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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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遠回りの手すり

 その日の街は、音量がひとつ上がっていた。

 車のエンジンも、駅のアナウンスも、人の笑い声も、全部が「いつもより前に出てくる」。前に出てくるくせに、誰も悪気はない。だから余計に厄介だ。


 僕は玄関で靴ひもを結びながら、息をひとつ深く吸って、吐いた。

 吐いたのに、まだ肩が上がっている。


 足元でアンが「にゃ」と鳴いた。

 議長のチェック。

 “荷物になりそうだぞ”の鳴き方。


「分かってる」

 僕はアンの頭を撫でる。柔らかい毛が指に絡む。

 それだけで、心の中の白湯が少し動く。


 キッチンから千紗が顔を出した。エプロンの紐を結びながら、僕の顔を見て、すぐ言う。


「今日のあなた、改札に吸い込まれそう」

「またその言い方」

「的確だから言う」

「……的確」

 僕は笑ってごまかしそうになって、やめた。

 ごまかしは逃げになる。今日は逃げない。


 冷蔵庫の“うちのニュース”掲示板に、紙が一枚貼ってある。千紗の字。


『本日の注意:外の音量が高い日

※急がない(速く見せない)

※線を守る(スリット確保)

※チッ→凹凸→一手』


 いつもの型。なのに、今日のそれは“お守り”というより“工具”に見えた。

 工具はいい。使えばいい。持ってるだけで安心して、使わずに壊れるのが一番よくない。


「……ねえ」千紗が言う。

「なに」

「今日、帰り、いつもの道じゃなくてもいいよ」

「え」

「無理に“いつも通り”しない。迂回、許可」

 千紗はさらっと言う。許可の出し方が軽いのが上手い。軽いから、重くならない。


 テーブルに鈴が置かれる。

 ちりん。

 刃物じゃなく背中を押す合図。今日は押すというより、歩幅を整える合図。


「さぁ」

「……さぁ、で出勤」

「うん。帰りは“Route”ね」

「ルート?」

「第三のやつ」

 千紗は笑って言う。

「いつもの道が刺さる日用」


 僕はその言葉を、口の中で転がした。

 第三の道。

 それは逃げじゃなくて、手すりの増設だ。


 アンがくるりと一回転して、僕の足首に尻尾を当てた。

 議長の承認。行ってこい、の尻尾。


「行ってきます、議長」

「にゃ」

「行ってきます」

 千紗が軽く手を振る。

「戻る、の形でね」

「うん。戻る」


 外へ出ると、空気がすぐ耳に触った。

 音が近い。人が近い。匂いが近い。

 “近い”が多い日は、心の距離が足りなくなる。


 僕は舌で小さく鳴らした。

「チッ」

 ブザー。焦って速度を上げる前に止める音。


 凹凸。

 僕は足元を見た。点字ブロックの凸が、やけに頼もしい。

 刺さったときの手すりは、街の床にもある。


 一手。

 今日の一手は、線の上に足を置くこと。

 白線、タイルの目地、段差の縁。

 猫みたいに、線を歩く。速くはないのに、ぶれないやつ。


 駅までの道はいつも通りのはずなのに、線を探し始めた瞬間、街が“別の設計図”を見せてきた。

 ここに通り道。ここに余白。ここに避ける角度。

 スリット。

 人と人の間の、ほんの細い隙間に呼吸を通す。


 改札前で、人の流れが詰まった。

 肩と肩が触れる距離。

 誰も悪くないのに、誰かの焦りが肌に移る。


 僕の中の炭酸が跳ねる。

 「急げ」と言う。

 跳ねた勢いで、口が荒くなりそうになる。


 ブザー。

「チッ」

 凹凸。

 点字ブロックの角に靴底が触れる。

 一手。

 僕は半歩だけ、位置をずらした。.5の許可。

 それだけで、肩の力が一段落ちる。


 電車に乗る。

 ホームの風が背中を押す。

 扉が閉まる音が、今日の世界の“開始”みたいに鳴る。


 車内。

 スマホの画面がいくつも光って、情報が並走している。

 画面の光は、たまに鋭い。

 僕の受信機が閉じそうになる。


 だから、見る前に座る場所を作る。

 椅子は空いてない。

 でも、席は椅子じゃなくても作れる。


 ドア横のポールを握って、身体を少し斜めにする。

 真正面を避ける。真正面は詰める。斜めは余白。

 呼吸が座る場所を確保する。


 心の中で、内なる五人を呼ぶ。

 白湯が言う。「落ち着ける」

 紅茶が言う。「整える」

 ほうじ茶が言う。「肩を落として」

 コーヒーが言う。「目的地はここじゃない」

 炭酸が言う。「でも一歩だけなら」

 炭酸は封印寄りで、でもゼロにすると動けない。

 だから今日も半歩だけ許す。


 会社に着く頃には、頭の中の彩度が少し戻っていた。

 仕事は仕事で、いろいろある。

 でも今日は“外の音量が高い日”だから、余計な戦いはしない。

 勝ち方を小さくする。守れるサイズにする。


 昼休み。

 千紗に短いメッセージを送った。


『朝の型、効いてる。帰り、Route3いけそう』


 すぐ返事が来る。


『うん。Route3は“逃げ”じゃなく“迂回の手すり”ね。議長にも言っとく』


 議長にも。

 僕は少し笑った。

 うちの生活は、猫の承認が最上位のときがある。現実通り。


 夕方。

 仕事が終わって、建物の外へ出ると、街の音量は朝よりさらに上がっていた。

 金曜でもないのに、金曜みたいな顔をしてる。

 人が多い。車が多い。看板がやたら明るい。


 ここで“いつもの道”を選ぶと、たぶん刺さる。

 刺さったら、変なところで折れる。

 折れる前に、手すりを増やす。


 僕は立ち止まって、ブザーを鳴らした。

「チッ」

 凹凸。

 歩道の段差の縁に靴先を合わせる。

 一手。

 スマホを開いて、地図を出す……の前に、息を一つ。


 そして、千紗の言葉を思い出して口に出した。


「……Route3」

 口に出すと、妙に効いた。

 暗号みたいで、でも暗号じゃない。

 “今日の僕の選択”の名前だ。


 Route3。

 いつもの道(Route1)でも、最短の道(Route2)でもない、

 「刺さらないための第三の道」。


 僕は駅前の大通りを避けて、一本裏の通りに入った。

 商店街の端。

 八百屋の前に積まれた段ボール。

 自転車のベル。

 子どもの笑い声。

 音はあるけど、角が丸い音。


 歩道の端に、小さな植え込みが続いている。

 葉っぱが風で擦れて、さらさら鳴る。

 その音は、車内のアナウンスよりずっと優しい。


 僕はコンビニで、りんごジュースを一本買った。

 食感で割れないときの、代替のシャク。

 冷たい甘さが喉を通ると、内なる炭酸が少し落ち着く。


 信号待ちの時間、ふと窓ガラスに映った自分の顔を見る。

 改札に吸い込まれそうな顔は、少しマシになっている。

 荷物じゃなく、歩いてる人の顔。


 そのまま、いつもの最寄り駅を一つ通り過ぎた。

 遠回りだ。

 でも遠回りは、損じゃない。

 今日は“刺さらない”が最優先だから。


 坂道を上る。

 呼吸が少し速くなる。

 速くなりそうになったら、またブザー。


「チッ」

 凹凸。

 坂の途中のマンホールの縁。

 一手。

 歩幅を半歩小さくする。

 それだけで、心臓が暴れない。


 Route3のいいところは、景色が変わることだ。

 景色が変わると、同じ悩みでも“同じ角度”で抱えなくて済む。


 公園の横を通り過ぎると、犬が一匹、飼い主に引っ張られていた。

 犬は全力で匂いを嗅いで、全力で止まりたがっている。

 飼い主は笑いながら、ちょっとだけ待ってから、また歩き出す。

 ゼロか百かじゃない待ち方。

 あれ、うちのたまり場式だ。


 僕はふと、千紗に言いたくなった。

 “Route3、いい感じ”って。

 でも今は送らない。

 言葉は、家に持ち帰ってから座らせる。

 移動中の言葉は、立ちっぱなしで疲れる。


 家の近くまで来ると、街の音量が少し下がった。

 道幅が狭くなる。

 看板が減る。

 人の足音が軽くなる。


 ここまで来たら、もう勝ちに近い。

 勝ちは、派手じゃなくていい。

 “帰宅できる”が今日の勝ち。


 玄関の前に立って、鍵を回す前に、僕はもう一度だけブザーを鳴らした。

 外の音を、家の中に持ち込まないための境界線。


「チッ」

 凹凸。

 ドアノブの小さな冷たさ。

 一手。

 鍵を回す。


 扉が開く。

 家の灯りは、いつもより小さくて、でも確かに“戻る”の形だった。

 アンが走ってくる気配。

 議長が現場に来る音。


「ただいま」

 僕が言う。

 廊下の奥から千紗の声が返る。


「おかえり。Route3?」

 その問いかけが、すでに“次の部屋”の入口みたいだった。

 僕は靴を脱いで、深く息を吐いて、短く答えた。


「うん。Route3」

 そして、もう一つだけ付け足す。


「……ちょっと、座りたい」

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