ほどけない小さな棘をほどく
指の端に、ひっかかりが生まれる瞬間って、だいたい自分では見てない。
気づくのは、ドアノブとか、スマホのケースの角とか、紙袋の取っ手とか。日常の「そこそこ固いもの」が、こちらの気分を代弁するみたいに、ちょいっと痛い。
「……痛っ」
玄関で靴ひもを結ぼうとして、右手の親指がスニーカーの布に引っかかった。
親指の爪の横。細い皮膚が、ほんの数ミリだけ浮いている。ささくれ。たったそれだけで、今日は一回、息が止まる。
「なに、玄関で呻いてるの」
背中の方から、湯気の匂いがした。
同居恋人の千紗が、パーカーの袖をまくりながら出てくる。片手にマグ、もう片手にスマホ。朝の支度の途中らしいのに、顔だけはきっちりこっちを見てくる。
「ささくれ。今朝、刺さった」
「……抜くなよ」
即答が、医者のそれだった。
千紗はスマホを胸の前で持ち直し、目だけ細める。
「抜かないよ。……抜きたいけど」
「抜きたいなら、凹凸」
合言葉が出た。
凹凸。刺さったときの手すり。
言われると、妙に身体が落ち着く。息の吸い方が、勝手に整う。うちの生活に、いつの間にか組み込まれた“整備用語”。
「凹凸、了解」
「了解じゃない。ほら、出発前に処置。洗面所」
千紗は指示だけして、キッチンへ戻ろうとした。
でも一歩目で止まって、振り返ってくる。
「今日は、何時に帰る?」
「二十一時くらい」
「じゃ、二十一時に湯、沸かしとく」
「俺を煮る気?」
軽口を投げたら、千紗は笑わずに、ほんの少しだけ口角を上げた。
その表情が、いちばん効く。
「煮ない。ほどく」
その言い方が、武器だ。刃物じゃなくて、背中を押す合図。
うちの武器は、鈴と、二文字と、湯気と、こういう短い宣言でできてる。
洗面所に連行されると、千紗は小さい救急箱を出してきた。
薬局のポイントで交換したやつ。薄い青のケース。中身は、彼女が勝手にアップデートしている。
「消毒、する」
「はい」
「動くな」
「はい」
返事が多い朝は、だいたい調子がいい。
千紗がコットンに消毒液を落として、俺の親指をつまむ。痛いはずなのに、指先があたたかい。あたたかいのは消毒液じゃなくて、彼女の手だ。
「……これさ」
「ん」
「仕事、忙しいとさ、ささくれ増えない?」
「増える。皮膚が、心より先に荒れるから」
さらっと言い切る。
千紗はこういうことを、勝手に名言にしてしまう。
「心より先に荒れる、か」
「うん。だから、心の方をあとからほどく。順番」
順番。
彼女はなんでも“順番”で整える。話す順番、休む順番、食べる順番。
それは、俺の“受信機”が拾った小さな叫びを、無理やり大声にしないための技術だった。
「今日は、何が荒れる予定?」
「予定って言い方、嫌だな……。午前、会議三連。午後、現場。夕方、クレームの電話」
「ささくれフルコース」
「そう。追加で親指に棘」
千紗は小さく息を吐いて、救急箱から爪切りを出した。
爪切り、って言っても、細かい刃のあるニッパーみたいなやつ。ささくれ用。
「切る。抜かない」
「お願いします」
刃が近づく。
俺は反射で肩に力が入る。
「凹凸」
「凹凸、凹凸……」
自分で唱えると、ちょっと面白くなってくる。
千紗は笑わない。笑わないけど、作業はやさしい。
細い棘が、ちいさく切れて、消えた。
「あ、痛くない」
「そりゃそう。正しくほどいたから」
「千紗、ほんと手当て上手いな」
「手当てって、傷だけじゃないからね」
そう言って、彼女は俺の親指に小さな絆創膏を貼る。
白い、無地のやつ。
生活って、こういう“目立たない白”で守られてるんだと思う。
玄関を出る直前、千紗は冷蔵庫から小さい瓶を渡してきた。
透明な液体。お湯で割るタイプの蜂蜜レモン。
「午後、現場に行く前に飲みな」
「なんで分かるの。喉やるって」
「受信機だから」
彼女は胸を張らずに言う。
当たり前みたいに、俺の小さな叫びを拾う。
だから俺も、彼女の小さな叫びを拾う練習をしている。
「千紗、今日さ」
「なに」
「帰ったら、鈴、鳴らしていい?」
「鳴らす理由、ある?」
「背中押してほしい。なんか、最後の一歩が重い日になりそう」
「じゃあ、鳴らす前に言って。『さぁ』って」
“さぁ”。
うちのもうひとつの武器。
あの二文字は、何かを始めるときにも、終えるときにも効く。
「分かった。『さぁ』って言ってから、鳴らす」
「よし。行ってこい」
千紗が手を振る。
その動きが、ささくれよりも小さいのに、ずっと刺さる。
刺さって、抜けない。
でも痛くない。あたたかい。
会社に着いたら、予定通りの三連会議が始まった。
会議って、言葉の角があちこちにある。
思いつきの尖り、責任逃れの尖り、焦りの尖り。
それらが人の指先に引っかかって、目に見えないささくれを増やしていく。
午前中の二本目が終わったところで、スマホが震えた。千紗からだ。
『親指、どう?』
たった五文字。
でも俺の体内のどこかが、すっと平らになった。
『まだ刺さらない。ありがとう』
送って、スマホをポケットに戻す。
その瞬間、隣の席の後輩が、顔面に“困った”を貼り付けて立っていた。
「先輩、ちょっといいですか」
「いいよ。どうした」
後輩は、資料の端を指で揉みしだいている。
まさに“ささくれ”を育てる動きだ。
「えっと……クレームの件なんですけど、相手の言い方がきつくて、頭の中がぐちゃぐちゃで……」
「うん。まず、凹凸」
俺が言うと、後輩は目を丸くした。
「え?」
「合言葉みたいなもん。刺さったときの手すり。今、刺さってるから、いったん手すり掴む」
後輩は半信半疑で頷く。
俺は、机の引き出しから小さい付箋を出した。
そして四つの枠を書いて、真ん中に十字を引く。喜怒哀楽の交通整理。
「ここに、今の気分を書いて。怒ってる?悲しい?怖い?恥ずかしい?なんでもいい」
「……え、仕事中にそれやっていいんですか」
「いい。むしろ仕事だからやる。気分が絡まったまま対応すると、言葉が棘になる」
後輩はペンを持って、恐る恐る書いた。
“怖い”の枠に大きく。
“怒り”の枠に小さく。
“恥ずかしい”の枠に、さらに小さく。
「これ、俺もよくなるやつだ」
「先輩も、怖いんですか」
「怖い。怖くないふりはできるけど、受信機は誤魔化せない」
後輩の肩が、ほんの少し下がった。
ささくれが、抜けたときみたいに。
「じゃあ次、武器。刃物じゃないやつ。背中を押す合図」
「合図……」
「電話かける前に言うんだよ。『さぁ』って」
後輩は笑いそうになって、でも笑い切らずに飲み込んだ。
真面目だ。だから刺さる。だから、ほどく手順が要る。
「……さぁ」
「そう。それで、まず相手の言葉の尖りを“材料”にする。刺さった、じゃなくて、刺さりそう、って言えると勝ち」
後輩は深呼吸して、付箋を握りしめた。
俺は親指の絆創膏を見た。白い小さな四角。
見えないささくれにも、貼れたらいいのにと思う。
午後の現場は、予定通りバタついた。
工具が鳴って、足音が交差して、誰かの焦りが空気に混じる。
焦りは、紙や布より、空気の方に刺さる。
気づく頃には、指先じゃなく、胸の奥がひっかかってる。
夕方、クレームの電話が来た。
相手の声は硬く、切れ味がある。
言葉のナイフ。
でも、俺には“武器”がある。刃物じゃない武器。
電話の前、心の中で言う。
(さぁ)
たった二文字。
それだけで、声の出し方が変わる。
押される背中があると、人はちゃんと立てる。
「お電話ありがとうございます。ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません。状況を確認させてください」
相手の尖りを、こちらの謝罪で丸めるんじゃない。
尖りは尖りとして受け取って、どこから刺さったかを探す。
ささくれの処置と同じだ。抜かない。ちぎらない。ほどく。
電話が終わった頃には、日が落ちていた。
外に出ると、空気が冷たい。冷たいのに、どこか安心する。
終わった、っていう冷たさ。
帰り道、駅の改札で、ふと絆創膏が目に入った。
朝の棘はもうない。
でも、今日一日で増えた“見えない棘”が、身体のどこかに残っている気がする。
家のドアの前で、深呼吸した。
ポケットから鍵を出す。
そして、声に出す。
「……さぁ」
言うと、肩の力が抜けた。
鍵が回る。
ドアが開く。
玄関の内側から、湯気の匂いが、ふわっと出てくる。
「おかえり」
千紗が、キッチンから顔を出す。
エプロンの紐が、ちょっとだけねじれてる。
そのねじれが、今日の彼女の“ささくれ”なんだろうなと思った。
「ただいま」
「親指、見せて」
言われて、手を差し出す。
千紗は絆創膏を指先で軽く押した。痛くない。
確認が終わると、今度は俺の目を見た。
「で、今日の棘は?」
「いっぱい」
「数える?」
俺の中の“内なる五人”が、勝手に席につく気配がした。
白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。
意思決定会議のメンバー。
今日は、報告会だ。
「……数えると増える?」
「数えると、ほどける」
千紗はマグを二つ持ってきた。
片方は白湯。もう片方は、香りの強いほうじ茶。
彼女は、俺の今日に合わせて、飲み物まで“順番”に組んでくる。
俺は玄関の棚の上にある小さな鈴を手に取った。
金属じゃなくて、陶器の鈴。音が柔らかい。
うちの武器は、柔らかい音でできてる。
「鳴らす前に言うんだよ」
千紗が言う。
俺は頷いて、息を整える。
「……さぁ」
そして、鈴を鳴らした。
ちりん、と小さく。
その音が、胸の奥の絡まりに触れて、ほどける方向を示す。
「よし。座れ。今日は、湯が先」
石鳩亭の作法みたいに、千紗は言って笑った。
質問より先に湯が出る。
うちの作法も、それでいい。
ソファに沈むと、千紗が隣に座る。
肩が触れる。
その触れ方は、ささくれの棘みたいに小さいのに、確実に存在する。
「会議三連、現場、クレーム。あと、後輩の怖い」
「後輩の怖い?」
「拾った。受信機だから」
千紗は、ほうじ茶を一口飲んでから、俺の親指をもう一回つまんだ。
朝のときと同じ、あたたかさ。
「ね。ささくれってさ、皮膚が荒れてできるんじゃなくて、荒れたまま“放置”してできる気がする」
「つまり、放置が棘を育てる」
「うん。だから、放置しない。ちぎらない。ほどく」
彼女の言葉は、いつも短い。
短いのに、背中を押す。
刃物じゃない武器。
俺は白湯を飲んだ。
熱い。
でも、その熱さが、今日の尖りを少しずつ丸くする。
「千紗」
「なに」
「俺、たぶん今日、いい子だった」
「それ、褒めてほしいやつ?」
「うん。褒めてほしい」
「じゃあ、休め」
褒め言葉が、休め、だった。
千紗らしい。
俺は笑って、ソファに背中を預けた。
「凹凸」
「凹凸」
合言葉を交わすと、部屋の空気が、さらに柔らかくなる。
ささくれのない指先で、俺は千紗の手を取った。
そこに棘がないことを確認するみたいに、ゆっくり握る。
今日の小さな棘は、全部消えたわけじゃない。
でも、ほどき方は分かった。
湯気の向こうで、短い合図と、柔らかい音と、手すりになる言葉がある。
たぶん明日も、どこかでひっかかる。
ドアノブとか、紙袋とか、誰かの言葉とか。
そのたびに、俺は言う。
「……さぁ」
そして、ほどく。
ちぎらないで。




