白黒を飲み込まず包む
白と黒だけの日がある。
悲しいとかじゃなくて、明るいとかでもなくて、ただ色が抜ける。
テレビの彩度を下げたみたいに、言葉の端が乾いて、笑いの角度が分からなくなる。
その朝の千紗は、まさに“モノクロ”だった。
「おはよう」
僕が言う。
「……おはよ」
千紗の返事はある。あるのに、色が薄い。
アンはいつも通りに床を滑走路みたいに歩いてきて、千紗の足元で止まり、上目づかいで見上げた。
議長の観察。
“今日は何味?”って聞いてる顔。
千紗はアンの頭を撫でた。撫でる動きは丁寧。だから大丈夫。
でも、丁寧すぎる丁寧さは、余裕がない丁寧さでもある。
僕は受信機を立てる。叫びじゃなく、息の音を拾う向き。
千紗の息は浅くない。だけど、真ん中に芯がない。
白湯じゃなくて、薄い氷水みたいな感じ。
冷蔵庫の“うちのニュース”掲示板に、新しい紙が貼られていた。千紗の字。
『本日の議題:モノクロカプセル
※白黒を否定しない
※飲み込まない
※カプセルに入れて持つ(後で開ける)』
「朝から新発明」
僕が言うと、千紗は口元だけ上げた。
「発明じゃない。応急処置」
「応急」
「うん。今日の私は、色を作る元気がない」
言い切るのに、力が要るみたいだった。
だから僕は、上手い言葉を探さない。
「了解」
短く言う。
うなずきの翻訳機で、了解のうなずきを声にする。
千紗がテーブルに鈴を置いた。
ちりん。
刃物じゃなく背中を押す合図。今日は押すんじゃなく、白黒を“こぼさない”ための蓋の音。
「さぁ」
「……さぁ、で会議?」
「会議。たまり場式」
椅子を二脚引く。向かい合わせ、でも真正面じゃない。少し斜め。
ゼロか百かにしない角度が、白黒の日にも効く。
アンは当然のように椅子の下に潜り、第三の動き担当に就任した。
尻尾が床をトントン叩く。開始の合図。議長は手順に厳しい。
コップが五つ並ぶ。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人。
そして、りんご。食感で割る保険。
今日は色がないからこそ、シャクの音が色になる。
「じゃ、型」千紗が言う。
「チッ→凹凸→一手?」
「うん。あなた、チッ」
僕は舌で「チッ」と鳴らした。ブザー。
焦って“元気出して”を言いそうになる自分を止めるブザー。
「凹凸」
「一手」
千紗が返す。刺さったときの手すりが、今日は“白黒の手すり”になる。
「一手目」千紗が言う。「モノクロを定義する」
「定義」
「うん。今日の白黒、どんな感じ?」
千紗はペンを持って、紙に小さなフレームを描いた。ゆるい額縁。
「ここに入る言葉だけ」
「短く」
「短く」
千紗は少し黙って、ほうじ茶を一口飲んでから言った。
「……何もしたくない、じゃなくて」
「うん」
「何をしても、同じに見える」
その言い方が、すごく正確だった。
僕の中の紅茶が頷く。整える担当が「それだ」と言う。
「了解」
僕はもう一度言った。
了解は、受信機が受信したという合図だ。
「二手目」千紗が言う。「カプセルを作る」
「カプセル」
「うん。飲み込むと胃が冷える。だから包む」
千紗は引き出しから小さな薬ケースを出した。
透明で、丸い蓋。
「これ、もともとサプリ入れ」
「現実通り」
「うん。現実通りを借りる」
千紗はケースに、白い紙を小さく折って入れた。
紙にはこう書いた。
『今日のモノクロ:何をしても同じに見える』
そして蓋を閉める。
カチッ。
音が気持ちいい。
白黒が、散らばらない音。
「これがモノクロカプセル」
「持つの?」
「うん。持つ。持つだけ」
「開けない?」
「開けない。今日は開けない日」
千紗が言い切ると、アンが椅子の下から「にゃ」と鳴いた。
議長の“それでいい”の鳴き方。
「三手目」千紗が言う。「色を足すんじゃなく、“色の入口”だけ作る」
「入口」
「うん。色を作る元気がない日は、入口だけ開ける」
千紗はテーブルの端を指でトントン叩いた。
「スリット」
「余白」
「余白がないと、白黒が壁になる」
千紗は椅子をほんの少し斜めにずらした。
距離の調整。
ゼロか百かにしない手順。
「入口は三つ」千紗が言う。
「音、温度、距離」
「またそれ」
「効くから」
千紗は鈴をちりん、と小さく鳴らした。音。
白湯を一口飲む。温度。
椅子を斜めにして、僕との距離を詰めすぎない。距離。
「これだけ」
「これだけで魔法?」
「魔法じゃない。換気」
「換気」
「うん。白黒は密閉すると苦しい」
千紗は笑った。
笑いは薄いけど、笑いがあるなら入口は開いてる。
午前中、千紗は“モノクロのまま”仕事をした。
色がないから、集中しやすいこともある。
でも集中しすぎると、体が硬くなる。
硬くなりすぎると、白黒が石になる。
昼過ぎ、千紗が椅子から立ち上がって、台所で止まった。
手が止まった。息が止まった。
叫びじゃない、小さな叫びの手前の息。
僕の受信機が拾う。
僕は近づきすぎない距離で言った。
「チッ」
ブザー。
千紗は一拍置いて返す。
「凹凸」
「一手」
「一手は?」
千紗が聞く。
聞けるなら、まだ崩れてない。
僕はりんごを一切れ、皿に乗せて差し出した。
言葉じゃなく、食感の入口。
千紗は受け取って噛んだ。
シャク。
音が部屋に出る。
白黒の部屋に、音という色が一滴落ちる。
「……ありがと」
千紗の声が少し戻る。
戻るのは、色じゃなく、輪郭だ。輪郭が戻ると、色は後からついてくる。
「ねえ」千紗が言う。
「なに」
「モノクロ、悪くないね」
「悪くない」
「だって、余計なことが見えない」
「うん」
「ただ、長いと怖い」
「だからカプセル」
「そう」
千紗はポケットから、さっきの薬ケースを取り出した。
丸いカプセルを指先でくるくる回す。
「これがあると、白黒を“私そのもの”にしなくて済む」
「白黒は状態」
「うん。状態」
千紗は深く息を吐いた。
呼吸が少しだけ長くなる。
ほうじ茶の呼吸だ。
夕方、僕らは散歩に出た。
買い物というほどじゃなく、換気のための外出。
千紗は色を作る元気がないまま、でも歩ける。
歩けるなら十分。
十分のまま置けるのが、今日の勝ち方。
道端の花屋の前で、千紗が立ち止まった。
店先に、小さな黄色い花が並んでいる。
黄色は派手だ。
でも今日は、派手が“攻撃”じゃなく“入口”に見える。
「買う?」僕が聞く。
千紗は首を振りかけて、止めた。
その動きが“保留”のうなずきに近い。
だから僕は翻訳する。
「保留?」
「……保留」千紗が小さく言う。「今日、色を持つと、逆に怖い」
「了解」
「でも、見たのは良かった」
「入口」
「うん、入口」
千紗はポケットのカプセルを軽く握った。
白黒のままでも、入口は作れる。
帰宅すると、アンが玄関まで出迎えに来て、僕らの足元でくるりと回った。
議長の審査。合格のくるり。
千紗がしゃがんでアンを撫でる。
その撫で方が、朝より少しだけ柔らかい。
台所に戻ると、千紗は掲示板に今日のピースを貼った。
欠片を完成側へ戻す合図。
『本日のモノクロカプセル:
定義=何をしても同じに見える
処置=紙に書いてカプセル化(開けない)
入口=音(鈴)温度(白湯)距離(斜め)+シャク(りんご)
※白黒は状態、私じゃない』
僕はその横に小さく書き足す。
『チッ=ブザー→凹凸→一手/困ったら“入口だけ”作る』
アンが掲示板の下で伸びをして、欠伸をした。
議長の“終わり”の合図。会議終了。
夜、布団に入る前。
千紗がポケットからカプセルを取り出して、枕元に置いた。
置き方が丁寧すぎない丁寧さだった。
余裕が少し戻っている。
「ねえ」千紗が言う。
「なに」
「明日、開けるかは、明日の私が決める」
「うん」
「今日は、持つだけでいい」
「了解」
僕は短く答えた。
余計な色を付けない。
白黒の日には、白黒の優しさがある。
千紗が鈴を一回だけ鳴らした。
ちりん。
「さぁ」
「寝る」
「戻る」
僕らは言って、灯りを落とした。
白黒のカプセルは、枕元で静かに眠る。
飲み込まないで、こぼさないで、持っていける形。
色は、入口さえ開いていれば、いつか勝手に戻ってくる。
僕らはその“いつか”を急かさない。




