正解が二つある日の選び方
ジレンマって、もっと重たい場面で出てくる言葉だと思ってた。
命とか、正義とか、世界とか。
でも実際は、冷蔵庫の前で発生する。
俺は朝っぱらから、右手に豆腐、左手に納豆を持って固まっていた。
テーブルには千紗のマグ。白湯の湯気が、のほほんと上がっている。湯気だけが平和。
「……どっちも、正しい」
呟いたら、背後から即ツッコミが飛ぶ。
「何の哲学」
同居恋人の千紗が、髪を適当に束ねたままキッチンに入ってくる。パーカーの袖をまくりながら、俺の手元を見た。
「豆腐と納豆で世界を救おうとしてる?」
「いや、朝飯。豆腐は軽い。納豆は強い。どっちも正しい」
「あなた今、“正しい”を盾にして決めるのサボってる」
「刺さる」
千紗は、俺の親指の腹をつまむみたいに言う。刺さるところを探すのが上手い人だ。
俺は観念して、両方冷蔵庫に戻した。
「凹凸」
千紗が合言葉を投げる。刺さったときの手すり。
「凹凸、了解……でもさ、こういうのが積もるとさ」
「うん」
「決める力、削れる」
「それ、今日の本題?」
千紗は白湯を俺の前に置いた。質問より先に湯、うちの作法。
俺は一口飲んで、喉の奥を温めた。温まると、言葉が出る。
「本題。仕事。今日、二つ来た」
スマホを机に置く。通知が二つ、同じくらいの温度で光っている。
一つは上司からのメッセージ。
『急で悪い。夕方、客先のトラブル対応、同行できる?』
もう一つは、後輩から。
『先輩、今日の夜、面接練習お願いできますか。明日が本番で…』
どっちも大事。
どっちも、断りたくない。
それが、ジレンマ。
「どっちか片方をやれば、片方に“ごめん”が生まれる」
「うん」
「“ごめん”が残るのが嫌」
「残るのが嫌なのは、優しいから?」
「……優しいっぽく見られたいから」
言った瞬間、自分で笑いそうになった。
でも笑えない。ここは、ちゃんと受信する場面だ。
千紗は頷いた。否定しない。
否定しないのが、いちばん怖い。
「事実:二つ来た。気持ち:どっちも大事。行動:まだ決めてない」
「うん」
「で、あなたの体は今どうなってる?」
「……肩が上がってる」
「じゃあ下げる。まず下げる」
千紗は俺の肩に手を置いて、軽く押した。
押す力は弱いのに、ちゃんと下がる。
こういうのが、刃物じゃない武器なんだと思う。
「ジレンマってさ」
「うん」
「“悪い選択”じゃなくて、“良い選択が二つある”ってことだよね」
「そう。良いが二つあると、片方を捨てるのが痛い」
「捨てない方法、ある?」
「ある。まず“捨てる”って言葉を捨てる」
千紗はさらっと言って、冷蔵庫からりんごを出してきた。最近のうちの武器。食感。
スライスを一枚、俺の皿に置く。
「噛む?」
「噛む」
シャク。
音が、頭の中の絡まりを割る。
割れると、間ができる。間ができると、選べる。
「ね、二択の間に椅子を置けばいい」
「椅子?」
「“第三の動き”。AもBも守る動き」
千紗は指で空中に小さな椅子を描いた。
椅子の脚が四本あるみたいに、話が少し安定する。
「例えば?」
「客先のトラブル対応、あなたが同行しないと詰む?」
「詰むかは……不明。でも上司は不安そうだった」
「面接練習、あなたじゃないと詰む?」
「詰まない。でも、俺だと安心するって言ってた」
「ほら。詰むか詰まないか。必要度の差がある」
必要度。
温度じゃなく、必要度。
千紗はいつも、判断の軸を生活寄りに戻してくれる。
俺はスマホを持ち直して、二人に同じ質問を投げた。
上司には「何時頃、どのくらいかかりそうですか」。
後輩には「面接練習、何分欲しい? オンラインでもいい?」。
送って、テーブルに置く。
既読の点滅に振り回されないように、りんごをもう一口。
シャク。
「で、あなたの内なる五人は何て言ってる?」
「出た、内なる会議」
俺の中のメンバーが、勝手に席につく気配がした。
白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。
意思決定の班。
白湯「落ち着け。まず事実」
紅茶「相手への言い方を丁寧に」
ほうじ茶「焦ると焦げる。今日は温度管理」
コーヒー「時間割を切れ。数字」
炭酸「勢いで行け。どっちも取れ」
「炭酸がうるさい」
「炭酸はいつもうるさい。でも必要」
千紗は笑った。ギャグに寄せすぎない程度の救命具。
俺の肩の力が、ちょっと抜ける。
スマホが震えた。上司から返信。
『17時に出発。客先で1時間くらい。戻りは19時前後かな。』
続けて後輩から。
『30分だけでも助かります!対面がいいですが、オンラインでも…!』
情報が揃うと、ジレンマは“手順”になる。
手順にできるなら、怖さは半分になる。
「客先、17時から19時。後輩、30分」
「うん」
「両方いける……? 19時帰宅、そこから30分…」
「あなたの体力は?」
「……ギリ。だけど、いける気もする」
「ギリのまま行くと、どっちにも雑になる」
「それが一番嫌」
「じゃあ、椅子を置く。椅子は“時間の質”」
千紗は冷蔵庫から炭酸水を一本出した。
しゅわっと開ける。音が小さく弾ける。
「これ、帰宅したら飲んで。切り替えの合図」
「武器だ」
「武器。刃物じゃない」
千紗は次に、棚の小さな鈴を取った。陶器のやつ。
鳴らす前に、俺の目を見る。
「言って」
「……さぁ」
ちりん。
音が、今日の判断に丸い印をつける。
「決める。上司の方は同行する。後輩はオンラインで30分、21時からにする」
「いい。で、“ごめん”はどう処理する?」
「……後輩に、対面じゃなくてごめん、ってなる」
「“ごめん”じゃなくて“守った”を言う。あなたが守るのは何?」
「約束の質。後輩の準備時間」
「そう。言い方、作って」
俺は後輩への返信を打った。
短く、でも角を丸く。
『OK。今日は客先対応が入ってて対面が難しい。代わりに21:00-21:30でオンライン練習やろう。質問も想定して一緒に整えよう。』
送信。
既読がつく前に、俺は白湯を飲んだ。
“待つ”を敵にしない。最近の学び。
夕方、上司と客先に向かう車の中。
上司はハンドルを握りながら、ぽつりと言った。
「助かる。君がいると、説明が落ち着く」
その言葉が、背中を押す。
俺は受信機として拾って、返す。
「落ち着く手順、作りましょう。事実→状況→次の一手、で」
客先は想像より荒れてなかった。
でも、荒れてないことが逆に怖い時もある。静かな不満が積もっているとき。
上司が謝罪し、先方が頷き、細かい確認が続く。
そこで俺は“勢い”じゃなく“手順”を選んだ。
メモを取り、確認し、次の手を提案する。
言葉の棘を作らないように、文末を整える。
ジレンマは、判断を荒くする。でも手順にすれば、言葉は丸くなる。
19時前に会社へ戻り、上司と別れた。
駅へ向かう途中、後輩から返信が来ていた。
『ありがとうございます!21時了解です!助かります!』
“助かります”が二回。
ああ、間に合った。
その感覚だけで、足の裏が少し軽くなる。
帰宅すると、千紗が玄関で俺の顔を見て言った。
「生きてる?」
「ギリ」
「ギリをギリのままにするな。まず炭酸」
言われた通り、冷蔵庫の炭酸水を開けた。
しゅわ。
喉に泡が入って、体の中の“仕事の空気”が少し剥がれる。
「切り替わる」
「でしょ。二択の間の椅子」
千紗はソファの端をぽんぽんと叩いた。座れ、の合図。
俺が座ると、千紗は小皿を出してきた。セロリ。赤信号のやつ。
「止まって噛む?」
「止まって噛む」
シャク。
苦味が広がって、今日の後半戦に向けて気持ちが引き締まる。
ジレンマの怖さが、別の形になる。
“やる”の怖さ。
でも、それは悪くない。
21時。
ノートPCを開いて、後輩とオンラインで繋ぐ。
画面の向こうの後輩は、緊張で肩が上がっていた。見ただけで分かる。
「先輩、よろしくお願いします!」
「凹凸」
「え?」
「刺さったときの手すり。今、刺さってるの何?」
「……落ちたら終わり、が刺さってます」
「いい。言えたら半分ほどける。じゃあ順番。事実、気持ち、行動」
後輩は笑いそうになって、でも真面目に頷いた。
俺は質問を投げ、答えを整え、言い直しを一緒に作る。
途中で後輩が噛んだ。
「えっと、御社の……きょ、きょきょ……」
そこで俺は、あえて軽く言った。
「今の、炭酸だった。しゅわってた」
「え、炭酸……?」
「炭酸は勢い。勢いは悪くない。次はほうじ茶でいこう。落ち着いて」
後輩が吹き出して、緊張が少し落ちた。
ギャグに寄せすぎない程度の救命具が、ちゃんと効く瞬間。
30分が終わる頃、後輩の表情が明るくなっていた。
“できるかも”の光が、顔に乗る。
「先輩、ありがとうございました。対面じゃなくても、めちゃくちゃ助かりました」
「よかった。明日、終わったら連絡して。結果じゃなくて、感触でいい」
「はい!」
通話を切る。
俺は椅子に深くもたれた。
ジレンマの日は、終わった。
千紗が台所から顔を出す。
「どっちも守れた?」
「守れた……と思う」
「なら、成功。ジレンマはね、“どっちかを捨てる問題”じゃなくて、“どっちも守る工夫をする問題”」
言葉が胸に落ちる。
俺は棚の鈴を手に取った。
鳴らす前に、言う。
「……さぁ」
ちりん。
音が、今日の終わりを丸くまとめる。
“ごめん”じゃなく、“守った”が残る。
「凹凸」
「凹凸」
合言葉を交わして、俺は豆腐と納豆のことを思い出した。
明日の朝、どっちを選ぶかはまだ分からない。
でも、選べる。
そして、二択の間には、ちゃんと椅子を置ける。




