噛んで整える、軽い決意
冷蔵庫を開けた瞬間、俺は「勝った」と思った。
上段の右奥。透明な保存容器の中で、薄い黄緑が光っている。
「ある……!」
「何に勝ったの」
背後から、同居恋人の千紗が寝起き声で言う。パーカーのフードを被ったまま、目だけ半分開いている。まだ朝の世界にログインしきってない顔。
「りんご。しかも切ってある」
「昨日の私を褒めろ。……ちゃんと皮むいてある」
「昨日の千紗、神」
言ったら、千紗は「はいはい」と流した。
でも流し方がちょっと嬉しそうで、俺はそれも拾う。受信機として。
俺は保存容器の蓋を開けて、りんごのスライスを一枚つまむ。
ぱき。
ではなく、まだ噛んでないのに、なんかもう「シャクシャク」の予感がする。りんごって、存在が予告編。
「朝から噛む気満々じゃん」
「噛まないと始まらない日がある」
「何それ、武器?」
「武器。刃物じゃないやつ」
うちの武器は、鈴と、「さぁ」と、湯気と、あとたまに食感。
食感はね、意外と強い。音で背中を押してくるタイプ。
俺は一口かじった。
シャク。シャク。
音が、部屋の角に当たって返ってくる。
その反響が、眠い朝の空気を少しだけ削って、形にしていく。
「……いい」
「でしょ。今日は“いい日”の下地を作ったの」
「下地って。メイク?」
「気分のメイク。下地がないと、崩れる」
千紗はマグに白湯を注ぎながら言う。
その手つきが、生活を崩さない人のそれで、俺はちょっとだけ眩しい。
俺はもう一枚かじる。
シャク。
音が気持ちいい。
なんというか、頭の中の余計なふわふわが、噛むたびに小さく割れていく。
「今日さ、なんか……ぐちゃっとしてるんだよな」
「朝から告白するね」
「自覚があるやつ。仕事じゃなくて、気持ちの方」
「それ、どこが凹んでる?」
凹凸。刺さったときの手すり。
千紗はいつも、いきなり本題に行かない。
手すりを出してから、階段を降りさせる。
「凹みは……言語化しづらい」
「じゃ、シャクシャクで割る」
「割るって何」
「食感で、絡まりを割る。噛むとね、気持ちが“手前”に戻ってくる」
千紗は、自分のマグを持ってテーブルに来た。
俺の前に座って、りんごを一枚つまむ。
そして、同じように噛む。
シャク。
シャク。
二人の音が重なると、なんかおかしい。
台所が、静かなのに賑やかになる。
音が会話みたいに動く。
「ねえ」
「ん」
「これ、今日の合図にしよ。『シャクシャク』」
「合図、増やすの?」
「増やす。状況別に最適化。今日のあなたは“柔らかい言葉”より“硬い音”が効く顔してる」
千紗は断定がうまい。
でも押し付けではなく、観察の結果を置いてくる感じ。
俺はそれを、受信機で受け取る。
「じゃあ、今日の武器はりんご?」
「りんごでもいいし、きゅうりでもいい」
「きゅうりは水分が強い」
「じゃ、今日はりんご。酸味で目も覚める」
千紗はうんうんと頷きながら、救急箱みたいに整然とした手つきで、別の容器を冷蔵庫から出してきた。
中には、スティック状のにんじんと、セロリ。
「え、二段構え?」
「午後用。帰ってきたら噛ませる」
言い方が、完全に飼育員だった。
俺が「俺、動物扱い?」って言う前に、千紗が先に言う。
「人間はたまに、噛むことを忘れる。噛むと、考えが勝手に整列する」
「喜怒哀楽みたいに?」
「そう。感情の交通整理。信号がない交差点に、シャクシャクを置く」
シャクシャクが信号。
新しすぎて、ちょっと笑った。
「青はりんご?」
「赤はセロリ。止まるから」
「意味わかんないけど、分かる気もする」
「でしょ。言葉が追いつかないときのための道具」
道具。
刃物じゃない武器。
なんか、今日のテーマが固まってきた。
出勤前、俺は弁当袋に、千紗が入れてくれたりんごの容器を入れた。
会社でりんごを食べる三十代男性、ちょっと意識高い風で嫌だなと思ったけど、背に腹は代えられない。
噛むことは、見た目より大事。
「あと、これ」
「何」
「小さい鈴。持ってけ」
千紗が、鍵束につけるタイプの鈴を差し出した。
いつもの陶器の鈴より小さい。音も控えめ。
「鳴らすの?」
「鳴らさない。触るだけ。音は出さなくていい日もある」
その言い方が、今日の千紗の優しさだった。
“やれ”じゃなくて、“選べ”。
選べることが、背中を押す。
「了解。凹凸」
「凹凸。行ってこい」
会社に着いたら、朝からバタついた。
チャットが鳴り、電話が鳴り、誰かのため息が空気に混じる。
ため息って、音がしないようで、ちゃんと刺さる。
見えないささくれみたいに。
午前中、会議室で、上司が言った。
「これ、今日中に方向決めたい」
今日中。
言葉が急に硬くなる。
俺の中で、内なる五人が椅子を引く音がした。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。
でも今日は、彼らより先に“りんご”がいる。
会議が終わって席に戻った俺は、弁当袋からりんごを出した。
隣の後輩が、目を丸くした。
「先輩、りんご……?」
「武器」
「武器!?」
「刃物じゃない方の」
説明が雑で、後輩は笑った。
笑いが起きた。
それだけで、場の硬さが一段柔らかくなる。ギャグに寄せない程度の救命具。
俺は一口かじる。
シャク。
音が、頭の中の“今日中”を少しだけ割る。
割れると、間ができる。
間ができると、選べる。
「先輩、何が武器なんですか……?」
「噛むとさ、言葉にする前の焦りが、先に出ていってくれる」
「焦りって、噛むと出ていくんですか」
「出ていく。たぶん。俺の中から」
後輩は半信半疑で、でも興味津々で、コンビニのサラダチキンを開けた。
シャクシャクしない。
でも、後輩の“自分もなんか整えたい”って気持ちは拾えた。
「後輩、凹凸」
「え?」
「刺さったときの手すり。今、何が刺さってる?」
「……えっと。置いていかれそう、が刺さってます」
「それ、言えたら半分ほどけた」
「先輩、今日なんか宗教みたい」
「宗教じゃない。生活」
生活。
言った瞬間に、自分でもしっくりきた。
千紗はこれを、毎日やってる。俺の小さな叫びを拾って、生活の道具に変える。
午後、案件の方向性が二転三転した。
決める。戻る。決める。戻る。
そのたびに、俺の親指のあたりがむずむずする。
昨日のささくれの名残みたいな、見えないひっかかり。
俺はポケットの小さい鈴を触った。
鳴らさない。
でも丸い金属が、指先に「ここにいる」と伝える。
それだけで、俺はちょっとだけ戻ってこれる。
夕方、上司がまた言った。
「最終的に、どっちで行く?」
どっち。
二択の刃。
刃物じゃない武器が欲しい。
俺は立ち上がって言った。
「五分ください」
その五分で、トイレに行って、洗面台の前で息を吐いた。
鏡の中の自分が、眉間に“ささくれ”を作ってる。
俺は鞄から、千紗が入れてくれたにんじんスティックを出した。
ちょっと変な絵面。でも今は、変な絵面より、整う方が勝つ。
噛む。
シャク。
にんじんのシャクシャクは、りんごより真面目だ。
甘さが少なくて、現実味がある。
現実味があると、判断が現実に着地する。
「……よし」
戻って、俺は言った。
「Aで行きましょう。理由は二つ。今の制約と、来月の拡張性。Bは魅力的だけど、今日中にやると棘が残ります」
自分の口から“棘が残る”って言葉が出て、ちょっと笑いそうになった。
でも笑わない。
会議の場では、言葉の選び方が武器になる。
上司は少し考えて、頷いた。
「Aで行く。じゃあ、そうしよう」
決まった。
決まった瞬間、体の中の余計な緊張がふっと抜けた。
シャクシャクが、信号になった。青になった。
帰宅したのは二十一時過ぎ。
玄関を開けたら、湯気の匂いがした。
千紗が「沸かしとく」って言ってた湯だ。
「おかえり」
「ただいま。今日、噛んだ」
「知ってる」
千紗はキッチンから顔を出して、俺の弁当袋を見た。
空の容器が見えている。
「りんご、全部食べた?」
「食べた。にんじんも」
「えらい。じゃ、次」
次、って言い方が完全にトレーナーだった。
千紗は皿に、セロリのスティックを並べて出してくる。
「……赤信号?」
「うん。止まる」
俺はセロリを噛んだ。
シャク。
苦味が、舌に広がる。
苦味って、嫌なはずなのに、今日の俺にはちょうどよかった。
苦味は“終わった”の味がする。
「今日は、どこが凹んだ?」
「会議の二択。刺さった」
「で、どうほどいた」
「シャクシャクで割った」
千紗は満足そうに頷いて、俺の鍵束の鈴を指でつまんだ。
ちり、と小さく鳴る。
音が控えめで、でも確実に部屋に残る。
「ね。音って、残るでしょ」
「残る」
「残る音は、明日も使える」
彼女の言葉は、今日も短い。
短いのに、背中を押す。
刃物じゃない武器。
俺はセロリをもう一口噛んで、ソファに座った。
千紗も隣に座る。肩が触れる。
その触れ方が、今日の最後の“シャク”だった。
「明日も噛む?」
「噛む。……でも、たまには柔らかい日も欲しい」
「じゃあ明日は、豆腐の日」
「豆腐は音がしない」
「だからいい日」
音がしない日。
それも、武器なんだろう。
俺は千紗の手を取って、指先の温度を確かめる。
「凹凸」
「凹凸」
合言葉を交わすと、部屋の角が丸くなる。
シャクシャクは、今日のための道具。
でも、丸くなる場所は、明日にも続く。
噛む音が残った台所で、湯気が静かに上がっている。
生活は、今日もちゃんと“整えられる側”に回ってくれていた。




