まだまだの使い分け
「まだまだ」って、二種類ある。
ひとつは自分を殴るための「まだまだ」。
もうひとつは背中に手を添えるための「まだまだ」。
同じ文字なのに、握り方が違う。
その日の千紗は、前者を掴みかけていた。
夕方、玄関の鍵が回る音がして、千紗が帰ってきた。
「ただいま」
声は普通。靴の脱ぎ方も普通。アンへの「ただいま、議長」もいつも通り。
なのに、鞄を置くときの“置き方”だけが、少しだけ雑だった。
雑は、疲れのサイン。受信機が拾う。
「おかえり」
「うん」
千紗は頷いて、すぐ冷蔵庫を開けた。
牛乳を一口飲んで、息を吐く。
白湯じゃなく牛乳の日は、内なるコーヒーが少し強い。
掲示板の“うちのニュース”には、すでに貼り紙があった。
今日も千紗の字。早い。いつ貼ったのか分からないのに、ある。
その紙にはこう書いてあった。
『本日の議題:まだまだ
※殴らない
※伸ばす
※比較は昨日の自分だけ』
僕はそれを見て、思わず笑いそうになった。
「貼るの早い」
「今日、早かった」
「何が」
「“まだまだ”が出るのが」
千紗は淡々と言った。
淡々としてるけど、淡々は時々、火種の蓋でもある。
千紗はテーブルに鈴を置いて、ちりん、と鳴らした。
刃物じゃなく背中を押す合図。今日は押すというより、握り直す音。
「さぁ」
「……さぁ、で会議」
「会議。たまり場式」
椅子を二脚引く。向かい合わせ、でも真正面じゃない。少し斜め。
ゼロか百かにしない角度が、今日も心の角を丸くする。
アンは当然のように椅子の下に潜り、第三の動き担当に就任した。
尻尾が床をトントン。議長の開始合図。
コップが五つ並ぶ。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人。
りんごも置く。食感で割る保険。
今日は“まだまだ”が固くなったらシャクで割る。
「じゃ、型」千紗が言う。
「チッ→凹凸→一手?」
「うん。あなた、チッ」
僕は舌で「チッ」と鳴らした。ブザー。
勢いで自分を殴るのを止めるブザー。
「凹凸」
「一手」
千紗が返す。手すりがある。
「一手目」千紗が言う。「今日の“まだまだ”は、どっち?」
「どっち」
「殴る?伸ばす?」
千紗は自分に向けて問いを投げる。投げるんじゃない、置く問い。
千紗は少し黙って、りんごを一切れ手に取った。
シャク。
食感で、言葉の角を削る。
「……殴る、寄り」
「寄りはいい」僕が言う。「封印じゃない」
「うん」
千紗はほうじ茶のコップを押した。落ち着き担当。
「でも殴りたくなる」
「理由は?」
「……今日、上手く言えなかった」
「何が」
「会議で、言いたいことがまとまらなくて」
千紗は言って、肩をすくめた。
「で、帰り道で思った。まだまだだなって」
その“まだまだ”は、重い石みたいに聞こえた。
僕は受信機を立てたまま、言葉を短くする。
今日は眩しい応援は禁止。上手さ禁止。
下手でも届くやつを選ぶ。
「それ、伸びる方にできる」
僕が言うと、千紗は眉を少し上げる。
「どうやって」
「“まだ”と“まだまだ”を分ける」
「分ける」
「うん。言葉を工事する」
マイセルフの工事現場。今日も開幕だ。
「二手目」僕は言う。「“まだ”の意味を決める」
僕は紙を出して、二つのフレームを描いた。ゆるい額縁。
左の枠に書く。
『殴るまだまだ:まだ“できない”』
右の枠に書く。
『伸ばすまだまだ:まだ“伸びる”』
「違い、たったそれ?」
「たったそれが強い」
「ふうん」
千紗は紙を見て、少しだけ口元が緩む。
効いてる。眉の角度が軽くなる。
「三手目」僕は言う。「比較を昨日の自分に限定する」
「貼り紙に書いてある」
「うん。だから実演」
僕は千紗を見て、質問を絞る。
「昨日の自分と比べて、今日の自分、何が一個増えた?」
「増えた?」
「“できた”じゃなくて“増えた”」
増えた、は殴りにくい。伸びやすい。
千紗は少し考えて、言った。
「……途中で止まらなかった」
「何が」
「会議で、まとまらないまま、黙って逃げるのをやめた」
千紗は言いながら、自分で驚いたみたいに瞬きをした。
自分の成長に気づくときの顔だ。
「それ、伸びてる」
「伸びてる?」
「うん。昨日の千紗は、止まってた」
「……確かに」
千紗がほうじ茶を飲む。落ち着きの熱が戻ってくる。
アンが椅子の下から出てきて、テーブルの脚に頭をこつんと当てた。
議長の承認。
“伸びた”が嘘じゃないって、猫が言ってる気がする。
それでも、千紗の中の石はまだ重い。
重い石が残ってるのも、現実通りだ。
「ねえ」千紗が言う。
「なに」
「でもさ、今日の私は、まだまだだよ」
言い方が、殴り寄りに戻りかける。
僕はすぐブザーを鳴らした。
「チッ」
千紗が即座に返す。
「凹凸」
「一手」
「一手は?」
千紗が聞く。
僕はりんごを指差す。
千紗が噛む。シャク。
食感で割ってから、僕は短く言った。
「その“まだまだ”は、どっちにしたい?」
千紗は一拍置いて、言った。
「……伸ばす」
「じゃあ翻訳」
僕はさっきの右枠を指で叩く。
「まだ“伸びる”」
千紗は小さく復唱した。
「まだ、伸びる」
声が少し明るくなる。
焔じゃない。白湯くらい。燃えない、灯る。
「伸ばす“まだまだ”の形、もう一個」僕は言う。
「何」
「“まだまだ”を、手順にする」
「手順」
「うん。しょうがない、が段取りになるみたいに」
僕は紙に書く。
『まだまだ=①学ぶ ②試す ③休む ④戻る』
「休む、入るんだ」
「入る」
「休まないと、殴る方に戻る」
「……そうだね」
千紗は頷いた。
今日は“うなずき”が逃げじゃなく、声になっている。
千紗は鈴を手に取って、ちりん、と鳴らした。
「さぁ」
「何のさぁ」
「“試す”のさぁ」
千紗はスマホを開いて、会議の録音メモみたいに、今日の反省を短く書き始めた。
長文にしない。説明で埋めない。
箇条書きで、ピースにする。
『今日の会議:
・言いたいことが散った
・でも逃げなかった(増えた)
・次は“結論だけ先に言う”を試す』
「それが“試す”」僕が言う。
「うん」千紗は笑う。「まだ、伸びる」
言えた。自分で言えたのが大きい。
夜、千紗は掲示板に今日のピースを貼った。
『本日のまだまだ:殴る×/伸ばす○
翻訳:まだ“伸びる”
手順:①学ぶ②試す③休む④戻る
比較:昨日の自分だけ』
僕はその横に小さく書き足す。
『チッ=ブザー→凹凸→一手/シャクで角を落とす』
アンが紙の下で伸びをして、欠伸をした。
議長の“終わり”の合図。会議終了。
布団に入って、千紗が小さく言った。
「ねえ」
「なに」
「私、まだまだ?」
聞き方が、殴る方じゃない。確かめる方。
僕は照れないように、でも逃げないように、短く答えた。
「うん。まだ、伸びる」
千紗が笑って、僕の手を握った。
鈴の代わりの合図。
今日の“まだまだ”は、石じゃなくて、芽だった。




