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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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乗り換え上手の体温

 通勤って、たまに自分が「荷物」になる。

 ベルトコンベアに載せられて、角をぶつけないように縮んで、目だけで「運んでください」って言いながら流れていく。

 現実通り、そういう朝がある。


 その日、僕は寝起きから荷物だった。


 コーヒーを入れたのに香りが頭まで届かない。

 歯を磨いたのに口の中がまだ寝てる。

 玄関で靴ひもを結んだのに、結んだ記憶が薄い。

 そしてアンが、僕の足元で「にゃ」と鳴いた。


 議長の指摘。

 “置いてくもの、あるでしょ”の鳴き方。


「うん、うん」

 僕は反射で頷いて、アンの頭を撫でた。

 撫でた指先の感触だけが、やけに鮮明だった。


 千紗がキッチンから顔を出す。

「ねえ、今日のあなた、顔が“乗り換え失敗予告”」

「そんな顔ある?」

「ある。駅で改札に吸い込まれそうな顔」

「吸い込まれるのは改札の仕事だよ」

「仕事がうまいの、たまに怖いよね」


 冷蔵庫の“うちのニュース”掲示板には、すでに紙が貼ってあった。千紗の字。


『本日の議題:猫みたいに移動する

※急がない(速く見せない)

※線を守る(スリット確保)

※席は“戻る場所”にする』


「猫みたいに移動する、って何」

「今日のあなたに必要なやつ」

 千紗は鈴をテーブルに置いて、ちりん、と鳴らした。

 刃物じゃなく背中を押す合図。今日は押すんじゃなく、歩幅を整える音。


「さぁ」

「……さぁ、で出勤前会議?」

「一分会議」

 千紗は椅子を二脚、テーブルに引いた。向かい合わせ、でも真正面じゃない。少し斜め。

 ゼロか百かにしない角度で、朝の荷物をほどく。


 アンは当然のように椅子の下に潜り、第三の動き担当に就任した。

 尻尾が床をトントン。議長の開始合図。


 コップが五つ並ぶ。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人。

 りんごも置かれる。食感で割る保険。


「じゃ、型」千紗が言う。

「チッ→凹凸→一手?」

「うん。今日、あなた、勢いで消えそう」

 僕は舌で小さく「チッ」と鳴らした。ブザー。

 自分が荷物になる前に止める音。


「凹凸」

「一手」

 千紗が返す。手すりがある。


「一手は、“猫の歩幅”」

 千紗が言う。

「歩幅?」

「うん。急がないけど遅れないやつ。駅までの道、線を守っていく」

「線」

「段差、白線、タイルの目地。猫は線の上を歩くでしょ」

 千紗は笑う。

「あなたも今日、線の上を歩く。スリットを作る」

 余白。人混みの中で、自分の呼吸のスペースを確保するための隙間。


「了解」

 僕が言うと、アンが椅子の下で「にゃ」と鳴いた。

 議長の承認。会議終了。


 駅までの道は、いつも通りの景色だった。

 でも千紗の言った“線”を探すと、街が急に別の顔をする。


 歩道の白線。

 レンガの目地。

 点字ブロックの凸凹。

 凹凸、だ。刺さったときの手すりが、地面にもある。


 僕は意識して、その線の上に足を置いた。

 猫みたいに。

 速くはないのに、妙にぶれない。


 改札の前で、人の流れが一瞬詰まった。

 胸の奥の炭酸が「急げ!」と跳ねる。

 跳ねた勢いで、肩が硬くなる。


 僕は小さくブザー。

「チッ」

 声に出すと不思議と身体が戻る。

 凹凸。

 一手。

 一手は「一歩だけ、線の上」。

 そうすると、詰まりは詰まりのままでも怖くなくなる。


 ホームに降りる階段で、背中に誰かの焦りが当たる。

 押されると、押し返したくなる。

 でも今日は猫。猫は押し返さない。すり抜ける。


 スリット。

 人と人の間の、ほんの細い隙間。

 そこに身体を預けて、息を通す。


 電車が来て、扉が開いた。

 人が雪崩れる。

 僕は荷物になりかける。


 その瞬間、千紗の言葉が頭の中で鳴る。

 **席は“戻る場所”にする。**


 席は取れない。

 でも“戻る場所”は、座席じゃなくても作れる。


 ドア横のポールを握って、肩の力を抜く。

 足元の位置を少しずらす。

 人の気配を詰めすぎない。

 真正面じゃなく、少し斜め。

 椅子の角度がなくても、体の角度で余白は作れる。


 スマホを見ようとして、やめた。

 視線が落ちると、受信機が閉じる。

 今日は受信機を開けておく。叫びじゃなく、息を拾うために。


 向かいの席で、小学生が眠そうにうなだれている。

 隣のお母さんが、指先で子の前髪をそっと直した。

 その動きが、猫の毛づくろいに似ていた。

 派手じゃないのに、空気が柔らかくなる。


 僕はりんごのことを思い出す。

 シャク、って割る音。

 ここにはりんごはないけど、代わりにある音がある。


 **車輪のリズム。**

 ガタン、ゴトン。

 ピッ、というドアの予告。

 駅名アナウンスの抑揚。

 それらが混ざって、今朝の僕の中の「音量つまみ」になっていく。


 乗り換え駅。

 ここが今日の“transit”だ。


 人の波が押し寄せ、ホームは白と黒の流れになる。

 モノクロの日に似てる。

 でも今日は飲み込まれない。

 カプセルに入れるほどでもない。

 線を探せばいい。


 ホームの端に、黄色い線が一本走っている。

 立ち入り禁止の線。守る線。

 僕はその線の内側に、呼吸ひとつ分の距離を作って立った。

 スリット。

 その瞬間、背中が少し軽くなる。


 ふと、足元に小さな猫がいた。

 ……いるわけがない。ここは駅だ。

 でも視線を上げると、ホームの柱に貼られたポスターに、猫の写真があった。

 「迷子猫探しています」

 写真の猫は、こちらをじっと見ている。

 議長みたいな目。


 僕は思わず、ポスターの猫に頷いた。

 また僕はうなずく。

 でも今日は、それが逃げじゃない。

 “見てる”の頷きだ。


 電車が来る。

 人の流れが変わる。

 ここが“mix”の瞬間。

 同じ街なのに、テンポが切り替わる。


 僕は心の中で内なる五人を呼ぶ。

 白湯が言う。「ここにいる」

 紅茶が言う。「線を守ろう」

 ほうじ茶が言う。「肩を落として」

 コーヒーが言う。「目的地はここじゃない」

 炭酸が言う。「でも一歩だけなら」

 炭酸は封印寄り。けど、完全にいないと乗れない。

 だから“半歩”だけ許す。.5の許可。


 乗り換え完了。

 僕は“荷物”じゃなく、“歩いてきた人”として車内に立てた。

 勝ち方が地味で、だから強い。


 会社に着く頃には、頭の中の彩度が少し戻っていた。

 エントランスの自動ドアが開く。

 そこで、僕はもう一回ブザーを鳴らした。


「チッ」

 凹凸。

 一手。

 一手は「席を作る」。


 席は椅子じゃない。

 まず、呼吸が座る場所。

 次に、言葉が座る場所。

 そして、帰宅したときに“戻る”場所。


 昼休み、千紗に短いメッセージを送った。


『猫、成功。線、効いた。ありがとう』


 すぐ返信が来た。


『議長に報告しとく。帰ったら鈴ね』


 鈴。

 背中を押す合図。

 “戻る”の合図でもある。


 夜。

 玄関を開けると、アンが待っていた。

 議長は今日も現場に強い。

 僕の足元でくるりと回り、「にゃ」と鳴く。

 合格のくるり。


「ただいま」

 僕が言う。

 千紗がキッチンから顔を出す。

「おかえり。荷物、降りた?」

「降りた。猫で帰ってきた」

「猫は偉い」

「議長はもっと偉い」

 アンが「にゃ」と鳴いた。満足そう。


 千紗はテーブルに鈴を置いて、ちりん、と鳴らす。

「さぁ」

 その“さぁ”は、始まりじゃなく、終わりの“さぁ”だった。

 今日の移動を終えて、家に戻る合図。


 掲示板に、千紗が今日のピースを貼る。


『本日の猫移動:

線=白線/目地/点字ブロック(凹凸)

スリット=斜めに立つ/呼吸の席

mix=乗り換えでテンポが変わる

合図=チッ→凹凸→一手(.5許可)』


 僕はその横に小さく書き足した。


『受信機は閉じない/席は戻る場所/議長のくるりは承認』


 アンが紙の下で伸びをして、欠伸をした。

 議長の“終わり”の合図。


 通勤は、相変わらず混む。

 現実通り、なくならない。

 でも、猫みたいに移動できる日があるなら、荷物の日は減らせる。

 線の上を歩いて、余白を確保して、乗り換えでテンポを混ぜる。

 僕らの“LIKE a CAT”は、そういう生活の技だった。

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