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理不尽に飲まれないための一言

 「そりゃないぜ」って言葉は、叫びじゃなくて“ため息の形”だと思う。

 怒鳴るほどの元気はない。けど、飲み込むには大きすぎる。

 喉の手前でひっかかって、ちょっとだけ熱い。


 その日の朝、俺の口から最初に出た言葉がそれだった。


「……そりゃないぜ」


 洗面所で歯を磨きながら、スマホの通知を見てしまった。

 社内チャット。部長からの全体メンション。


『昨日の納品資料、誤記がありました。原因は確認不足です。担当は再発防止を。』


 担当は、俺の名前だった。

 いや、正確には“作成担当”は俺だけど、最終チェックは別チームのはずで、しかも誤記の箇所は俺の作業範囲じゃない。

 なのに、俺の名前だけが、まるっと矢印を受けている。


「……そりゃないぜ(二回目)」


 背後から、湯気の匂いが寄ってきた。


「おはよう。朝から“そりゃないぜ”濃いね」


 同居恋人の千紗が、白湯のマグを片手にドア枠にもたれている。髪はざっくり、目はしっかり。受信機の顔。


「おはよう。見た? これ」

「見てないけど、受信した。刺さった?」

「刺さったっていうか……理不尽が刺さった」


 千紗は俺の手からスマホを奪わず、代わりに白湯を置いた。

 質問より先に湯。うちの作法。


「凹凸」

「凹凸、了解……」


 合言葉を口にしたら、歯磨き粉のミントが少しだけ柔らかくなった気がする。気のせいだとしても、効くからいい。


「事実から言って」

「部長が全体に、誤記があったって。担当は俺って」

「誤記はどこ?」

「俺の範囲じゃない」

「気持ちは?」

「腹立つ。あと、恥ずかしい。全体って、晒しだろ」

「行動は?」

「今すぐ反論したい」


 千紗は一回頷いて、湯気の上で指を折った。


「反論の前に、武器」

「武器?」

「刃物じゃない方。あなたの場合、言葉の角が刃になる日」


 言われて、自分の顔が“角ばってる”のが分かった。

 こういう日は、正しさを振り回すと刺さる。相手も自分も。


 千紗は棚の上の小さな鈴を手に取った。陶器の、柔らかい音のやつ。


「鳴らす前に言って」

「……さぁ」


 ちりん。

 音が鳴ると、怒りが一段だけ下に降りる。冷めるんじゃない、整理される。


「よし。今日は“そりゃないぜ”を、叫びにしない。手順にする」

「手順?」

「誰に、何を、いつ、どう言うか。感情じゃなく、線を引く」


 線。最近よく出るやつだ。

 俺は白湯を飲んで、喉の引っかかりを少し流した。


「まず、事実の回収。誤記の該当箇所、誰が触ったログ、ある?」

「あるはず。履歴残る」

「じゃあ履歴。次に、最終チェックの担当。最後に、部長に“全体”じゃなく“個別”で言う」

「全体で名指しされたの、地味に効く」

「地味が一番効く。だから地味に戻す。あなたは“騒がないで正確に刺す”タイプ」


 千紗の言い方が、ちょっと面白くて、俺は鼻で笑った。

 笑えると、怒りが暴れにくい。


「刺すって言うな」

「刺さない。通す。スリットで」


 スリット。隙間を作って通す。

 俺は歯ブラシを置いて、顔を洗った。水が冷たい。冷たいのは助かる。余計な熱を持っていかれる。


 通勤中、社内チャットの未読が増えるたび、胸の奥の「そりゃないぜ」が育っていくのが分かった。

 既読の点が増えると、世界が勝手に俺を見ている気がする。見てないのに。


 会社に着いて、まず履歴を見た。

 誤記の箇所は、最終チェックの段階で、別の人が“ついで”に直していた。直して、間違えていた。

 証拠はある。だから勝てる。……はずなのに、勝ちたい気持ちが先に出ると、やっぱり角が立つ。


 隣の席の後輩が、気まずそうに声をかけてきた。


「先輩……大丈夫ですか」

「大丈夫。って言いたいけど、そりゃないぜ案件」

「そりゃないぜ案件……」

「でも、凹凸」

「え?」

「手すり。刺さったときの」


 後輩が少し笑った。

 この程度の軽さが、今の俺には必要だった。ギャグに寄せすぎない程度の救命具。


 昼前、部長に個別チャットを送る。

 文章は短く、でも角は丸く。紅茶担当の声が頭の中で囁く。


『共有ありがとうございます。該当箇所の履歴を確認したところ、最終チェック段階で内容が更新されていました。再発防止のため、確認フローも含めて整理したいです。お時間5分いただけますか。』


 送信。

 送った瞬間、心臓が一回跳ねた。

 “戦う”ってより、“線を引く”に近い跳ね方。


 返事はすぐ来た。


『今、来て。』


 短い。短いのは怖い。

 でも、短いのは“余計な感情が乗ってない”可能性もある。

 俺は席を立った。


 部長席の前。

 扉は開いている。入っていい合図。

 俺は心の中で言った。


(さぁ)


 入室すると、部長はモニターから目を上げて、あっさり言った。


「悪かった。全体で名前出したのは早計だった」

「……え」

「誤記、君じゃない。確認した。先方に出す前に気づけたのは助かった」


 拍子抜けするくらい、謝罪が先に来た。

 俺の中の「そりゃないぜ」が、行き場を失って、宙でぴょんと跳ねた。


「ただ、フローが甘いのは事実だ。だから、再発防止は君と一緒に作りたい」

「……はい。作ります」


 勝った、というより、救われた、の方が近かった。

 理不尽って、相手が悪いときもあるけど、相手が“忙しいだけ”のときもある。忙しさは、言葉を雑にする。


 部長が続けた。


「君、怒ってるだろ」

「……正直、ちょっと」

「それはそうだ。ごめん。あと、全体の場は俺が戻す。君の名前は消す」


 その一言で、胸の奥の引っかかりがほどけた。

 俺は深く頭を下げて、席に戻った。


 戻る途中、後輩が目で「どうでした?」と聞いてくる。

 俺は小さく親指を立てた。

 後輩が、ほっとした顔をする。

 ああ、俺一人の問題じゃなかった。周りも、空気を吸ってる。


 夕方、再発防止のミーティングが始まった。

 こういうのは、正論が正義になりやすい。

 でも今日は、正論で殴らないと決めた。


 俺はホワイトボードに、二本の線を引いた。

 左に「作成」、右に「確認」。

 真ん中に細い通路。「差分確認」。


「ここ、通路を作りましょう。誰かが“ついで”に直したとき、足跡が残るように」


 部長が頷く。

 他チームの人も頷く。

 線は、人を責めるためじゃなく、溶けないための約束になる。

 その感覚が、少し嬉しかった。


 帰宅したのはいつも通り。

 玄関を開けると、湯気の匂いがした。千紗はいつだって、家の空気を先に整える。


「おかえり。顔、角取れた?」

「取れた。……取れたけど、朝の俺に言いたい」

「何を」

「そりゃないぜ、って言っていい。でも叫ぶな、って」


 千紗は「うん」と短く頷いて、冷蔵庫からりんごを出してきた。

 最近の武器。食感。


「噛む?」

「噛む」


 シャク。

 音が、今日の余熱を割っていく。

 怒りの熱も、恥ずかしさの熱も、噛むと“今日の出来事”に戻る。燃え続けるやつじゃなくなる。


「で、今日の“そりゃないぜ”は、どう処理した」

「凹凸で手すり掴んで、履歴回収して、部長に個別で言った」

「えらい」

「褒めると恥ずかしい」

「恥ずかしいのは材料」


 千紗がいつもの文句を言って、ちょっとだけ笑った。

 俺も笑った。

 笑えると、理不尽が“ただの傷”じゃなく“次の手順”になる。


「ねえ」

「ん」

「“そりゃないぜ”って、言葉としては弱いけど、ちゃんと自分を守る言葉だよ」

「守る?」

「うん。“これは普通じゃない”って自分に知らせるブザー。受信機用の」


 なるほど。

 俺は棚の鈴を見た。

 うちの武器は、鈴と、二文字と、湯気と、噛む音。

 そしてたぶん、“そりゃないぜ”も仲間入りだ。


 俺は鈴を手に取った。

 鳴らす前に言う。


「……さぁ」


 ちりん。

 音が、今日の終わりを丸くまとめる。


「凹凸」

「凹凸」


 合言葉を交わして、俺は思った。

 理不尽は消えない。

 でも、理不尽に飲まれない線は引ける。

 「そりゃないぜ」は、その線を引く最初の小さな合図なんだ。

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