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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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血のいらない約束

 指切り、って言葉には妙に強い匂いがある。

 子どもの頃のままのルールで、大人の今日を縛ろうとする匂い。

 「破ったら針千本」みたいな、やたら痛い匂い。


 でも僕らはもう、痛い匂いの約束はしない。

 代わりに、血のいらない約束を作る。

 ホーンみたいに、鳴らして合図にする約束を。


 その日のきっかけは、千紗の「ねえ」だった。


 夕方、僕は仕事の終わりかけで、頭の中がまだコーヒーの苦さだった。

 千紗はソファでアンを撫でながら、こちらを見た。


「ねえ」

 声が軽い。だけど芯がある。

 受信機が立つタイプの「ねえ」。


「なに」

「……指切り、しよ」

 言い方が、冗談のようで、冗談だけじゃない。

 僕の中の炭酸が一瞬跳ねて、すぐ白湯が抑えた。

 派手に反応すると眩しい。今日は眩しくしない。


「指切りって」

「血は出さない」

 千紗が先回りして言う。

「針もない」

「良かった」

「代わりに、ホーン」

「ホーン?」

「うん。鳴らして約束する」

 千紗はポケットから小さなキーホルダーを出した。

 ミニサイズのホーン。押すと「ぷっ」と鳴るタイプ。

 子どものおもちゃみたいで、ちょっと笑ってしまう。


 アンがそのホーンに鼻を近づけ、くんくん嗅いでから「にゃ」と鳴いた。

 議長の品定め。

 “痛い匂いがしないな”って言ってる顔。


 冷蔵庫の“うちのニュース”掲示板を見ると、案の定、貼り紙が増えていた。千紗の字。


『本日の議題:指切り(血なし)

※縛らない(鎖禁止)

※守れる形にする(小さく)

※破ったら責める×/見直す○』


「破ったら針千本の代わりに、見直す」

 僕が言うと、千紗は頷いた。

「現実通り。破る日はある」

「ある」

「だから、破れない約束をするんじゃなくて」

「破れても戻れる約束をする」

「そう」

 千紗は鈴をテーブルに置く代わりに、そのミニホーンを置いた。

 今日は鈴じゃなく、ホーンがスタート音。


「さぁ」

 千紗が言って、ホーンを軽く押した。

 ぷっ。

 音が間抜けで、間抜けなのに、すごく良い。

 痛い匂いが一気に消えた。


 椅子を二脚引く。向かい合わせ、でも真正面じゃない。少し斜め。

 ゼロか百かにしない角度で、“約束”を扱う会議が始まる。


 アンは当然のように椅子の下に潜り、第三の動き担当に就任した。

 尻尾が床をトントン。開始の合図。議長は手順に厳しい。


 コップが五つ並ぶ。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人。

 りんごも置く。食感で割る保険。

 約束は甘くなることがあるから、シャクで区切れるように。


「じゃ、型」千紗が言う。

「今日はホーンでブザー?」

「うん。でも先にチッ」

「え」

「約束って、勢いで言うと鎖になるから」

 千紗が真面目に言うので、僕は素直に舌打ちした。

「チッ」

 ブザー。

 千紗が返す。

「凹凸」

「一手」

 約束にも手すりと一手を。うちの癖は、こういう時に強い。


「一手目」千紗が言う。「約束の“対象”を決める」

「対象」

「うん。誰を守る約束?」

 千紗は僕を見た。

「私は、あなたを守りたい」

 言い方がまっすぐで、少しだけ胸が詰まる。

 でも暗くしない。

 僕はりんごを噛んで、シャクで胸の詰まりを割った。


「……僕も、千紗を守りたい」

「守るって言うと重い」

「じゃあ、順番を守る」

「それ」

 千紗は頷く。

 守るより順番。うちの現実運用。


「二手目」千紗が言う。「約束を“小さく”する」

「小さく」

「うん。守れるサイズ」

 千紗は紙に、掌サイズのフレームを描いた。

 掌に収まる欠片。ピース化できる大きさ。


「約束は一行だけ」

「一行」

「条件も一つだけ」

「条件」

「うん。増やすと針千本になる」

 千紗は笑って、ホーンを軽く押した。

 ぷっ。

 “針千本禁止”の音がした。


 僕は考える。

 僕らが最近いちばん困るのは、言葉が足りない時と、言葉が多すぎる時。

 頷きが逃げになる日。

 「まぁいいや」を投げる日。

 モノクロに飲まれそうな日。


 僕は一行に絞った。

「困ったら、先に“ブザー”を鳴らす」

「ブザー」

「うん。チッでもいいし、今日はホーンでもいい」

「それ、いい」

 千紗は目を少し細めた。

「約束の対象は?」

「僕たちの“勢い”」

「勢いを守る」

「勢いを守るって変だけど、放置すると暴れる」

「分かる」

 千紗はほうじ茶を押した。落ち着き担当。

「条件は?」

「“言い方が荒くなったら”」

「荒くなったら、ブザー」

「うん」

 約束は一行、条件は一つ。

 守れるサイズになった。


「三手目」千紗が言う。「破った時の手順」

「破った時」

「うん。破らない前提は嘘になる」

 千紗はきっぱり言う。

 優しい現実。


「破ったら」千紗は紙に書く。

『①責めない ②理由を一行 ③一手を決める ④戻る』


「戻る」

「うん。約束は“戻り道”がないと怖い」

 千紗はホーンを手に取って、僕の前に置いた。

「これ、指切りの代わり」

「指は?」

「指は、握る」

 千紗はそう言って、僕の小指じゃなく手のひらを取った。

 小指は子どものルール。手のひらは大人の現実。

 握ると、体温が伝わる。血はいらない。


「じゃあ、鳴らす?」

 千紗が聞く。

 僕は頷いて、ホーンを押した。

 ぷっ。

 その瞬間、アンが椅子の下から飛び出してきて、ホーンを睨んだ。

 議長、音に敏感。


「ごめん議長」千紗が言う。

「にゃ」

 許されたかどうかは分からないけど、議長はホーンの横に座り込んだ。

 監視体制。契約の立会人。


 千紗が言う。

「じゃ、約束の読み上げ」

 千紗は紙を持って、少し照れながら読む。


「言い方が荒くなったら、先にブザー(チッかホーン)を鳴らす」

 僕も復唱する。

「言い方が荒くなったら、先にブザー」

 千紗がホーンを軽く押した。

 ぷっ。

 音が間抜けで、間抜けだからこそ、怖くない。

 怖くない約束は、守りやすい。


 その夜、約束の効き目はすぐ出た。


 僕が食器棚の扉に肘をぶつけて、「っ……」と声が荒くなりかけた。

 反射で「なんでこんなとこに…」と言いそうになって、僕は止まった。

 ブザー。

「チッ」

 千紗が台所から顔を出す。

「凹凸」

「一手」

「一手は?」

 千紗が聞く。

 僕は額を押さえて、短く言った。

「……痛い。八つ当たりしそう」

 言えた。

 荒い言葉になる前に、言えた。


「了解」千紗が言う。「白湯」

 千紗は白湯を持ってきて、僕の前に置いた。

 温度で落ち着かせる。

 勢いを守る。

 今日の約束が働いた。


 千紗は掲示板に今日のピースを貼った。


『本日の指切り(血なし):

約束=言い方が荒くなったら、先にブザー(チッ/ホーン)

破ったら=責めない→理由一行→一手→戻る

立会人=議長』


 僕はその横に小さく書き足す。


『ホーンは“怖くない合図”/約束は鎖じゃなく手すり』


 アンが紙の下で伸びをして、欠伸をした。

 議長の“終わり”の合図。契約成立。


 布団に入る前、千紗がホーンを枕元に置いた。

 鈴じゃなくホーン。

 今日だけの特別な音。


「ねえ」千紗が言う。

「なに」

「約束、守れそう?」

 僕は少し考えて、正直に言った。

「破る日もある」

「うん」

「でも戻れる」

「うん」

 千紗が笑って、ホーンを軽く押した。

 ぷっ。

「さぁ」

「寝る」

「戻る」


 痛い匂いの約束じゃなくて、

 間抜けで優しい音の約束。

 僕らはそれを、指切りの代わりに、今日も枕元に置く。

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