。


「ねえ」

「ん」

「“それだけ”って、悪い言葉じゃない」

「うん」

「でも、雑に使うと、自分を削る」

「うん」

「だから、支える用の“それだけ”を持つ。今日みたいに」


 千紗は俺の鞄から空のタッパーを取り出して、洗い場に置いた。

 そして、明日用にまた二枚、りんごを入れた。


「毎日二枚?」

「毎日じゃない。でも、必要な日は二枚」

「二枚ってのが絶妙に少ない」

「少ないから効く。全部じゃないから続く」


 俺は笑って、ソファに沈んだ。

 千紗が隣に座る。肩が触れる。

 触れるのも、それだけ。


「凹凸」

「凹凸」


 合言葉を交わして、俺は目を閉じた。

 今日を支えたのは、大げさな言葉じゃない。

 りんご二枚と、二文字と、湯気と、鈴の音。

 それだけ。

 ……でも、生活にはそれだけで、十分な日がある。

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