咲くのは花だけじゃない
「咲き誇れ」
それは命令じゃなく、合図だった。
春の終わり、まだ朝の空気に少しだけ冷たさが残る頃。私は駅前の花屋のシャッターを、いつもより早く上げた。金属がこすれる音が、店の眠気を剥がす。店内にふわっと湿った匂いが広がる。土と水と、まだ言葉にならない色の匂い。
「おはよう、さくら」
店の奥から、店主の結衣さんが顔を出した。髪は適当に束ねられ、エプロンの紐がきちんと蝶結びになっている。仕事の人の結び目だ。
「おはようございます」
私は返しながら、心の中で“今日の自分の結び目”を確認する。ほどけてない。たぶん。
今日は、駅前花壇の植え替えの日。町内会と商店街と、駅の利用者が「お、いいじゃん」と思えるような、あの長い花壇を春から初夏へ切り替える。花屋の出番は、ここからだ。
花の仕事は、派手なようで地味だ。地味な作業の連打で、最後にだけ派手になる。
派手になる瞬間があるから、地味を続けられる。
だけど今朝の私は、地味に集中できない。
胸の奥に、硬い蕾みたいなものがひとつ居座っているからだ。
先週、結衣さんに言われた。
「今年の駅前花壇、レイアウト、さくらが決めてみなよ」
決める。
その二文字で、私の喉が乾いた。
花の色や背丈や咲くタイミングを読み、見えない“完成”を先に想像して配置する。頭の中の庭を、現実に下ろす仕事。
できる気がしない。
できないと言うほどの理由もない。
つまり、怖いだけ。
結衣さんは私の顔を見て、笑った。
「大丈夫。失敗しても花は死なない。人は死なない。花壇は来年もある。まずやってみな」
優しい言葉なのに、私はうまく頷けなかった。
頷けないとき、人はだいたい“いい子”を起動する。
「はい、やります」と言って、心の中では固まっているやつ。
だから今日、私は“固まり”を抱えたまま、花の入ったケースを開けている。
パンジー、マリーゴールド、サルビア、ペチュニア。
色が、元気だ。元気すぎて、こちらが試される。
「ねえ、さくら」
結衣さんが、私の肩越しに覗き込む。
「顔が、蕾みたいになってる」
「……今、咲く準備してます」
「咲く前の顔は、だいたいそう」
結衣さんは手際よく、タグの向きを揃えながら言った。
「花ってさ、咲くのに許可いらないんだよね」
許可。
その言葉が、蕾の表面を軽く叩く。
「人間は、許可欲しいです」
私が言うと、結衣さんは笑った。
「じゃあ、今日だけ許可出す。はい」
言いながら、結衣さんは指をぱちんと鳴らした。
「咲き誇れ。さくら」
店の中で言われると、少し照れる。
でも照れは、悪くない。照れがあるうちは、まだ前を向いている。
私たちは花を積み込み、軽トラで駅前へ向かった。朝の光は柔らかく、信号待ちの車窓に桜の名残が流れる。散った花びらの代わりに、若葉が光っている。
駅前花壇にはすでに町内会の人が集まっていた。軍手、帽子、腰の伸びた姿勢。生活のプロの集団だ。
その中に、ひときわテンションの高い人がいる。中学生の女の子、柚葉ちゃん。商店街の八百屋さんの娘で、毎年手伝いに来る。
「さくらさん! 今年も派手にしますか!」
「派手って、花に言う言葉?」
「言います! 花は派手でいいんです!」
柚葉ちゃんは、花壇の縁を指でトントン叩きながら続けた。
「だって駅前ですよ? ここ、みんなの顔ですよ? 顔は元気がいいほうがいい!」
正論が元気だ。
元気な正論は、胸に刺さっても痛くない。むしろ温まる。
私が持ってきた紙を広げると、結衣さんが隣に立った。
「さ、監督さん。指示どうぞ」
監督。
その言葉で、蕾がきゅっと固くなる。
私は紙の上の色を見た。頭の中で組んだ、配色の案。
中央を明るく、端を少し落ち着かせ、歩く人の視線が自然に流れるように。
理屈はある。
でも理屈は、土の上で役に立つか分からない。
「……まず、土ならし、お願いします」
声が少し震えた。
震えたけど、言えた。
言えた瞬間、蕾の表面に小さな亀裂が入る気がした。
町内会のおじさんたちが鍬で土を起こし、柚葉ちゃんたちが枯れた苗を抜いていく。土の匂いが立つ。湿った匂いが鼻の奥に刺さって、頭が少しだけクリアになる。
「さくらさん、次は?」
柚葉ちゃんが聞く。
私は一呼吸して、指をさした。
「端にマリーゴールド、黄色はこの辺。
真ん中にペチュニア、ピンクと紫を交互に。
で、奥にサルビア。赤は背丈が出るから、後ろ」
「了解!」
柚葉ちゃんが返事をして、周りも動く。
動く。
私の言葉で、人が動く。
それが怖かったのに、いざ動くと胸が少し熱くなる。
熱いのは、負担じゃない。
責任が形になった温度だ。
作業は進んだ。
でも途中で、予想外の問題が起きる。
日が強くなり、風が乾いてきた。苗が少ししおれ始める。
水が必要。
でも駅前の水栓は、工事で一時的に使えないと係の人が言った。
「え、じゃあどうするの」
誰かが言う。
空気が、ひゅっと冷える。
私の蕾が、また固くなる。
こういうときに“監督”は、決めないといけない。
頭の中で五つの声が騒ぐ。
白湯みたいな落ち着きが「情報」と言う。
ほうじ茶みたいな怒りが「事前連絡」と言う。
紅茶みたいな優しさが「大丈夫」と言う。
コーヒーみたいな野心が「ここで見せろ」と言う。
炭酸みたいな遊びが「バケツリレー!」と叫ぶ。
私は、言った。
「……バケツ、借ります。
商店街の店、協力してもらえますか」
結衣さんが即座に頷いた。
「行こう。借りに行こう」
柚葉ちゃんが手を挙げた。
「私、八百屋からバケツ持ってきます! あと氷も!」
「氷?」
「元気出ます!」
理屈が雑だ。
でも今は、その雑さがありがたい。
十分後、駅前は小さなフェスみたいになっていた。
八百屋のバケツ、魚屋の発泡スチロール箱、喫茶店のピッチャー。
それぞれが水を運び、苗にそっとかける。
水が土に落ちる音が、落ち着く。
苗が少しずつ顔を上げる。
生き物は、ちゃんと応える。
私はしゃがみ込んで、ペチュニアの根元に水を注いだ。
花弁はまだ開ききっていない。蕾が多い。
でも蕾が多いのは、これからだという証拠だ。
「さくらさん」
柚葉ちゃんが隣に座った。泥で少し汚れた手袋が、やけに誇らしそう。
「さくらさん、今日、めっちゃ咲いてます」
「え、花はまだ」
「花じゃないです。さくらさんが」
その言葉で、私は一瞬、言葉を失った。
褒められると反射で否定したくなる癖がある。
「そんなことないよ」と言って、また蕾に戻る癖。
でも今日は、戻りたくなかった。
「……ありがと」
私が言うと、柚葉ちゃんがにっこりした。
「やっぱり! 今日のさくらさん、いい感じ!」
作業が終わる頃、花壇は見違えるように明るくなっていた。
黄色が端で笑い、中央のピンクと紫が波みたいに揺れ、奥の赤が背中を支える。
見上げると、駅の看板がいつもより少しだけ優しく見えた。たぶん気のせい。でも気のせいは、生活に必要だ。
通りすがりの人が立ち止まった。
「わあ、きれい」
その一言が、今日いちばん効いた。
誰かの“わあ”は、努力の答えだ。
努力が報われる音は、だいたい短い。
片付けを終え、花屋へ戻る車の中。
私は助手席で、ふっと息を吐いた。
息を吐くと、蕾が少しほどける。
ほどけると、笑ってしまう。
「笑ってる」
運転する結衣さんが言った。
「……なんか、咲いちゃいました」
「でしょ」
結衣さんはハンドルを握ったまま、ちらっと私を見た。
「花壇の花も咲くけどさ、今日の主役は、あなたのほうだよ」
照れる。
でも今日は、照れを受け取れる。
受け取れるのは、私が一歩目を出したからだ。
店に戻ると、シャッターを下ろす前に結衣さんが言った。
「明日、駅前見に行く?」
「行きます」
「明後日も?」
「行きます」
「じゃあ、その次も」
結衣さんが笑う。
「咲き誇れって、今日だけの話じゃないからね」
私は頷いた。
花は一日で咲かない。
人も一日で変わらない。
でも一日で、合図は作れる。
帰り道、駅前花壇の前を通った。
夕方の光が花弁を透かして、色が柔らかくなる。
朝の元気とは違う、落ち着いた華やかさ。
“咲き誇る”って、叫ぶことじゃないのかもしれない。
ただそこに立ち、光を受け、揺れていること。
私は胸の奥の蕾に、小さく声をかけた。
「さぁ」
合図。
始めるための二文字。
花壇の花が、風に揺れた。
揺れ方が、頷きに見えた。
気のせいでもいい。
気のせいは、明日を連れてくる。
咲き誇れ。
花だけじゃなく、私も。




