一振りで景色が変わる日
人生にスパイスが必要だって話、よく聞く。
でも、スパイスってさ。入れすぎると胃がびっくりするし、入れなさすぎると「これ、味してる?」ってなるし、加減が面倒で、結局いつもの塩こしょうに戻りがちだ。
その日の俺は、まさに塩こしょうの顔で帰宅した。
玄関で靴ひもを解きながら、ため息が「ふぅ」じゃなく「……はぁ」になってる時点で、体力より先に心が干からびてる。
「おかえり。顔、胡椒切れてる」
キッチンから、同居恋人の千紗が言った。
言い方のせいで、俺は一瞬だけ笑いそうになって、笑い切れずに頷く。
「ただいま。胡椒切れって何」
「刺激不足。受信した」
受信機。
千紗は俺の小さな叫びを、いつも雑音から拾い上げる。拾い上げたくせに、深刻にしすぎない。そこが強い。
テーブルには白湯が置かれていた。湯気がのんびり上がっている。
質問より先に湯。うちの作法。
「で、今日の“カン”は?」
「カンは……ない。ずっと鈍い」
「鈍いのはね、危険。凹凸」
合言葉が出る。刺さったときの手すり。
俺はマグを握って一息吸う。
「凹凸、了解。……仕事が、全部“正しい”だけで終わった」
「正しいだけ?」
「怒られない、褒められない、増えるだけ。味がしない」
言ったら、千紗はふっと目を細めた。
その目の細め方が、何かを思いついた人のそれ。
「じゃ、今日はスパイス棚、開ける」
「うちにスパイス棚なんてあったっけ」
「今から作る」
千紗は冷蔵庫を開け、引き出しを引き、棚の奥から瓶をいくつか並べ始めた。
黒胡椒、七味、クミン、山椒、パプリカ。
え、どこの料理番組?
「なにこの急なラインナップ」
「人生用」
「人生用?」
「うん。食べる方じゃなくて、やる方」
千紗は瓶の横に、付箋を貼った。
黒胡椒には『言う』、七味には『頼る』、クミンには『変える』、山椒には『断つ』、パプリカには『遊ぶ』。
「怖い」
「怖いのは正常。怖いまま、香りだけ嗅ぐ」
「香りだけでどうにかなる?」
「どうにかならない時は、鈴」
千紗が棚の上の小さな陶器の鈴を指で弾いた。
ちりん、と柔らかい音。刃物じゃない武器。
「……今日、何があったの」
「何も。だから、何かを足す」
千紗は俺のスマホを指でつん、と示した。
「昼に来てたじゃん。メッセージ」
「昼に来てた……?」
俺はロック画面を開いて、通知を見た。
昼休みに流し読みして、後で見ようと埋めたやつ。
『今週末、商店街のフェスでホーン隊足りない。急だけど、手伝える?(練習1回)』
差出人は、大学時代の同期、真島。
彼は社会人になっても楽器を続けていて、地域のブラス隊でたまに演奏している。
「……ホーン隊?」
「ホーン隊」
「俺、トランペット最後に触ったのいつだよ」
「覚えてないなら、スパイスになる」
千紗は、付箋の『遊ぶ』を指でトントンした。
「遊ぶって、演奏ってこと?」
「演奏でもいいし、断ってもいい。大事なのは、塩こしょう顔で“保留”にしないこと」
「保留はだめ?」
「消える保留がだめ。今日は“選ぶ保留”にする」
千紗は真顔で言いながら、やけに楽しそうだった。
俺は白湯を飲み干して、呼吸を整える。
内なる五人が、椅子を引く音がした気がした。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。
白湯「落ち着け。事実確認」
紅茶「丁寧に返事しろ」
ほうじ茶「焦げるな。無理はするな」
コーヒー「時間割。練習一回、当日何分」
炭酸「やっちゃえ。しゅわっと行け」
「炭酸がうるさい」
「炭酸は人生スパイス担当」
千紗が言うと、炭酸がちょっとだけ黙った気がする。気がするだけ。
「ねえ、あなた」
「ん」
「“やってみたい”は、どれ?」
「……ちょっと。ほんのちょっと」
「その“ほんのちょっと”が、黒胡椒」
千紗は黒胡椒の瓶を持ち上げ、空中で一振りする仕草をした。
ざっ、と音が鳴った気がする。実際は鳴ってないのに。
「じゃあ、返事打つ」
「うん。鳴らす前に言って」
千紗が鈴を取る。
俺は息を吸って、短く言った。
「……さぁ」
ちりん。
その音で、怖さが“手順”に変わる。
『久しぶりだけど、練習一回なら行けるかも。曲とキー教えて』
送信。
送信した瞬間、心臓が一回余計に鳴る。
でも、嫌な鳴り方じゃない。ホーンの予告みたいな鳴り方。
翌日、真島から曲リストと譜面が届いた。
画面に並ぶタイトルは、陽気で、景気がいい。ホーンの曲はだいたい景気がいい。景気のいい音は、人の背中を押すのが仕事だ。
練習当日。
公民館の一室に入ると、金管の匂いがした。金属と布ケースと、ちょっと古い空調の匂い。
懐かしいのに、緊張する。
「お、来た!」「久しぶりー!」
真島が手を振る。
輪の中には、年齢もバラバラの人たちがいた。中学生くらいの子もいれば、白髪の人もいる。
みんな楽器ケースを抱えて、笑っている。楽器の笑いって、音が出る前から始まってるんだなと思った。
「大丈夫? ブランク」
「大丈夫じゃないけど、来た」
「それで勝ち。はい、ここ座って」
譜面台が立つ。
マウスピースが冷たい。
息を吸うと、肺が「久しぶり」と言ってくる。
最初の通しで、俺は盛大に外した。
外した瞬間、頭の中で「カン」が鳴る。
醜態の音。でも今日は、逃げないと決めてる。
「あ、すみません」
「いいよいいよ! 今の、スパイス効いてた!」
誰かが笑ってくれて、場が軽くなる。
ギャグに寄せすぎない程度の救命具。
俺は助かった。
二回目。
息の角度を変える。唇の圧を調整する。
手順だ。勢いじゃなく手順。
音が当たると、空気が震える。ホーンは、震えがそのまま「やった」に変わる。
通しが終わった頃、俺は汗をかいていた。
汗をかくのは、仕事じゃなくて遊びの方が気持ちいい。
それが悔しいようで、嬉しい。
「どう? 久々のホーン」
「……腹の底が起きる」
「それそれ。人生スパイス」
真島が親指を立てる。
俺はケースを閉めながら、スマホを開いた。千紗からメッセージ。
『受信:あなた今、ちょっと勝ってる顔してる』
なんで分かるんだ。
受信機こわい。
『外したけど、楽しい。ホーンって景気いい』
返すと、即レスが来た。
『景気いい音は正義。帰ったら炭酸』
家に帰ると、千紗が玄関で俺の顔を見て、頷いた。
「胡椒、戻ってきた」
「戻ってきた?」
「目がちょっと光ってる。凹凸」
「凹凸」
合言葉を交わすと、心の角が丸くなる。
千紗は冷蔵庫から炭酸水を出して、開けた。
しゅわ。
泡の音が、今日の練習の余韻に重なる。
ホーンの音って、鳴り終わっても体に残る。炭酸の泡みたいに。
「で、今のあなたに必要なスパイス、どれ?」
「……パプリカ」
「遊ぶ?」
「遊ぶ。明日の本番、行く」
言った瞬間、怖さがまた来た。
来たけど、怖さは正常。
怖いまま、行けるだけの手順は作った。
千紗は鈴を手に取って、俺の目を見る。
「言って」
「……さぁ」
ちりん。
音が、明日の一歩に丸い印をつける。
翌日、商店街のフェスは、思ったより賑やかだった。
焼きそばの匂い、子どもの笑い声、拍手、呼び込みの声。
その全部の上に、ホーンの音が乗る。
俺の出番。
息を吸う。
最初の一音が鳴った瞬間、世界の色が一段濃くなる。
音が鳴ると、生活が「味してる」って顔をする。
演奏が終わって、拍手が来た。
隣の中学生が「やった!」と小さく拳を握る。
白髪の人が「いい音だった」と笑う。
真島が親指を立てる。
俺は、その場で千紗にメッセージを送った。
『鳴った。景気よく鳴った』
返事はすぐ来た。
『受信:あなた今、胡椒じゃなくて、山椒顔。痺れてる。おかえりは白湯→炭酸→りんご』
帰宅して、言われた順番で飲んで噛んだ。
白湯で落ち着いて、炭酸で区切って、りんごのシャクで余韻を割る。
生活の手順は、スパイス棚の横に増えていく。
「ね」
「ん」
「人生スパイスってさ、すごい決断じゃなくていいんだね」
「うん。一振りでいい」
「一振りで、味が変わる」
「味が変わると、顔が変わる」
千紗が肩にもたれてくる。
その重さが、今日の締め。
俺は小さく言った。
「凹凸」
「凹凸」
合言葉は、刺さったときの手すり。
でも今日は、刺さる前に鳴った。
ホーンみたいに、景気よく。




