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怖さを抱えたまま一歩を大きくする

 朝、スマホの通知はだいたい「会議」とか「締切」とか「未読が多いよ」みたいな、生活を急かす文面でできている。

 なのにその日は、通知のくせに、やけに“景色”を持ってきた。


『登壇のお願い(4月)』


 件名だけで、心臓が一回余計に鳴った。

 開く前に、親指の腹で画面を撫でてしまう。癖だ。怖いものほど、触って確かめる。


「……うわ」


 声が漏れた瞬間、キッチンから「うわ、禁止」と飛んできた。


「禁止って何」

「“うわ”って言うと、全部“うわ”になる。まず凹凸」


 同居恋人の千紗が、マグを片手に現れる。髪をざっくり結んで、パーカーの袖だけまくっている。朝の装備は軽いのに、視線だけはピンポイントで当ててくる。


「凹凸、了解」

「で、何が刺さった」

「メール。登壇のお願い」

「登壇? え、あなたが?」

「そう。俺が……ってなるじゃん」

「なるね。で、メールは開いた?」

「開いてない」

「じゃあ開く。順番。事実から」


 千紗は俺の肩をぽん、と一回だけ叩く。刃物じゃない武器。背中を押す合図。

 俺は観念して、メールを開いた。


『貴社の取り組みについて、ぜひお話を伺いたく――』


 文字は丁寧で、丁寧すぎて、こちらの言い訳の逃げ道を先回りで塞いでくる。

 要点はシンプルだった。来月のイベントで、二十分。質疑応答十分。オンライン配信あり。


「オンライン配信あり……」


 口に出したら、現実感が増した。

 増した分だけ、胃がきゅっとなる。


「配信は、受信機だね」

「受信機って言うと優しく聞こえるけど、現実は“見られる”だよ」

「見られる、も事実。で、気持ちは?」

「怖い」

「うん」

「あと……恥ずかしい」

「うん」

「あと……格好つけたい」

「正直でよろしい」


 千紗は白湯を俺の前に置いた。湯気が上がる。

 質問より先に湯。うちの作法。


「で、行動は?」

「断る、が先に浮かぶ」

「浮かぶのは自由。でも、あなたの“いつもの”はどれ?」

「……逃げないで、手順にする」

「じゃあ、手順にする。今日はね、歩幅の日」


 歩幅。

 言われて、俺は首を傾げた。


「歩幅?」

「大きい一歩。怖いときほど、歩幅が小さくなるでしょ」

「なる。つま先だけで歩く」

「それを、今日は意図的に大きくする。練習。今から」


 千紗はそう言って、キッチンの床に養生テープを持ってきた。

 え、今から? 朝だよ? 会社行くよ?


「なにそれ」

「ライン引く。ここからここまで、一歩」

「急に体育」

「体育じゃない、生活」


 千紗は床に二本、テープを貼った。間隔は、俺の普段の歩幅よりだいぶ広い。

 正直、これを一歩でまたぐのは、ちょっと気恥ずかしい。


「ほら。やって」

「いや、今?」

「今。武器、出すよ」


 千紗は棚の上の小さな鈴を手に取った。陶器の、柔らかい音のやつ。

 うちの“始める合図”。


「鳴らす前に言って」

「……さぁ」


 俺が言うと、千紗がちりん、と鳴らした。

 音が部屋の角を丸くして、逃げ道を塞ぐ代わりに、やる気の出入口を作る。


「はい、巨・大・一・歩」

「“巨大”って言った?」

「言った。大きいほど笑えるから、やりやすい」


 笑える。

 確かに、真剣に怖がってると重くなるけど、少し笑えると動ける。ギャグに寄せすぎない程度の救命具。


 俺は片足を前に出した。

 いつもより遠い。床が急に広い。


「……う、うお」

「そうそう。踏ん張る。足の裏を使う」

「これ、会社行く前にやることなのか」

「会社行く前だからやる。今日のあなた、頭が先に縮むから」


 俺は一歩でラインをまたいだ。

 成功した瞬間、なぜか拍手したくなる。しないけど。


「はい、もう一回」

「もう一回!?」

「二回。二回で“できた”が残る。できたは、明日の材料」


 二回目は少し楽だった。

 足が、やり方を覚える。体が先に理解する。

 千紗は頷いて、マグを持ち上げる。


「よし。これが今日の合言葉。凹凸と、巨大一歩」

「巨大一歩は長い」

「じゃあ略す。『でか歩』」

「急に軽い」

「軽いが強い」


 会社へ向かう途中、電車の窓に映る自分が、少しだけ“歩いてる人”に見えた。

 怖いことが消えたわけじゃない。

 でも、足の裏がちゃんと地面を掴んでる感じがある。


 午前中、上司にメールを見せた。

 上司は即答しなかった。そこがありがたかった。


「いい話だな。で、君はどうしたい」

「……やりたい、が半分。怖い、が半分」

「正しい。どっちかだけなら、嘘だ」


 上司の言葉もまた、刃物じゃない武器だった。

 俺は頷いて、メモに三つ書いた。事実、気持ち、行動。


(事実:頼まれた。気持ち:怖い。行動:準備する)


 準備する。

 それが、巨大一歩の“手順”だ。


 昼休み、千紗にメッセージを送った。


『事実→気持ち→行動、で行く。準備する』


 すぐ返ってきた。


『でか歩』


 二文字じゃないのに、ちゃんと合図になってる。

 俺は笑って、コンビニのりんごを買った。最近、噛む音にも助けられている。


 午後、登壇の内容の骨子を作り始めた。

 すると、脳内会議が始まる。内なる五人が、いつもの席に着く。


 白湯「落ち着け。順番」

 紅茶「丁寧にいこう。言葉は角を丸く」

 ほうじ茶「肩の力を抜け。焦げると苦い」

 コーヒー「締め切りを逆算しろ。数字」

 炭酸「勢いも必要。しゅわっと行け」


 五人が言い合うのを、俺は“受信”した。

 受信した上で、紙に落とす。

 この街じゃない生活でも、同じように、心は交通整理が必要だ。


 帰宅すると、千紗が玄関で俺の足元を見た。


「今日は小股?」

「いや、でか歩」

「よし」


 褒め方が変。

 でも、その変さが、緊張の背中を撫でる。


 夕飯のあと、千紗は床にまたテープを貼った。朝より少し広い。


「え、広げた?」

「広げた。大きい一歩は、毎日ちょっとずつ伸びる」

「俺の登壇と同じで、逃げ道を塞いでくるね」

「逃げ道は塞がない。出入口を作る」


 千紗は鈴を持った。

 俺は少し呼吸して言った。


「……さぁ」


 ちりん。

 音が鳴る。

 俺は、ラインをまたぐ。

 足が遠い場所に着地して、体が揺れる。揺れるけど、倒れない。


「今の、よかった」

「よかった?」

「踏ん張った。揺れても止まった。登壇も同じ。揺れていい。倒れなければ」


 千紗は、俺の手を取って、親指の腹を撫でた。

 ささくれの心配をするみたいに。

 生活の人は、いつも小さな棘を見逃さない。


「ね」

「ん」

「怖いの、なくさなくていい。怖いまま、歩幅を広げる」

「それが、巨大一歩」

「そう。あなたの一歩は、あなたにとって巨大。比較しない」


 比較しない、って言葉が、ふっと軽かった。

 軽いのに、ちゃんと重心がある。

 これも武器だ。


 登壇当日。

 画面の向こうに人数が表示される。

 数字がじわじわ増えるたび、胃が縮む。

 でも、足の裏を思い出す。テープのライン。床の広さ。鈴の音。


 開始の三十秒前、俺はマイクをミュートして、小さく言った。


「凹凸」


 手すり。

 そのあと、もう一つ。


「……でか歩」


 千紗はいない。

 でも合図は、ちゃんとここにある。

 受信機は、遠くの叫びだけじゃなく、自分の小さな叫びも拾える。


 司会の紹介が終わった。


「それでは、よろしくお願いいたします」


 俺は息を吸って、カメラを見た。

 そして、言った。短く。


「……さぁ」


 頭の中で鈴が鳴った気がした。

 ちりん。

 その音に押されて、俺は話し始めた。


 言葉が詰まりそうになる瞬間は何度もあった。

 そのたびに、足の裏に意識を戻す。

 揺れても、倒れない。

 揺れは人間っぽい。

 人間っぽい方が、受信される。


 二十分が終わり、質疑応答も終わった。

 画面の向こうから拍手の絵文字が流れる。

 絵文字の拍手は軽いはずなのに、胸に当たると意外と重い。いい意味で。


 通話を切った瞬間、俺はソファに沈んだ。

 足が、まだ“でか歩”の緊張を覚えてる。


 そのとき、玄関の鍵が回った。


「おかえり」


 千紗が、買い物袋を提げて入ってきた。

 タイミングが良すぎて、俺は笑ってしまう。


「ただいま……じゃない。終わった」

「終わった顔してる。どうだった」

「揺れた。でも倒れなかった」

「じゃあ成功。でか歩、できた?」


 俺は頷いて、棚の鈴を手に取った。

 鳴らす前に言う。


「……さぁ」


 ちりん。

 音が部屋に残って、今日の終わりに丸い印をつける。


 千紗は袋から、りんごと、にんじんと、炭酸水を出した。


「噛む? しゅわる?」

「全部」

「欲張りだね」

「巨大一歩の日は、欲張っていい」


 俺が言うと、千紗は一瞬だけ目を細めて、嬉しそうに笑った。

 その笑いが、次の歩幅を、もう少しだけ広げる。


 俺たちはりんごを噛んだ。

 シャク。

 音が残る。

 残る音は、明日も使える。

 怖さも、揺れも、醜態も、全部、生活の材料になる。


「凹凸」

「凹凸」


 合言葉を交わして、俺はもう一度だけ、足を前に出してみた。

 いつもの床なのに、少しだけ広く見えた。

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