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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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部屋は置き場所

「……ちょっと、座りたい」

 玄関でそう言った僕に、千紗は一瞬だけ目を細めて、それからすぐ頷いた。

 頷きは逃げじゃない。受信の頷き。


「了解」

 短い。軽い。だから強い。

「鈴は鳴らさない。今日は“Room”」

 千紗はそう言って、廊下の灯りを一段落とした。

 光量が下がると、耳の中の余計な音も一緒に下がる気がする。

 部屋は、こういうとき機能する。


 アンが廊下を滑走路みたいに走ってきて、僕の足元で急停止した。

 議長の現場入り。

 僕の靴下の匂いを嗅いで、くしゃっと顔をしかめる。

 それは“おかえり”と“今日の外はうるさかったな”が混ざった顔だ。


「ただいま、議長」

「にゃ」

 返事が短い。合格かどうかは保留だけど、とりあえず入室は許されたらしい。


 リビングに入ると、テーブルの上に“うちのニュース”掲示板用の紙が一枚、すでに用意されていた。

 千紗が僕より先に動いているとき、僕は少しだけ安心する。

 でも今日はそれに甘えすぎない。

 部屋は共同作業の場所だ。


 千紗はソファじゃなく、テーブルに近い椅子を二脚引いた。

 向かい合わせ、でも真正面じゃない。少し斜め。

 ゼロか百かにしない角度。

 この角度があるだけで、言葉が詰まっても逃げ道ができる。


 千紗はコップを五つ並べた。

 白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。

 内なる五人を席につかせる。

 今日は、炭酸は封印寄り。白湯とほうじ茶が主役だ。


 それから、りんご。

 包丁で切って、皿に乗せる。

 シャク、と割るための保険。

 外の音量は、たまに食感でしか割れない。


「……会議?」

 僕が聞くと、千紗は首を横に振った。

「会議は短く。今日は“部屋の手順”」

「手順」

「うん。Roomは、“置く”場所」

 千紗はそう言って、冷蔵庫の掲示板に新しい紙を貼った。千紗の字。


『本日の議題:Room

※外のノイズは“飲み込まない”

※部屋に“置く”

※言葉は座らせる(立たせない)

合図:Room=話すより先に、光量→白湯→斜め→一手』


 合図が増えた。

 昨日までなかったやつ。

 でも増え方が上手い。

 増やしすぎない。今日の最終章のための“新しい手すり”がひとつ。


「Room」

 僕は口に出してみた。

 不思議と、胸の奥が少しだけほどけた。

 言葉には置き場所がある。

 合図は、置き場所の名前になる。


 千紗は僕の前に白湯を置いた。

 湯気が、派手じゃないのに、ちゃんと“帰宅”を知らせる。

 僕は一口飲んで、息を吐いた。


「Route3、どうだった?」

 千紗が聞く。

 問いかけが軽い。軽いから答えやすい。

 でも今日は、答えを盛らない。


「刺さらなかった」

「それが勝ち」

「勝ち」

「うん。今日は“刺さらない”が最優先」

 千紗はほうじ茶を飲む。落ち着きの熱が、部屋の空気を丸くする。


 アンが椅子の下に潜り込んで、第三の動き担当に就任した。

 尻尾が床をトントン。

 議長が“では始めろ”と言ってる。


「じゃ、型」千紗が言う。

「チッ→凹凸→一手?」

「今日はブザーじゃなく、確認」

 千紗は指を二回トントンとテーブルに当てた。

「ここが凹凸」

「部屋の凹凸」

「うん。刺さったときの手すりは、床だけじゃなくて、テーブルの角にもある」

 千紗は笑った。

 笑いが出るなら、もう少し大丈夫。


「一手は?」

 僕が聞くと、千紗はりんごを指差した。

「シャク」

 僕は一切れ取って噛む。

 シャク。

 音が部屋に鳴る。

 外で鳴っていた雑音と違って、これは“自分で鳴らす音”。

 自分で鳴らす音は、怖くない。


「ねえ」千紗が言う。

「なに」

「今日の外の音量、あなたの中で何に変換された?」

「変換」

「うん。外の音がそのままだと刺さるから。部屋で変換する」

 千紗は真面目だ。

 真面目なのに重くないのは、手順があるからだ。


 僕は少し考えて、短く言った。

「……責められてる気分」

 千紗の目が少しだけ開く。

「誰に?」

「誰にも。空気に」

「空気、強いよね」

「強い」

 僕は白湯を飲んで、続きを絞る。

「速くしろって言われてる気分」

「うん」

「ちゃんとしろって言われてる気分」

「うん」

 千紗が頷く。

 頷きが、僕の言葉を座らせていく。


「それ、カプセルにする?」

 千紗が聞く。

「飲み込むとモノクロになるやつ」

「……する」

 僕が言うと、千紗は引き出しから小さな透明ケースを出した。

 サプリケースの親戚。

 千紗は紙に一行だけ書く。


『外の音量→責められてる気分(空気)』


 蓋を閉める。

 カチッ。

 散らばらない音。

 “今日のノイズ”が、部屋の中で“物”になる。


「これで、置けた」

 千紗が言う。

「置けた」

 僕も復唱する。

 置けると、抱え続けなくていい。

 抱え続けないと、次へ行ける。


 千紗はもう一枚、紙を出した。

「Roomの続き。次の一手」

「一手」

「うん。外の音量が高い日用の“戻り方”を、二人で決める」

 千紗はペン先で紙をトントン叩く。

「盛らない。三つまで」


「三つ」

「三つ」

 千紗は指を三本立てた。

「①光量 ②温度 ③距離」

 掲示板に書いた通りだ。

「で、今日はここに“言葉の席”を足したい」

「席」

「うん。言葉を立たせない」

 千紗は椅子を少しだけ斜めにずらした。

 距離が変わるだけで、言葉が座る。


「席の作り方」千紗が言う。

「合図を言う」

「Room」

「そう。Roomって言ったら、すぐ答えなくていい。説明もしなくていい」

「うん」

「白湯だけ飲んで、斜めに座って、シャクして」

「シャクして」

「で、言えそうなら一行」

「一行」

「言えなければ、保留」

 千紗は笑った。

「保留は逃げじゃない。棚」

 棚、って言葉が好きだ。

 置き場所があると、人は壊れにくい。


 僕はその手順を、心の中で一回なぞった。

 Room。

 光量。

 白湯。

 斜め。

 シャク。

 一行か保留。


 その並びが、妙に身体に馴染む。

 Route3で歩いて帰ってきた足が、ようやく座れる場所を見つけたみたいに。


 アンが椅子の下から出てきて、カプセル(ケース)をじっと見た。

 議長の審査。

 僕はケースを少し遠ざけた。

「これは食べ物じゃない」

 アンが「にゃ」と鳴いた。

 “知ってる”の顔。


「ねえ」千紗が言う。

「なに」

「今日、あなたが帰ってきてすぐ“座りたい”って言ったの、すごく良かった」

「え」

「いつもなら、頑張って平気なふりするでしょ」

「……する」

「平気なふりは、部屋にノイズを持ち込む」

 千紗はさらっと言う。責めない言い方。

「だから、今日のあなた、らしくないけど、正しい」

 らしさ。

 檻じゃない方の、形のらしさ。


「ありがとう」

 僕が言うと、千紗は鈴を鳴らさずに、指でテーブルを軽く叩いた。

 トントン。

 部屋の凹凸。承認。


 その夜、千紗は掲示板にピースを貼った。


『本日のRoom:

ノイズは飲み込まない→置く(カプセル)

合図:Room=光量→白湯→斜め→シャク→一行or保留

言葉は座らせる(立たせない)』


 僕はその横に、小さく書き足す。


『Route3→Roomで“戻る”が完成する/席は椅子じゃなく呼吸』


 アンが掲示板の下で伸びをして、欠伸をした。

 議長の“終わり”の合図。

 会議終了。入室完了。


 布団に入る前、千紗が小さく言った。

「ねえ」

「なに」

「明日、外の音量がもっと上がっても」

 千紗は少し考えて、続けた。

「うちはRoomがある」

 僕は頷いた。逃げじゃない頷きで。


「うん。置ける場所がある」

 千紗が笑って、僕の手を握った。

 鈴の代わりの合図。

 部屋は今日も、僕らのノイズの置き場所になった。

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