合図ひとつで世界が動く
「さぁ」
たった二文字で、背中は軽くなる。
軽くなるのに、足はまだ重い。
足が重いのは、怖いからじゃない。
慣れた場所が、名残惜しいからだ。
僕の朝は、いつも“名残惜しさ”から始まる。
布団の中は暖かくて、世界の音が遠い。
遠い音の中では、メールも会議も、上司の「今どこまで?」も、全部おとぎ話みたいだ。
おとぎ話なら怖くない。
怖くないのに、僕は起きられない。
起きられない理由は、ただ一つ。
起きたら、現実が始まるから。
だから僕は、朝の最初に“合図”を作った。
合図は短いほど効く。長い言葉は、言い訳の隙間を作る。
「さぁ」
僕は布団の中で口を開いて、声に出した。
声に出すと、胸が少しだけ前に出る。
胸が前に出ると、体が起きる準備を始める。
準備が始まれば、あとは流れで起きられる。
流れは、僕の味方だ。
僕は意思が弱い代わりに、流れに強い。
洗面所。
歯ブラシ。
鏡。
付箋が四枚。
喜、怒、哀、楽。
最近貼った“交通整理”の札だ。
今日の僕はどれだろう。
鏡の中の僕は、眠くて、目がちょっと腫れてる。
腫れてるのは睡眠不足。
睡眠不足は、怒と哀を呼び寄せる。
でも今朝は、不思議と楽もいる。
理由は分かっている。
今日は、面談の日だ。
新しいプロジェクトのリーダー候補として名前が挙がっていて、僕は昨日、上司に質問をした。
業務範囲。支援体制。残業想定。
聞けた。
聞けたという事実が、僕の中の“白湯担当”を落ち着かせ、ほうじ茶担当の境界線を少しだけ太くした。
でも、まだ決めていない。
YESかNOか。
いったん決めろ、と千紗が言ったやつ。
だから、今日の合図は朝だけじゃない。
昼にも、夕方にも、必要になる。
玄関で靴紐を結びながら、僕はもう一回小さく言った。
「さぁ」
言うと、靴紐がきゅっと締まる。
締まると、足が外へ向く。
外へ向くと、世界が動き始める。
駅。
改札。
人の流れ。
僕はその流れに乗った。
流れに乗るのは得意だ。
でも流れに飲まれるのは苦手だ。
飲まれたら、また“いい子”が起動する。
会社に着く。
朝礼。
メール。
会議。
タスク。
全部いつもどおり。
いつもどおりのふりをして、僕の胸の奥だけが“面談”の時間を数えている。
昼休み、千紗からメッセージが来た。
『今日、さぁ の日?』
僕は笑ってしまった。
“さぁ の日”って何だ。
でも確かに、今日は“さぁ”が必要な日だ。
『さぁ の日。鈴も持ってる』
僕は冗談みたいに返した。
怪盗Yの夜に買った鈴。
あれは武器屋の武器だ。
刃物じゃなく、合図の武器。
『なら大丈夫。凹凸も忘れずに』
千紗の返事。
合言葉があると、怖さは輪郭を持つ。
輪郭を持てば、扱える。
午後。
上司に呼ばれる。
面談室。
扉を開ける前に、僕は息を吸って、口の中で言った。
「さぁ」
扉を開ける。
「座って」
上司はそう言った。
机の上には資料。
新プロジェクトの概要。
スケジュール。
メンバー候補。
そして、僕の名前が小さく書かれている。
「昨日の質問、いい視点だった。
で、どうする? 引き受けるか」
心臓が一回だけ強く鳴った。
僕の中の五人が騒ぐ。
白湯が「情報は揃った」と言う。
紅茶が「怖いと言っていい」と言う。
ほうじ茶が「境界線を忘れるな」と言う。
コーヒーが「行け」と言う。
炭酸が「チン!」と叫ぶ。
うるさい。
でも、うるさいのは僕が生きてる証拠だ。
僕は言った。
短く。
でも条件を添えて。
「引き受けます。
ただし、条件があります」
上司が眉を上げる。
ここで折れると、全部崩れる。
だから、合図。
「さぁ」
僕は心の中で言いながら、続けた。
「業務範囲を明確にしたい。
支援メンバーを一人、正式に付けてほしい。
残業が常態化するなら、どこを削るかも決めておきたいです」
言い終えた瞬間、部屋の空気が少し変わった。
上司はしばらく黙り、資料を見て、それから頷いた。
「……いい。条件として妥当だ。
こっちも守る。やろう」
守る。
その言葉が、胸の奥のこわばりをほどいた。
僕は息を吐いた。
吐くと、楽が少し顔を出す。
「お願いします」
面談室を出ると、廊下がやけに明るく見えた。
眩しいわけじゃない。
ただ、世界が少しだけ“前”にある。
夕方。
デスクに戻ると、同僚が「大変になるね」と声をかけてきた。
大変になる。
たぶん本当。
でも僕は笑って言った。
「うん。だから、先に“さぁ”って言っとく」
「何それ」
「合図。始めるための」
同僚は笑って、「じゃあ俺も言っとく」と言った。
「さぁ」
二人で笑った。
笑いは、炭酸担当の仕事だ。
雰囲気が良いと、仕事は早い。
つまり勝ち。
何の勝ちかは、もうどうでもいい。
帰宅。
鍵。
カチッ。
千紗が「おかえり」と言う。
僕は靴を揃えながら、言った。
「引き受けた」
千紗が目を丸くして、それから笑った。
「さぁ の成果だね」
「うん。条件付きで」
「条件言えたの、偉い」
「いい子じゃなくて?」
「ちゃんとした大人」
その言葉が、今日いちばん効いた。
僕はソファに座り、ポケットから鈴を出した。
チン、と鳴らす。
「何それ」
「武器」
「武器?」
「始めるための武器」
千紗が笑って、カップを二つ出す。
「じゃあ、次は?」
僕は湯気を見ながら言った。
「一旦、飲む」
千紗が頷く。
「さぁ」
その二文字で、今日がちゃんと終わり、明日がちゃんと始まる気がした。




