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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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らしさの檻をほどく

 「らしさ」って、褒め言葉の顔をしている。

 でも油断すると、首輪になる。

 似合うね、って言葉が、いつの間にか「それ以外はダメ」に変わってしまう。


 その日の千紗は、首輪が少しきつそうだった。


 夕方、千紗が帰宅して、いつもなら真っ先にアンに声をかけるのに、その日は一拍遅れた。

 遅れたのは一秒くらい。

 でも僕らの生活では、その一秒が“違和感”としてはっきり鳴る。


 アンが「にゃ」と鳴いた。

 議長の指摘。

 “挨拶、まだです”の鳴き方。


「……ただいま、議長」

 千紗は遅れて言って、アンの頭を撫でた。

 撫で方は丁寧。丁寧すぎない丁寧さ。

 だから崩れてはいない。

 でも、何かが固い。


「おかえり」

「うん」

 千紗は靴を揃えて、鞄を置いて、コートを掛けて。

 全部“らしい”。

 らしいのに、顔だけが疲れている。

 らしさが、頑張りになっている。


 冷蔵庫の“うちのニュース”掲示板には、もう紙が貼ってあった。

 千紗の字。


『本日の議題:らしさ らしく

※檻にしない

※守るのは形じゃなく中身

※らしくない日を許可する』


「今日、先に貼ったんだ」

 僕が言うと、千紗は小さく笑った。

「会社で言われたから」

「何を」

「“千紗さんらしくないですね”って」

 千紗は淡々と言う。淡々は蓋。

 蓋の下で、炭酸が跳ねている音がする。


「……それ、刺さる?」

 僕が聞くと、千紗は一瞬だけ目を伏せた。

 それが答えだった。


 千紗はテーブルに鈴を置いて、ちりん、と鳴らした。

 刃物じゃなく背中を押す合図。今日は押すんじゃなく、首輪を緩める音。


「さぁ」

「……さぁ、で会議」

「会議。たまり場式」

 椅子を二脚引く。向かい合わせ、でも真正面じゃない。少し斜め。

 ゼロか百かにしない角度が、“らしさ”には必要だ。

 らしさを真正面から固定すると、檻になる。


 アンは当然のように椅子の下に潜り、第三の動き担当に就任した。

 尻尾が床をトントン。議長の開始合図。


 コップが五つ並ぶ。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人。

 そして、りんご。食感で割る保険。

 今日は“らしい”の固さをシャクで割る。


「じゃ、型」千紗が言う。

「チッ→凹凸→一手?」

「うん。言われた言葉、今、暴れそう」

 千紗が自分で言う。

 僕は舌で「チッ」と鳴らした。ブザー。

 反射で“相手が悪い”か“自分が悪い”に飛ぶのを止める。


「凹凸」

「一手」

 千紗が返す。刺さったときの手すり。


「一手目」千紗が言う。「“らしくない”の中身を分ける」

「分ける」

「うん。三つ」

 千紗は指を三本立てた。

「①期待 ②比較 ③失望」

「失望」

「うん。相手の失望じゃなく、自分の」

 千紗はりんごを一口噛む。

 シャク。

 食感が、言葉の角を削る。


「会社で言われた“らしくない”は」千紗が続けた。

「私が“いつも通り”じゃなかったって意味」

「いつも通り」

「うん。私は普段、会議で結論を整えて、皆が困らないようにする」

 千紗の“らしさ”だ。

 生活でも、仕事でも、場を整える。

 魔法じゃなく、段取り。

「でも今日、まとまらなかった」

「まとまらなかった」

「だから“らしくない”」

 千紗は言って、少しだけ肩を落とした。

 肩が落ちるのは、責めの方向に寄るサイン。


 僕は受信機を立てたまま、短く返す。

「それ、悪い“らしくない”?」

 千紗は一拍置いて、首を傾げた。

 保留のうなずき。

 だから僕は追い詰めない。

 質問攻め禁止。


「二手目」僕が言う。「“らしさ”を“檻”と“形”に分けよう」

「また分ける」

「分けるの、優しいから」

 僕は紙を出して、二つのフレームを描いた。ゆるい額縁。


 左に書く。


『檻のらしさ:いつも通りでいなきゃ』


 右に書く。


『形のらしさ:大事にしてる順番』


「順番」

 千紗の眉が少し動く。

 順番は、うちの言葉だ。守る対象の中心がそこにある。


「千紗の“順番”って何」

 僕が聞くと、千紗は少し考えて、言った。


「人が困らないようにしたい」

「うん」

「でも、それより先に」

 千紗は言い淀んだ。

 言い淀みは、“まだ言葉になってない”のサイン。

 だから僕は待つ。待つのは手袋みたいな優しさだ。


「……私が倒れないようにしたい」

 千紗が言った。

 その言葉が出た瞬間、部屋の温度が少しだけ白湯寄りになった。

 真ん中の芯が戻る。


「それが順番の一位」僕は言う。

「うん」

「だから今日、まとまらなかったのは」

 僕は続けた。

「千紗がサボったんじゃなくて、千紗の順番が働いた」

 千紗の目が少し潤む。

 でも暗く沈ませない。

 これは“救われた”の水分だ。沈む水じゃない。


「……そう言われると、ちょっと楽」

「楽が、形」

「檻じゃない」

「うん」


「三手目」千紗が言う。「明日の“らしく”を決める」

「明日」

「うん。今日の私は、らしくない日を許可した」

「許可」

「でも明日は、檻じゃない“らしく”を一個だけやる」

 千紗は指を一本立てた。

「一個」

「一個。盛らない」

 千紗は笑う。

「じゃないと、また檻になる」


「一個、何にする?」僕が聞く。

 千紗は少し考えて、言った。


「結論を先に言う」

「仕事で?」

「仕事で」

「“まとまってから話す”をやめる?」

「うん」

 千紗は頷いた。

「今日の私は、まとまってないから“らしくない”って言われた。でも」

 千紗は言葉を選んで続けた。

「まとまってないって、現実通りだよね」

「うん」

「だから明日は、まとまってなくても言う」

「それ、強い」

「強いのは、らしさじゃなく、順番」

「順番」

 千紗は鈴を鳴らした。

 ちりん。

 承認の音。首輪が緩む音。


 ここでアンが椅子の下から出てきて、テーブルの脚に頭をこつんと当てた。

 議長の承認。

 “中身が戻った”って言ってるみたいだ。


 夕飯のあと、千紗はいつものように食器を片付けようとして、途中で止まった。

 止まったあと、僕を見て言った。


「今日、私、らしくないから」

「うん」

「洗い物、保留」

 置くまぁいいや、の親戚。

 投げない。置く。カプセル化。


「了解」

 僕は短く言って、代わりに洗い物を引き受けた。

 こういうとき、守る対象は“順番”だ。

 千紗が倒れない順番。

 生活が続く順番。


 千紗はソファに座って、アンを膝に呼んだ。

 アンは一瞬迷ってから、乗った。

 議長は抱っこに厳しいけど、今日は許可したらしい。


「ねえ」千紗が言う。

「なに」

「“千紗さんらしくない”って言われたとき」

「うん」

「私、すぐ“ごめんなさい”って言いそうになった」

「言わなかった?」

「言わなかった」

 千紗は少し笑う。

「チッって、心の中で鳴らした」

「偉い」

「偉いとかじゃない」

「でも、効いた」

「効いた」

 千紗はアンの背中を撫でる。

 撫で方が、朝より柔らかい。

 今日の“らしさ”が戻っている。


 夜、掲示板に千紗がピースを貼った。


『本日のらしさ:

檻=いつも通りでいなきゃ(×)

形=大事にしてる順番(○)

順番①私が倒れない②人が困らない

明日の一個=まとまってなくても結論を先に言う

らしくない日=許可(洗い物保留)』


 僕はその横に小さく書き足す。


『らしさは褒め言葉の顔をした首輪になり得る/首輪は緩める/凹凸→一手』


 アンが掲示板の下で伸びをして、欠伸をした。

 議長の“終わり”の合図。


 布団に入って、千紗が小さく言った。

「ねえ」

「なに」

「私、らしい?」

 質問の形をしてるけど、答えが欲しいだけじゃない。

 “檻”を確かめたくない。

“形”を確かめたい。


 僕は少し考えて、短く言った。

「順番を守ってる千紗が、千紗らしい」

 千紗が笑って、鈴の代わりに僕の手を握った。

「それなら、安心」


 らしさは、檻じゃなくて、戻る場所。

 らしくない日は、その戻る場所へ戻るための寄り道。

 僕らは今日、首輪を緩めて、形だけをそっと残した。

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