隙間を作って、通す
朝の光って、律儀だ。
こっちが布団の中でだらだらしてようが、カーテンの端っこを狙って、ぴたりと差し込んでくる。
ブラインドの“隙間”から、細い線が一本。机の角をなぞって、俺の頬に当たる。
その線が、今日の気分の輪郭を勝手に引く。
「……そこ、眩しい?」
キッチンから、同居恋人の千紗の声。
湯気の匂いがする。白湯だ。うちの作法、「質問より先に湯」。
「眩しいっていうか、刺さる」
「刺さるなら、凹凸」
合言葉が飛んできた。刺さったときの手すり。
俺は寝返りの勢いで起き上がり、枕元のスマホを掴んだ。
「凹凸、了解……」
画面には未読が並んでいる。
仕事のチャット、取引先、社内の連絡。いつもの行列。
でも今日刺さっているのは、その下にある、たった一件。
『昨日の件、話せる?』
送り主は、姉。
既読がついていないのが逆に怖い。まだ読んでないのか、読んで見なかったことにしてるのか。
どっちにしても、俺の胸の中に“薄い切れ目”ができる。
「……スリットだ」
口に出したら、千紗が「ん?」と、ちょっとだけ声を低くした。
「スリット?」
「隙間。切れ目。細い線」
「ブラインドの?」
「ブラインドのも、姉とのも」
千紗はマグを二つ持ってきて、テーブルに置いた。
白湯の湯気が、ゆっくり上がる。湯気はいつも慌てない。
「今日のあなた、塞ぎたがってる顔してる」
「塞ぎたい。閉めたら楽じゃん」
「閉めるとね、空気が動かない」
千紗はブラインドの紐をつまんで、ほんの少しだけ角度を変えた。
光の線が、一本から二本になる。
刺さり方が、ちょっと丸くなる。
「ほら。隙間は“切る”んじゃなくて“作る”」
「作るって言われると、急に優しいな」
「優しい方が通る日がある」
千紗は俺のスマホの画面を指でつん、と示す。
「事実」
「姉から『話せる?』」
「気持ち」
「……逃げたい」
「行動」
「……返事、したくない」
「うん。じゃあ次。返事を“全部”にしない」
千紗の目が、まっすぐだった。
受信機の目。小さな叫びを拾う目。
「全部にしない?」
「“話す”か“話さない”の二択は、刃が立つ。今日はスリットでいこう。細く、通す」
「細く通すって、どうやって」
「こう」
千紗は引き出しから付箋を一枚出して、ペンで短く書いた。
『今は長く話せない。でも、短くなら。』
「これ。これがスリット」
「……ずるいくらいちょうどいい」
「ずるくない。生活の知恵」
俺は白湯を一口飲んだ。
熱が喉を通って、言葉の角を溶かす。
「送る」
「送る前に」
千紗が棚の上の小さな鈴を手に取った。陶器の、柔らかい音のやつ。
うちの武器。刃物じゃない方の。
「鳴らす前に言って」
「……さぁ」
ちりん。
音が鳴った瞬間、俺の背中が少し前に出る。
俺は付箋の文をそのまま打って、姉に送った。
送信。
心臓が一回、余計に鳴る。
でも嫌な鳴り方じゃない。空気が動く音だ。
「えらい」
「褒めると恥ずかしい」
「恥ずかしいのは材料」
千紗がいつものセリフを言って、少し笑った。
笑いが、部屋の角を丸くする。
出勤して、午前の仕事を回している間も、スマホの通知が気になった。
“待つ”は、焦れにも似ている。青にならない信号みたいなやつ。
でも今日は、信号の前で足踏みじゃなく、スリットを意識する。
狭いけど、通す。
通したら、空気が変わる。
昼休み、スマホが震えた。姉からだ。
『短くでいい。ありがとう。昨日さ、母が…』
文章は途中で切れている。
切れているのに、刺さる。
刺さるけど、今度は“刺さる=終わり”じゃなく“刺さる=入口”だ。
俺は深呼吸して、会社の屋上に出た。
冷たい風。空が広い。
広いのはいい。広いと、隙間が小さく見える。
姉に電話をかける。
長く話せない、って言った。だから短く。スリット通話。
「もしもし」
『出た。ありがと』
「今、昼休み。五分だけ」
『うん、五分でいい。母がさ、また“なんでもない”って言って…』
姉の声は、硬い。
硬いけど、割れそうで割れない硬さ。
俺は受信機になる。相づちを“うん”にしないで、“受け取った”にする。
「それ、姉ちゃんには刺さるよな」
『刺さる。ほんとに』
「凹凸」
『……凹凸、今いる』
合言葉が、電話越しに交わされる。
不思議と、それだけで通話の温度が一段下がる。熱すぎなくなる。
『昨日、私が言い返しちゃってさ。母が黙って。あの黙り方、嫌なんだよね』
「黙り方、ってあるよな」
『ある。あなたの黙り方も、ある』
「え、俺も?」
『ある。塞ぐやつ』
うわ、刺さる。
頭の中で「カン」と鳴りかけた。醜態の音。
でも今日は、塞がない。細く通す。
「……ある。ごめん」
『謝らなくていい。ただ、知ってほしい』
「知った。……俺、今まで“全部話す”が怖くて、ゼロにしてた」
『そう。ゼロか百か。あなた、そういうとこある』
「今日、スリットにした」
『スリット?』
「隙間。細いけど通す。千紗が教えた」
『千紗さん、ほんと…助かるね』
「助かってる。で、姉ちゃん、今日の希望は何」
『希望…うーん。母に、いったん“なんでもない”を言わせない方法、ないかなって』
「それは…難しいけど」
『うん、難しいよね』
「でも、スリットは作れる。“なんでもない”の横に、別の質問を置く」
『別の質問?』
「“なんでもない”の内容じゃなくて、体の方。“今日、何食べた?”とか。“寝れた?”とか」
『それ、ずるいくらい生活』
「生活が強い」
姉が、ふっと笑った。
その笑いが、今日の一番大きな変化だったかもしれない。
『分かった。じゃあ今度、母に聞いてみる。“今日、何食べた?”』
「うん。答えが出なくてもいい。スリットを置くだけ」
『ありがとう。五分、すごい助かった』
「俺も。……また短く、いける」
『うん。短くでいい。またね』
通話が切れる。
俺は屋上の風に当たって、肩の力が抜けるのを感じた。
ゼロでも百でもなく、細い線一本分、進んだ。
帰宅すると、千紗が玄関で俺の顔を見た。
「空気、動いた?」
「動いた。スリット通した」
「よし。じゃあ、噛む?」
最近のうちの武器、食感。
千紗はりんごを出してきた。薄く切ってある。昨日の彼女を褒める案件。
「噛む」
「シャクシャクで割る」
シャク。
音が、部屋に小さな穴を開ける。
その穴から、今日の緊張が抜けていく。
「姉ちゃんと話した。五分」
「五分で、何が変わった」
「ゼロじゃなくなった」
「えらい」
「褒めると恥ずかしい」
「恥ずかしいのは材料」
千紗はまた言って、今度はわざとらしく肩をすくめた。
俺は笑った。
笑えると、塞ぎたくなる気持ちが薄まる。
「ねえ」
「ん」
「スリットってさ、怖いね」
「うん。隙間は、入ってくるから」
「入ってくるの、怖い」
「でも、入ってくるのが光なら、得」
千紗はブラインドの紐を引いて、角度をもう少し変えた。
夕方の光が、細い線になって床に落ちる。
朝の刺さる線と違って、今の線はあたたかい。
俺は棚の鈴を手に取った。
鳴らす前に言うのが、うちのルール。
「……さぁ」
ちりん。
音が鳴る。
今日という一日の端っこに、丸い印がつく。
「凹凸」
「凹凸」
合言葉を交わして、俺は思った。
隙間は、切れ目じゃない。
閉じるためじゃなく、通すためにある。
明日も、何かが刺さるかもしれない。
でも、そのときはゼロにしない。
細い一本を作る。
ブラインドの一筋みたいに、ちゃんと光が通るように。




