みっともなさを引き受けて、前へ
やらかした瞬間って、音がする。
派手に何かが割れたわけでもないのに、頭の中で「カン」と鳴る。
その日の俺は、会社のフリースペースで、コーヒーを片手に“いいこと言おうとした”。
会議の終盤。全員の疲れが表情に浮いていて、誰かが「もう無理っすね」と弱音を漏らした。そこで俺は、場を持ち上げたかった。軽く、明るく、でもギャグに寄せすぎずに。
「まあ、ここまで来たら、あとは勢いっすよ。人間、勢いでなんとかなるんで」
言った。
言い終わった瞬間、空気が一段、静かになった。
静かって、怖い。
笑いが起きない静か。
反発もない静か。
ただ、言葉が床に落ちて、拾われない静か。
俺の頭の中で「カン」が鳴った。
やらかした、っていう音。
隣の席の後輩が、気まずそうに視線を泳がせている。
向かいの上司は、資料を見ているふりをしてる。
一番奥の先輩は、腕を組んだまま無表情。
誰も責めてないのに、俺だけが勝手に刺さってる。
(……勢い、って言葉、今じゃなかったな)
言葉の刃じゃない。
でも、言葉の角が尖ってた。
「勢いでなんとかなる」は、頑張ってる人の手から、工具を奪うみたいな言い方だった。
会議が終わって席に戻ったとき、胸の奥に、見えないささくれが増えていた。
ささくれは皮膚だけじゃなく、心にもできる。
ひっかかって、痛いのに、どこが痛いか分かりにくい。
スマホが震えた。千紗からだ。
『今日はどんな音?』
千紗は、俺の一日を“音”で聞いてくる。
受信機みたいに小さな叫びを拾う人は、質問も小さい。
俺は返した。
『カン。やらかしの音』
送信した瞬間、既読がついた。
すぐに返信。
『凹凸』
合言葉。刺さったときの手すり。
たった二文字で、俺の呼吸が整う。
でも整っても、醜態は消えない。消えない方がいいのかもしれない。
昼休み、屋上に行った。
空は冬の青。風は冷たい。
冷たいけど、冷たい方が誤魔化せないから助かる。
俺はベンチに座って、弁当の蓋を開けた。
千紗が入れてくれた、りんごのスライス。
最近、うちの武器に食感が追加されてる。
一口かじる。
シャク。
音が、気持ちの絡まりを割る。
割れたところから、みっともなさが顔を出す。
(俺、格好つけたかったんだな)
格好つけたかった。
優しい人っぽく見られたかった。
場を救える人っぽく、言葉を置きたかった。
それで、逆に空気を冷やした。
醜態。
その単語が浮かぶと、腹のあたりがじわっと熱くなる。
恥ずかしさの熱。
でも今日は、そこから逃げないと決めた。
逃げないための武器は、刃物じゃなくて、順番だ。
千紗がいつも言う“順番”。
まず、事実。
次に、気持ち。
最後に、行動。
(事実:勢いって言った。気持ち:格好つけたかった。行動:謝る)
謝るって、口で言うのは簡単なのに、足が重い。
足が重いとき、うちにはもう一つの武器がある。
「……さぁ」
声には出さず、心の中で言う。
二文字で、背中が少し押される。
午後、先輩の席に行った。
会議で無表情だった、一番奥の先輩。
資料の山の向こうで、淡々とキーボードを叩いている。
「先輩、さっきの会議のことなんですけど……」
先輩は視線を上げた。
目が合う。
その一秒が、俺の醜態を全部見透かす。
「ん?」
「俺、最後に“勢いでなんとかなる”って言ったじゃないですか。あれ、言い方、良くなかったです。頑張ってる人に対して、雑でした。すみません」
言い切った。
口の中が乾いた。
でも言えた。
先輩は、少しだけ眉を動かした。
怒りじゃない。驚きに近い。
「……自分で気づいたなら、偉いじゃん」
「偉いって言われると、余計恥ずかしいです」
「恥ずかしいの、ちゃんと味わえ。次の材料になる」
材料。
先輩の言葉が、妙に温度があった。
俺は頷くしかなかった。
「でもさ」
「はい」
「勢いが必要な時もあるよ。言う相手とタイミングの問題。今日は“勢い”じゃなくて“手順”の日だった」
手順。
それ、千紗も言いそうだ。
俺は胸の奥のささくれが、一枚だけ剥がれ落ちた気がした。
その日の帰り道、俺は家の最寄り駅で、盛大に転んだ。
いや、盛大ってほどじゃない。
段差に気づかず、つまずいて、膝を軽く打って、手のひらを擦った。
「……っ、痛……」
人が見てた。
見てたけど、みんな見ないふりをして通り過ぎた。
都会の優しさは、視線を外すことだったりする。
俺は立ち上がって、ジーンズについた砂を払った。
膝がじんじんする。
手のひらが熱い。
そして何より、恥ずかしい。
(今日、俺、二回も転んでる)
言葉で。身体で。
醜態の二段重ね。
玄関の前で、鍵を探しながらため息をついた。
ため息は、出した瞬間にまた刺さる。
でも今日は、刺さってもいい。刺さったら、手すりを掴む。
「凹凸」
小さく言った。
声に出すと、ちょっと面白くて、少しだけ救われる。
ドアを開けると、湯気の匂いがした。
千紗が約束通り、湯を沸かしている。
「おかえり」
キッチンから声。
俺が靴を脱いでいると、千紗が現れた。
目が俺の膝に吸い寄せられる。
「……なにそれ」
「転んだ」
「今日は転ぶ日なの?」
「成長ってことで……」
「成長って言い訳で辻褄合わせるの禁止」
即、却下された。
千紗は、うちのルールの番人だ。
“本質を後から誤魔化さない”。生活にも適用されるらしい。
「……はい。醜態です」
「うん。じゃ、ほどく」
「どうやって」
「順番」
千紗は救急箱を持ってきた。
青いケース。中身はいつも増えている。
「まず、手洗い」
「はい」
「次、消毒」
「はい」
「次、冷やす」
「はい」
「最後、話す」
最後、話す。
傷の処置に“話す”が入ってるのが、千紗らしい。
手を洗って、消毒して、冷えピタみたいなやつを膝に貼られて、ソファに座らされた。
俺は今日何回「はい」って言ってるんだろう。
「で、会議の“カン”は?」
「……勢いって言って、空気冷やした」
「それで?」
「謝った」
「えらい」
「褒められると恥ずかしい」
「恥ずかしいの、味わえ。材料になる」
千紗が、先輩と同じことを言った。
俺は目を丸くした。
「先輩も同じこと言った」
「似てるね、その先輩。たぶん、受信機持ち」
「受信機って、そんなに普及してるの?」
「普及してない。だから希少。大事にしろ」
千紗はマグを二つ持ってきた。
白湯と、ほうじ茶。
今日は、白湯が先だった。身体の方の転びを癒す順番。
俺は白湯を飲んで、息を吐いた。
さっきまで刺さっていた恥ずかしさが、少しだけ丸くなる。
「ねえ」
「ん」
「醜態ってさ、隠そうとすると増えるよね」
「増える。ささくれみたいに」
千紗は頷いた。
頷き方が、優しい。
「今日の醜態、二つあった?」
「二つ。言葉と、段差」
「じゃあ、成の方は?」
「……成?」
「醜態成。成は、作る方。みっともなさを、次の手順に変える」
千紗が言うと、言葉が急に“道具”になる。
俺は少しだけ笑った。
「じゃあ今日の成は、何?」
「一つ目。謝った。二つ目。段差の場所覚えた」
「地味」
「地味が強い」
それは確かにそうだ。
地味な修正が、生活を守る。
俺はポケットから、小さい鈴を取り出した。
今日は鳴らしたい。音で、区切りをつけたい。
「鳴らす前に言うんだよ」
千紗が言う。
俺は頷いて、軽く息を吸った。
「……さぁ」
そして、鈴を鳴らした。
ちりん。
音が、今日の恥ずかしさに触れて、ちゃんと“終わり”にする。
千紗は俺の膝の冷えピタを指で押して確認してから、肩にもたれてきた。
重さが、ちょうどいい。
人の体温は、時々、言葉より早い。
「ね」
「ん」
「今日の醜態、隠さなくていい。みっともないの、持ち帰れたから」
「持ち帰ると、どうなる」
「家でほどける。ほどけたら、次は同じところで転ばない」
千紗の声は、柔らかいのに、芯がある。
刃物じゃない武器の芯。
俺はほうじ茶を飲んで、もう一度息を吐いた。
今日の俺は、格好よくはなかった。
でも、みっともなさを放置しなかった。
その地味な選択が、たぶん“成”。
ソファの上で、俺は小さく呟く。
「凹凸」
「凹凸」
合言葉が交わされると、部屋の角が丸くなる。
転んだ音も、言葉の「カン」も、もう痛いだけじゃない。
手順に変わって、明日の俺を少しだけ守る。
そして明日、もしまた転びそうになったら。
そのときは、今日より少しだけ上手に転ぶ。
みっともなさを、ちゃんと持ち帰れるように。




