揺れる日も越えられる一本を引く
線って、ただの一本なのに、決める力がある。
越えたら戻れない気がしたり、越えないと進めない気がしたり。
人は勝手に、線に意味を背負わせる。
その日の朝、俺はテーブルの上に、白い紙を一枚置いた。
理由は単純で、頭の中が散らかりすぎて、目に見える場所に“境界”が欲しかったからだ。
「……なにそれ、テスト?」
キッチンから、同居恋人の千紗が覗き込む。マグの湯気がふわっと来る。白湯。質問より先に湯、うちの作法。
「テストじゃない。線を引く」
「線?」
「今日は、境界がないと溶ける」
言い方が大げさなのは分かってる。
でも、溶ける日ってある。
仕事の“やること”と、自分の“やりたいこと”と、家の“やること”が、全部同じ温度で並んで、区別がつかなくなる日。
スマホの通知が、もうすでに三つ刺さってる。
会議追加。仕様変更。今週中。
それだけならいつもの塩こしょう顔でいけるけど、今朝はもう一つ、違う刺さり方があった。
『今度、話したい。時間ある?』
送り主は、大学時代の友人。しばらく連絡してなかった相手だ。
“話したい”の四文字って、重い。
断れない感じと、逃げたくなる感じが、同時に来る。
「凹凸」
千紗が、俺の視線の先を見て言う。
受信機の言葉は短い。
「凹凸、了解……」
「何が刺さった?」
「友達。話したいって」
「話したい、は言い換えると?」
「……助けて、かもしれない」
「かもしれない、が大事。決めつけない。でも、無視もしない」
千紗は椅子に座って、俺の前の紙を見た。
「で、その紙に線を引く?」
「引く。一本でいい。一本あれば、戻れる」
俺は鉛筆を持った。
久しぶりに木の匂いがする。シャープペンじゃなく、鉛筆。
削ってないのに、なんか“まじめ”な匂いがする。
紙の真ん中に、ゆっくり線を引いた。
真っ直ぐ……のつもりが、少しだけ揺れた。
「揺れてる」
「揺れる日だから」
千紗が頷いた。
否定しない。揺れを揺れのまま受け取る。
「左側は何?」
「仕事」
「右側は?」
「生活」
「生活に友達は?」
「……どっちにもいる」
言った瞬間、線が意味を失いかけた。
友達は仕事じゃない。でも、生活の外にも出せない。
つまり、線は万能じゃない。
千紗が、鉛筆を俺から受け取った。
「じゃあ、線を一本じゃなくて“線を二本にする”」
「二本?」
「線で区切るんじゃなくて、線で道を作る」
千紗は、真ん中の線の横に、もう一本、平行線を引いた。
細い二本の間に、細長い帯ができる。
道。スリットみたいな隙間。
「ここが通路。仕事でも生活でもない、“受け取り場所”」
「受け取り場所?」
「あなたの受信機が拾ったものを、とりあえず置く場所。すぐ処理しない。溶けないためのバッファ」
バッファって言葉が、妙に今の俺に合ってた。
溶けるのは、全部を同じ温度で抱えるからだ。
温度差を作れないときは、“置き場”を作る。
「なるほど……線の間に椅子置くみたいな」
「そう。あなた最近、椅子置くの上手くなってる」
「上手くなってるって言われると照れる」
「照れるのは材料」
千紗はさらっと言って、棚の鈴を取った。
うちの武器。刃物じゃない背中押し。
「鳴らす前に言って」
「……さぁ」
ちりん。
音が鳴ると、紙の上の二本線が、ただの落書きじゃなくなる。
今日の生活の地図になる。
「で、友達の“話したい”は、通路に置く。すぐ返さない」
「既読スルーみたいで罪悪感」
「罪悪感も置く。通路に置く。今日は溶けないのが優先」
千紗は白湯を俺のマグに足して、湯気を増やした。
「返事は、スリットで」
「スリット?」
「細く通す。長く話せないけど、短くなら、のやつ」
俺は頷いて、友人に短く送った。
『メッセージありがとう。今日は立て込んでて長くは難しいけど、今週のどこかで30分なら取れる。急ぎなら先にそれだけ教えて』
送信して、息を吐く。
線の通路に、ひとつ置けた感じがした。
午前中、仕事の会議が増えた。仕様がまた変わった。
いつものやつ。
でも今日は、紙の上の線が机の端で視界に入るだけで、少し落ち着けた。
(左は仕事。右は生活。真ん中は受け取り)
ただの線なのに、頭の整理が始まる。
線は、思考の手すりになれる。
昼休み、友人から返事が来た。
『急ぎじゃない。ちょっと相談したかっただけ。30分で大丈夫。ありがとう』
急ぎじゃない。
その一文で、胸の奥の力が抜けた。
俺は勝手に“助けて”を背負ってた。
背負いすぎると、線が歪む。
帰宅すると、千紗がテーブルの紙を見て言った。
「線、増えてる?」
「二本。通路できた」
「いいね。今日、溶けた?」
「溶けかけたけど、戻れた」
千紗は冷蔵庫からりんごを出してきた。
最近の武器。食感で割る。
「噛む?」
「噛む」
シャク。
音が、今日の余熱を割っていく。
割れると、線がまた見える。
「ねえ」
「ん」
「線って、境界じゃなくて、約束だね」
「約束?」
「ここまでは仕事、ここからは生活、っていう約束。約束があると、戻れる」
千紗は俺の手のひらを軽く握った。
その握り方が、線みたいにまっすぐだった。
「明日も線、引く?」
「毎日は引かない。引きすぎると、檻になる」
「偉い。線にも呼吸が必要」
俺は笑って、棚の鈴を手に取った。
鳴らす前に言うのが、うちのルール。
「……さぁ」
ちりん。
音が鳴って、今日の終わりに丸い印がつく。
「凹凸」
「凹凸」
合言葉を交わして、俺は紙の上の二本線を見た。
少し揺れている。
でも、揺れてるからこそ、今日の俺が引いた線だと分かる。
真っ直ぐじゃなくてもいい。
溶けないために、戻れるために、持てる一本。
それが、俺の線。




