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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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刺すのは針だけでいい

 予防接種の予定が入っている日は、朝から身体が少しだけ“よそ行き”になる。

 よそ行きは、綺麗な服のことじゃない。

 皮膚の内側に、見えない制服が着せられる感じ。


 予定は千紗が前夜に貼った“うちのニュース”で知っていた。

 貼り紙に、千紗の字。


『本日の予定:ワクチン

※大げさ禁止

※怖さは言っていい(隠さない)

※針が刺すのは肌だけ、言葉は刺さない

合図:Room→白湯→斜め→シャク→一行or保留』


 最後に小さく、補足があった。


『tension mix:距離が近く感じる日/音が鋭く感じる日/匂いが強く感じる日

※“淫靡”は感覚の過剰(勝手に艶っぽくなるやつ)で、笑ってOK』


 千紗らしい。

 逃げずに、でも重くしない。

 言葉を“道具”にして、怖さを“物”にして扱う。


 アンは貼り紙の下で欠伸をしていた。

 議長は医療の予定に興味がない。興味があるのは、帰宅後のスープだ。


 出発前、千紗が鈴を鳴らした。

 ちりん。

 刃物じゃなく背中を押す合図。今日は“勇気の音量つまみ”として鳴る。


「さぁ」

「……さぁ、で外出」

「うん。Route3、いらない距離で行こう」

「いらない距離?」

「最短でも最速でもない距離。刺さらない道」

 千紗はそう言って、僕の袖を軽く掴んだ。

 掴み方が強すぎない。

 手袋みたいに、触れずに守る掴み方。


 病院(というほど大きくないクリニック)は、駅の裏にある。

 白い看板。白い壁。白い床。

 白は清潔で、でも白はたまに鋭い。

 今日の僕らは“tension mix”だから、白が少し刺さる。


 受付の声が近い。

 消毒の匂いが近い。

 椅子のビニールの光り方が近い。

 全部が少しだけ、艶っぽく感じる。

 艶っぽい、という言葉がふざけてるみたいなのに、感覚としては正確だ。

 距離が縮んで、表面が濡れたみたいに、何でも肌に貼りつく。


 千紗が小さく言った。

「……tension mixだね」

「うん。世界が近い」

「近いのは、笑えるようにしよ」

 千紗はそう言って、僕の袖口を指でつまんだ。

 まるで“袖に小さな鍵”を掛けるみたいに。


「手袋」

 千紗が言う。

 触れないで守る合図。

 僕は頷いた。逃げじゃない頷きで。


 待合室の椅子は、全部同じ形で並んでいる。

 並んでいるだけで、背筋が固くなる。

 僕の中の炭酸が「逃げろ」と跳ねる。

 逃げろ、は違う。

 逃げずに、刺さらない形にする。


 千紗は椅子を選ぶとき、真正面の列を避けた。

 壁際の端。

 隣との距離が少しだけ広い席。

 ゼロか百かにしない距離の席。


「Room」

 千紗が小声で言った。

 外なのにRoom。

 でもRoomは部屋だけの言葉じゃない。

 “置ける場所を作る”手順の名前だ。


 千紗は僕に白湯の入った小さいボトルを渡した。

「温度」

「ありがとう」

 僕は一口飲んだ。

 白湯が喉を通ると、鋭い白が少し丸くなる。


 千紗はりんごの小袋を取り出した。

 皮付きの小さいカット。コンビニで買ったやつ。

 千紗の準備は現実的で、だから効く。


「シャク」

 僕は一切れ噛んだ。

 シャク。

 音が小さいのに、頭の中に空間ができる。

 スリット。

 “世界が近い”日に必要なのは、呼吸の隙間だ。


「一行、言える?」

 千紗が聞く。

「言えないなら保留」

 押さない。眩しくしない。


 僕は少し考えて、短く言った。

「……怖い」

 それだけ。

 それだけでいい。

 怖いは、恥じゃない。

 怖いは、扱える材料になる。


「了解」

 千紗は短く返した。

 返しが短いから、怖いが増えない。


 番号が呼ばれた。

 診察室へ。

 ドアを開けると、また白が近い。

 看護師さんの手袋が、ライトの下で光っている。

 その光り方が、今日の僕の皮膚を少しだけざわつかせる。

 tension mix。

 距離が近い。


 千紗が僕の袖口に指を置いて、小さく言った。

「手袋」

 その一語で、僕は“触れないで守る”を思い出す。

 触れる必要はない。

 守るのは、袖の境界線。

 袖をまくる動作は、境界線を一瞬外す動作だから、合図が必要だ。


 看護師さんが優しい声で言う。

「腕、出しますね」

 僕は反射で「はい」と言いそうになって、ブザーを鳴らした。

 声じゃなく、心の舌打ち。

「チッ」

 凹凸。

 椅子の肘掛けの角が、掌に当たる。

 一手。

 袖をまくるのを“半歩”にする。.5の許可。


 千紗が代わりに言った。

「半分で」

 看護師さんが頷いた。

「はい、大丈夫です」

 半分。

 全部じゃない。

 全部じゃないが、今日は守りになる。


 アルコール綿が腕に触れる。

 冷たい。

 冷たさが妙に鋭い。

 でも僕は白湯を思い出す。温度。

 冷たさに、熱を足して中和する。


 針が見える。

 見た瞬間、炭酸が跳ねる。

 心臓が一段上がる。

 僕は口を開きそうになって、千紗の目を見る。


 千紗は鈴を鳴らさない。

 代わりに、ほんの小さく唇だけ動かした。


「さぁ」

 音は出さない。

 でも合図は届く。

 背中を押すんじゃなく、背中に手を添える「さぁ」。


 僕は息を吐く。

 針が刺さる。

 刺さったのは肌だけ。

 言葉は刺さらない。

 僕らの手順が、言葉を守ってくれている。


 終わった。

 絆創膏が貼られる。

 たったそれだけ。

 たったそれだけなのに、身体がふっと軽くなる。

 緊張は“終わり方”が分かると解ける。


「お疲れさまでした」

 看護師さんが言う。

 僕は少し遅れて言った。

「……ありがとうございました」

 遅れた分だけ、現実通りの僕だった。


 待合室に戻ると、千紗がすぐ言った。

「ピース」

「え」

「欠片を完成側へ戻す」

 千紗は掲示板じゃないのに、手帳を開いた。

 そして一行だけ書く。


『刺すのは針だけでいい(言葉は刺さない)』


 それを僕に見せて、笑った。

「今日の合言葉」

「合言葉」

「うん。これがワクチン」

 ワクチンは、身体のため。

 でも今日の僕らは、言葉の免疫も打った気がした。


 帰り道、千紗がコンビニに寄った。

 小さいスープと、温かいお茶。

「ご褒美」

「ご褒美」

「たまり場式」

 千紗が笑う。

 僕も笑う。

 笑いが出るなら、艶っぽさも怖さも、もう“飲み込まれてない”。


 家に着く前に、千紗が僕の袖を軽くつまんだ。

「ねえ」

「なに」

「今日、怖いって言えたの、すごく良かった」

「……言えた」

「言えた。受信機が閉じなかった」

 千紗は頷く。

「だから、今日のtension mix、勝ち」

「勝ち方が地味」

「地味が最強」

 千紗は鈴を鳴らした。

 ちりん。

 帰宅の合図。戻るの合図。


 玄関を開けると、アンが走ってきて、僕の足元でくるりと回った。

 議長の合格のくるり。

 今日は匂いチェックが甘い。

 たぶん、僕の中の緊張が減ってるのを嗅いだのだと思う。


「ただいま、議長」

「にゃ」

「ただいま」

 千紗が言って、アンを撫でる。

 撫で方が柔らかい。今日の部屋は、もう最初からRoomだ。


 冷蔵庫の“うちのニュース”掲示板に、千紗がピースを貼った。


『本日のワクチン:

tension mix=距離が近い日(匂い/音/白の鋭さ)

合図=Room(光量→温度→斜め→シャク→一行)

一行=怖い(言えた)

合言葉=刺すのは針だけでいい(言葉は刺さない)

ご褒美=温かいスープ』


 僕はその横に、小さく書き足す。


『袖=境界線/手袋=触れずに守る/.5許可で半分だけ』


 アンが掲示板の下で伸びをして、欠伸をした。

 議長の“終わり”の合図。

 今日の山場は、ちゃんと終わった。


 夜、布団に入って、千紗が小さく言った。

「ねえ」

「なに」

「次はRe:STARTだね」

 最終回の名前が、部屋の空気にふわっと浮かぶ。

 重くない。

 むしろ、軽い。

 再起動は、怖いことじゃない。


 僕は白湯の温度を思い出しながら、短く答えた。


「うん。始め直せる感じがする」

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