焦れったさを“間”として抱きしめる
返事が来ない。
それだけで、人はこんなに忙しくなれるんだなと、俺は自分に感心する。
スマホを見て、画面を閉じて、また見て。
たった一往復でいいはずの連絡が、永遠に伸びる麺みたいに、生活の隙間に絡みつく。
『明日、空いてる?』
昨日の夜、俺が送ったメッセージ。
既読はついた。
でも返事がない。
既読って、便利な機能のくせに、ときどき刃物みたいな顔をする。
キッチンから、湯気と一緒に声が飛んできた。
「ねえ、スマホの画面、穴あくよ」
同居恋人の千紗だった。
白湯をマグに注ぎながら、こっちを見ないで言う。こっちを見ないのに、全部見えてるのが千紗の怖いところだ。
「穴あけたいわけじゃない」
「じゃあ、何してる」
「……待ってる」
言った瞬間、自分でダサいと思った。
待ってるって、主語が弱い。
待ってるって言葉は、相手の時間を勝手に握ろうとする感じがある。
千紗はマグを二つ持ってきて、テーブルに置いた。
質問より先に湯。うちの作法。
「誰の返事?」
「母」
答えたら、千紗の手が一瞬止まった。
止まったけど、止めたのは“動揺”じゃなく“受信”だ。
母という単語は、俺にとって、いつも少しだけ温度が高い。
「明日、空いてる? って送った」
「うん」
「既読は?」
「ついた」
「返事は?」
「ない」
千紗は淡々と確認して、俺の親指の腹を軽くつまんだ。
ささくれを探すみたいに。
“刺さりどころ”の確認。
「ジレてる?」
「……うん。ジレてる」
言葉にしただけで、胸の奥の熱が少し逃げる。
焦れったさは、隠すと濃くなる。
醜態と同じだ。
「凹凸」
「凹凸」
合言葉を交わすと、呼吸がひとつ整う。
千紗は次に、冷蔵庫からりんごを出してきた。
最近のうちの武器。食感。
「噛む?」
「噛む」
「シャクシャクで割る」
「割れるかな……この焦れ」
俺が言うと、千紗は小さく笑った。
ギャグに寄せない程度の、救命具。
りんごを一口。
シャク。
音が、部屋に小さな穴を開ける。
その穴から、焦れったさが少しずつ抜けていく気がした。
でも、完全には抜けない。
抜けない焦れ。
むしろ、抜けないからこそ、じわじわ育つやつ。
「ねえ」
「ん」
「焦れってさ、何に似てると思う?」
「……信号?」
「いいね。青にならない信号」
千紗は頷いて、俺のマグに白湯を足した。
湯気が上がる。
信号が青にならないとき、人は立ち止まる。
でも、立ち止まってる間にも、時間は進む。
その“進んでるのに止まってる感じ”が、焦れだ。
「で、あなたは今、どこの信号で止まってる」
「母の返事」
「その信号、あなたが変えられる?」
「……変えられない」
千紗は頷いた。
頷き方が、“じゃあ次”のそれだ。
「じゃあ、変えられる方をやる」
「変えられる方?」
「あなたの足」
千紗は立ち上がって、棚の上の小さな鈴を取った。陶器のやつ。
うちの“始める合図”。
「鳴らす前に言って」
「……さぁ」
ちりん。
音が鳴る。
千紗は床に養生テープを二本貼った。最近、家の床が体育館化してる。
「でか歩?」
「今日は“待ち歩”」
「新語きた」
千紗は真顔で言う。
「待ってると、体が縮むでしょ。歩幅が小さくなる。だから、待ちながら歩幅を広げる。信号が青になるのを待つ間、足踏みじゃなく“一歩”を作る」
「……待ち歩」
言うと、なんか妙に納得した。
焦れって、頭だけが前に走って、体が置いていかれる感覚だ。
体を動かすと、頭が戻ってくる。
俺はテープをまたぐ。
でか歩よりは小さい。
でも、普段よりは大きい。
「いい。今の、“待ってるのに進んでる”」
「詩みたいに言うな」
「生活は詩だよ。たまに」
千紗は鈴を置いて、俺の肩に軽く手を乗せた。
その重さが、焦れの熱を適温にする。
「ねえ、母ってさ」
「うん」
「返事が遅い人?」
「遅い。昔から」
「じゃあ、あなたが今焦れてるのは、“遅い”に驚いてるんじゃない」
「……」
「“今回は違う”って期待した分、焦れてる」
図星だった。
母はいつも返事が遅い。
なのに俺は、今回だけはすぐ返ってくる気がしていた。
明日、会うかもしれない。会えないかもしれない。
その可能性に、自分が勝手に夢中になっていた。
「期待、してたんだ」
「うん。期待は悪くない。でも、刺さる」
「凹凸」
「凹凸」
手すりを掴む。
俺は白湯を飲んで、息を吐いた。
焦れが、少しだけ“間”に変わる。
会社に行っても、スマホは気になった。
昼休み、もう一度画面を見る。返事はない。
でも、朝の“待ち歩”を思い出して、俺はコンビニの外に出た。
歩幅を少し大きくして歩く。
信号で止まる。
青にならない。
でも、足の裏を感じる。
焦れの熱は、足の裏に逃がせる。
午後、仕事が立て込んで、スマホを見る時間が減った。
減ると、焦れも薄まる。
焦れは、構って育つ生き物だ。
構いすぎると大きくなる。
放置しすぎると腐る。
ちょうどいい距離が、難しい。
帰り道、駅のホームでスマホが震えた。
通知。
胸が一回、跳ねた。
『明日ね。夕方なら。』
母からだった。
短い。
でも、ちゃんと“青”だった。
嬉しいのに、同時に、喉の奥がきゅっとなる。
“夕方なら”の一言に、母の生活が透ける。
空いてるわけじゃないけど、作ったんだろうな、っていう余白が見える。
その余白が、俺の焦れを、別の形に変えた。
焦れじゃなくて、申し訳なさと、ありがたさ。
家に帰ると、千紗が玄関で俺の顔を見て言った。
「青になった?」
「なった」
「よし。じゃあ、次。あなたの返事」
「返す。……でも、ちょっとだけ、焦れたのが恥ずかしい」
「恥ずかしいの、材料」
「またそれ」
「万能」
千紗は肩をすくめて、キッチンから小皿を出してきた。
セロリ。赤信号のやつ。
「止まって噛む?」
「止まって噛む」
「噛むと、急がないで済む」
シャク。
苦味が広がって、今日の終わりがちゃんと来る。
「で、明日どうする?」
「母に会う。夕方に」
「凹凸、忘れるなよ」
「うん。あと、待ち歩も」
「そう。信号が青になるまでの間を、敵にしない」
千紗の言葉は短いのに、ちゃんと残る。
残る言葉は、武器になる。刃物じゃない方の。
俺はスマホに母への返信を打った。
変に気取らず、短く。
『了解。夕方、会えるの楽しみにしてる。無理しないでね。』
送信。
既読は、まだつかない。
でも、もう焦れない。
焦れの熱は、今日、生活の中でほどけた。
俺は棚の鈴を手に取って、鳴らす前に言った。
「……さぁ」
ちりん。
音が、今日の“待ってる時間”に、優しい句読点を打つ。
「凹凸」
「凹凸」
合言葉を交わして、千紗が俺の肩にもたれた。
焦れは消えない日もある。
青にならない信号の日もある。
でも、その間に歩幅を作れるなら、焦れはただの罰じゃない。
“待つ”は、止まることじゃなくて、間を持つこと。
明日の夕方までの時間は、きっと、良い間になる。




