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別れを“終わり”にしない言い方

 別れの言葉って、軽い方が難しい。

 「さようなら」より、「またね」より、

 「それじゃあバイバイ」は、手のひらで押し返せる分だけ、心の奥に残る。


 その日の夕方、俺は駅前のベンチでコーヒーを握りしめていた。

 待ち合わせは、母。

 “夕方なら”の約束で会うことになっていた。

 昨日の焦れが、今日は別の形で胸にいる。焦れじゃない。緊張だ。


 改札から出てきた母は、思ったより小さかった。

 いや、母が小さくなったんじゃない。俺が勝手に、昔のサイズで覚えてただけだ。


「久しぶり」


 母の声は、相変わらず短い。

 短いのに、体温がある。

 俺は返事を探して、ちょっと遅れて言った。


「久しぶり。……元気?」

「まあね。あなたは」


 質問を返されると、逃げ道が塞がる。

 でも今日は塞がない。スリットで通す日だ。


「元気……って言うと雑だな。忙しいけど、ちゃんと寝てる」

「ちゃんと寝なさい」


 母は、やっぱり母だった。

 その一言が、懐かしくて、少し刺さる。

 刺さるけど、痛いだけじゃない。

 “守り方”の癖が、まだ残ってる。


 駅前の小さな喫茶店に入った。

 席に座ると、母はメニューを見ずにホットを頼んだ。

 俺も同じにした。合わせたくなった。


「……話したいって、姉ちゃんから聞いた」

「うん」


 母はカップの縁を指でなぞりながら言う。

 その指が、ほんの少し乾いて見えた。

 ささくれの匂いがした。生活の棘。


「何を話すの」

「何でもない」


 出た。

 母の「何でもない」。

 姉が嫌がる黙り方の入口。

 俺の胸の奥に、「そりゃないぜ」が芽を出しかけた。


(凹凸)


 心の中で手すりを掴む。

 千紗の声が脳内に来る。

 “『何でもない』の横に別の質問を置け”。


「……今日、何食べた?」

「え?」


 母が一瞬、顔を上げた。

 その反応だけで、俺は半分成功した気がした。

 生活の質問は、妙に強い。


「何食べた。昼」

「……うどん」

「うどん。いいね。あったかい?」

「普通。ぬるい」


 ぬるい、の言い方が少しだけ笑えた。

 母が笑わせようとしてないところが、余計に。


「ぬるいうどん、悲しいな」

「悲しいね」


 母が小さく笑った。

 笑った、だけで、喫茶店の空気が少し動く。

 空気が動くと、話が通る。


「母、さ」

「うん」

「“何でもない”って言うとき、だいたい何かあるよね」

「……ある」


 認めた。

 母が認めるときって、決まって声が小さくなる。

 小さい声は、受信機じゃないと拾えない。


「姉ちゃんには、言いにくい?」

「言いにくいっていうか……面倒かけるのが嫌」

「面倒、って言い方は刺さる」

「じゃあ……心配させたくない」


 母の言い換えが、ちょっとだけ柔らかい。

 俺はそれを拾って、返す。


「心配は、するよ。でも、心配のままでも生きられる」

「あなた、変なこと言うね」

「千紗の影響」


 言ったら、母は「そう」とだけ言って、カップを持ち上げた。

 湯気が揺れる。

 その揺れが、母の気持ちの揺れみたいに見えて、俺は目を逸らさずに見た。


「……母、体調どう」

「まあまあ」

「まあまあ、の内訳が知りたい」

「……最近、階段がね」


 階段。

 たった三文字で、生活の重さが見える。

 俺の胸の奥に、焦れが戻ってきた。

 でも焦れは敵じゃない。間を持つ。


「膝?」

「膝じゃない。息」

「息……」

「上がるのが早い」


 母は言って、すぐに視線を落とした。

 恥ずかしいんだと思う。Nobilityの恥ずかしさ。

 弱さを見せるのが、照れるタイプの。


「病院、行った?」

「行ってない」

「……そりゃないぜ」


 口から出た。

 思ったより自然に。

 母が目を丸くした。


「なにそれ」

「最近、うちで流行ってる。理不尽に対して言うやつ」

「理不尽?」

「母が自分の体を後回しにするの、理不尽」


 言ってから、言い方の角を自分で感じた。

 でも、母は怒らなかった。

 その代わり、少しだけ眉を寄せた。


「……あなたに面倒かけたくないって言った」

「面倒じゃない。順番」

「順番?」

「母が先。俺たちは後。今日は、その順番を守る話」


 言い切ると、母の手がカップの取っ手を強く握った。

 その握り方が、ささくれみたいに小さな抵抗だ。


「……じゃあ、どうすればいい」

「まず、予約取る。俺が一緒に行く日、作る。夕方なら、作れる」

「あなた、忙しいんじゃないの」

「忙しいけど、線を引く。ここは生活側」


 母は黙った。

 黙り方が、姉が嫌がる黙り方とは少し違った。

 これは、考えてる黙り方だ。


「……分かった。考える」

「“考える”は保留?」

「うん。保留。でも、ゼロじゃない」


 俺はほっとした。

 ゼロじゃない。

 スリットが通ってる。


 時計を見ると、もういい時間だった。

 母はカップの底を見て、立ち上がる。


「じゃあ、そろそろ」

「うん」


 店を出て、駅まで歩く。

 母の歩幅は小さい。

 でも今日は、俺が合わせる。でか歩じゃなく、待ち歩。


 改札の前で、母が振り返った。

 いつもなら「じゃ」と言って終わるところで、母は少しだけ口を開いた。


「……姉には、言わないで」

「言わない。母が言う」

「うん」


 母が頷いた。

 その頷きが、今日の一番大きな一歩だった。


 そして、母は言った。


「それじゃあ……バイバイ」


 言い方が、軽い。

 軽いのに、こっちの胸に残る。

 押し返せる分だけ、手のひらに熱が残る。


 俺も同じ言葉を返した。


「それじゃあ、バイバイ」


 母は改札を通って、振り向かずに歩いていった。

 背中が小さい。

 小さい背中は、守りたい気持ちを呼ぶ。

 でも守るのは、抱え込むことじゃない。順番を守ることだ。


 帰宅すると、千紗が玄関で俺の顔を見た。

 湯気の匂いがして、白湯が待っていた。


「おかえり。どうだった」

「短く、通せた」

「スリット?」

「スリット。『何でもない』の横に『何食べた』置いた」

「えらい」

「褒めると恥ずかしい」

「恥ずかしいのは材料」


 千紗がいつもの文句を言って、少し笑った。

 俺は棚の鈴を手に取った。

 鳴らす前に言う。


「……さぁ」


 ちりん。

 音が、今日の別れに丸い印をつける。

 終わりじゃない印。


「ねえ」

「ん」

「“それじゃあバイバイ”って、いいね」

「終わらせない別れだから」

「終わらせない、か」

「うん。続きがある前提の言い方」


 俺は白湯を飲んで、息を吐いた。

 別れは寂しい。

 でも、終わりにしない言い方があるなら、寂しさは“間”になる。


 明日、母に病院の予約の話をもう一度する。

 そのときも、重くしすぎず、軽くしすぎず。

 押し返せる手のひらの距離で。


「凹凸」

「凹凸」


 合言葉を交わして、俺は母の背中を思い出した。

 小さい背中に向けて、心の中でだけ言う。


(それじゃあ、またね)

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