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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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試す前の手すり

 「やってみようよ」って言葉は、光がある。

 でも光は、角度を間違えると眩しい。

 眩しいと、人は目を閉じる。閉じた目に向かって「ほら!見て!」は、ただの暴力になる。


 だから僕らは、“やってみようよ”を、実験の言葉に直す。


 その日、千紗が言ったのは、ふたつの意味で小さな挑戦だった。


「ねえ」

 洗い物の泡がまだ指先に残ってるタイミングで、千紗が言う。

 このタイミングの「ねえ」は、重大じゃないふりをした重大だ。

 受信機が立つ。


「なに」

「……やってみようよ」

 千紗の声は、明るい。

 明るいけど、どこか慎重。

 火をつけたいけど燃やしたくない焔の声。


「何を?」

「動画」

「動画?」

「うん。あなた、最近“声の取説”とか“魔法の瓶”とか…うちの手順、増えたじゃん」

「増えた」

「それ、残したい」

 残す。

 その単語に、僕の中の警戒がちょっと立つ。

 残すは鎖になりやすい。

 でも千紗はすぐ続けた。


「鎖じゃなく、カプセル」

「モノクロカプセルみたいに?」

「そう。開けるのは後でいい。残すだけ」

 千紗はうまい。眩しくない言い方を選ぶ。


 アンが床を滑走路みたいに歩いてきて、僕らの間に座った。

 議長の介入。

 “勢いで決めるなよ”って顔。


 冷蔵庫の“うちのニュース”掲示板に、もう紙が貼られていた。千紗の字。

 いつ貼ったのか分からないのに、ある。


『本日の議題:やってみようよ

※押さない(背中を叩かない)

※実験にする(失敗OK)

※やめても勝ち』


「やめても勝ち、が好き」

 僕が言うと、千紗は笑った。

「私も好き。逃げじゃなく、撤退」

「撤退」

「戦略」

 今日の“やってみようよ”は、最初から戦略っぽい。


 千紗はテーブルに鈴を置いた。

 ちりん。

 刃物じゃなく背中を押す合図。今日は押すというより、実験開始の合図。


「さぁ」

「……さぁ、で実験会議」

「実験会議」

 椅子を二脚引く。向かい合わせ、でも真正面じゃない。少し斜め。

 ゼロか百かにしない角度で、“試す”を扱う。


 アンは当然のように椅子の下に潜り、第三の動き担当に就任した。

 尻尾が床をトントン。開始の合図。


 コップが五つ並ぶ。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人。

 そして、りんご。食感で割る保険。

 今日は“試す”の前にシャクで落ち着く。


「じゃ、型」千紗が言う。

「チッ→凹凸→一手?」

「うん。あなた、チッ」

 僕は舌で「チッ」と鳴らした。ブザー。

 勢いで“やろうやろう!”に炭酸が暴発するのを止める。


「凹凸」

「一手」

 千紗が返す。手すりがある。


「一手目」千紗が言う。「“やってみようよ”の安全装置」

「安全装置」

「うん。三つ」

 千紗は指を三本立てた。

「①時間のフレーム ②目的の一行 ③やめる合図」

「やめる合図」

「うん。撤退ボタン」

 千紗は鈴を指でつまむ。

「撤退は鈴じゃない。鈴は開始」

「撤退は?」

「手袋」

 触れないで守る。

 やめるときほど、優しく守る必要がある。


「二手目」千紗が言う。「動画の目的を一行」

「一行」

「うん。盛らない」

 僕は少し考えて、言った。


「うちの手順を、未来の僕らが思い出すため」

「いい」千紗が言う。「“バズる”禁止」

「禁止」

「眩しいから」

「了解」

 僕はりんごを噛む。シャク。

 眩しさを割る。


「三手目」千紗が言う。「時間のフレーム」

「何分」

「……3分」

「短っ」

「短いのが勝つ」

 千紗は真顔で言う。

「3分で“手順ひとつ”だけ撮る」

「どの手順」

「チッ→凹凸→一手」

 基礎。

 僕らの生活の基礎。

 これなら盛らない。眩しくない。


 千紗はスマホを三脚に立てた。

 リビングの角度が少し斜めになるように。

 真正面は詰める。斜めは余白。

 千紗はよく分かってる。


 アンが三脚の脚に鼻を近づけて、くんくん嗅ぐ。

 議長が機材チェック。

 千紗が小声で言う。

「議長、映り込みは可」

 アンが「にゃ」と鳴いた。

 たぶん承認。


「じゃ、開始」

 千紗が鈴を鳴らす。

 ちりん。

「さぁ」

 録画ボタンが赤くなる。

 赤は派手だけど、今日は怖くない。

 3分というフレームがあるから。


 千紗がカメラに向かって言う。

「うちの“困ったときの型”です。まず、ブザー」

 千紗は舌で小さく「チッ」。

「次、手すり。凹凸」

 そして僕を見る。

 僕が短く言う。

「一手」

 それだけで、もう一つの声が重なる。僕たちの声。


 千紗は続ける。

「大事なのは、一手だけにすること。質問攻めしない。解決を急がない」

 ここで千紗が一瞬、言葉を盛りそうになる。

 説明の癖が出る。

 僕は小さく、机の下で手袋を指で触った。撤退ボタンの予告。

 千紗がそれに気づいて、言葉を短くした。


「以上」

 短い。

 でも届く。

 “下手くそ応援歌”のサビみたいに、短い方が残る。


 千紗が録画を止めた。

 3分のうち、1分ちょっとしか使ってない。

 余白が残るのが、今日の勝ち方。


「見返す?」僕が聞く。

 千紗は一拍置いて、首を傾げる。

 保留のうなずき。

 翻訳する。


「保留?」

「……保留」千紗が言う。「今見返すと、恥ずかしくて消したくなる」

「分かる」

「だから、カプセル」

 千紗は動画を“非公開のメモ”みたいなフォルダに入れた。

 名前だけ付ける。


『基礎:チッ→凹凸→一手(3分)』


 これで、残した。

 縛らない。開けない。

 モノクロカプセルの親戚だ。


 アンが三脚のそばで伸びをして、欠伸をした。

 議長の“終わり”の合図。


 千紗は掲示板に今日のピースを貼った。


『本日のやってみようよ:

押さない/実験/やめても勝ち

安全装置=時間(3分)+目的(一行)+撤退(手袋)

撮った=基礎(チッ→凹凸→一手)※見返しは保留(カプセル)』


 僕はその横に小さく書き足した。


『“やってみようよ”は眩しくしない/困ったらシャクで区切る』


 夜、布団に入る前。

 千紗がぽつっと言った。

「ねえ」

「なに」

「もう一本、やってみる?」

 僕の中の炭酸が跳ねた。

 でも今日は実験。

 押さない。

 やめても勝ち。


 僕は笑って、短く言った。

「……明日」

 千紗が頷いて、鈴の代わりに僕の手を握った。

「うん。明日でも勝ち」


 “やってみようよ”は、背中を叩く言葉じゃない。

 手すりを増やす言葉だ。

 増えた手すりは、未来の僕らが転ばないための、静かな魔法になる。

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