うなずきの翻訳機
僕はよく、うなずく。
うなずくのは便利で、早くて、平和で、たぶん安全だ。
でも安全なものほど、置き方を間違えると人を遠ざける。
その日の僕は、うなずきで距離を作ってしまっていた。
夕飯のあと。
洗い物を終えて、アンが椅子の下で丸くなって、部屋の空気が白湯みたいに落ち着いている時間。
千紗がソファに座って、膝の上にクッションを抱えていた。
「ねえ」
千紗の声が、少しだけ斜めだった。
角度がある声は、受信機を立てる合図だ。
「うん」
僕は言った。
そして、うなずいた。
それだけ。
「……うん、じゃなくて」
千紗は笑ってない。怒ってもない。
ただ、少し困っている。
僕は口を開けようとして、言葉が見つからなくて、またうなずいてしまった。
うなずきは、僕の“逃げのドア”でもある。
アンが、椅子の下から「にゃ」と鳴いた。
議長の小さいブザー。
空気が「それ、今じゃない」と言ってる。
千紗は立ち上がって、冷蔵庫の“うちのニュース”掲示板に新しい紙を貼った。
千紗の字。
『本日の議題:うなずき
※逃げにしない
※翻訳する
※一手にする』
僕はその紙を見て、ちょっとだけ救われた。
叱られるんじゃなく、手順にされる。
うちのやり方だ。
千紗はテーブルに鈴を置いた。
ちりん。
刃物じゃなく背中を押す合図。今日は“うなずきを言葉にする”ためのスタート音。
「さぁ」
「……さぁ、で会議」
「会議」
千紗は椅子を二脚引いた。向かい合わせ、でも真正面じゃない。少し斜め。
ゼロか百かにしない角度で、僕のうなずきを解剖する。
アンは当然のように椅子の下に潜り、第三の動き担当に就任した。
尻尾が床をトントン。開始の合図。
コップが五つ並ぶ。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人。
そして、りんご。食感で割る保険。
今日はシャクで“頷きのクセ”を割っていく日。
「じゃ、型」千紗が言う。
「チッ→凹凸→一手?」
「うん。あなた、チッして」
僕は舌で「チッ」と鳴らした。ブザー。
勢いで“うなずき逃げ”をするのを止める。
「凹凸」
「一手」
千紗が返す。刺さったときの手すりがある。
「一手目」千紗が言う。「うなずきの種類を分ける」
「種類」
「うん。あなたの“うん”は、五種類くらいある」
千紗はペンで紙に丸を五つ描いた。
内なる五人の丸みたいに。
「名前つけよ」
「……名前?」
「名前があると、逃げじゃなくなる」
千紗は真面目だ。こういう時の真面目は優しい。
千紗は丸に書いた。
1)**了解のうなずき**(情報を受け取った)
2)**共感のうなずき**(気持ちに触れた)
3)**保留のうなずき**(今は言葉にできない)
4)**逃げのうなずき**(終わらせたい)
5)**照れのうなずき**(言うと甘くなる)
「……逃げ、あるんだ」
「ある」
千紗は即答。
「でも責めない。分けるだけ」
「分けるだけ」
「うん。分類は優しい」
分類は檻になりがちだけど、今日は作業台として使う。
「二手目」千紗が言う。「翻訳機を作る」
「翻訳機」
「うん。“うなずき→短い言葉”に変換する」
千紗は紙に矢印を書いた。
**了解のうなずき → 「了解」**
**共感のうなずき → 「それ、分かる」**
**保留のうなずき → 「保留(今は言葉が出ない)」**
**逃げのうなずき → 「今、怖い/終わらせたくなってる」**
**照れのうなずき → 「言うと甘くなる」**
「照れの翻訳、かわいい」
「かわいくていい」千紗が言う。「恋は派手禁止だけど、甘さは六角に分けてOK」
「六角」
「うん。ハニカム式」
千紗は笑って、りんごを一切れくれた。
シャク。
甘さの前に食感で区切る。うちの手癖。
「三手目」千紗が言う。「実演」
「実演」
「うん。さっきの場面、もう一回やる」
千紗はソファの方を指差す。
「戻る」
錨だ。たまり場式の錨。
僕は頷いて、席を移動した。
ソファに座り直すと、空気がさっきの続きを連れてくる。
千紗がクッションを抱えた姿勢も、さっきと同じ。
アンも同じ位置。議長は再現性を重視する。
「ねえ」千紗が言う。
さっきと同じ“ねえ”。
「今日、ちょっと寂しかった」
言い方が軽いのに、芯がある。
受信機が拾う。
僕は反射でうなずきそうになって、ブザーを鳴らした。
「チッ」
千紗が即座に返す。
「凹凸」
「一手」
「一手は?」
千紗が聞く。
僕は胸の中で五つの丸を思い出す。
今の僕のうなずきは、どれだ。
共感、だけど、怖さもある。
寂しかった、と言われると、自分が悪い気がして、逃げたくなる。
でも逃げない。
僕は短く言った。
「それ、分かる」
共感の翻訳。
千紗の目が少しだけ柔らかくなる。
続ける。
「……で、今ちょっと怖い」
逃げのうなずきの翻訳。
逃げを“言葉”にすると、逃げじゃなくなる。不思議だ。
「怖い?」
「うん。寂しかったって言われると、謝るしかない気がして」
「うん」千紗が頷く。「謝らなくていい」
「え」
「あなたが今やったの、謝罪じゃなくて受信」
千紗はそう言って、鈴を鳴らした。
ちりん。
承認の音。背中を押す音じゃなく、足元を固める音。
「じゃあ、私も翻訳する」千紗が言う。
千紗は少し考えて、短く言った。
「寂しかった、は“責めたい”じゃなくて、“近づきたい”」
僕の胸が、ふっと軽くなる。
責められると思ってたのが、勝手な怖さだったと分かる。
僕はつい、うなずいた。
でも今日は、それを投げない。置く。翻訳する。
「了解」
僕が言うと、千紗は笑った。
「了解、はあなたの声だね」
「うん」
僕はもう一回、今度は照れのうなずきになりそうで、先に言った。
「言うと甘くなる」
「言って」
「……好き」
派手禁止なのに、言ってしまった。
でも言ったあと、千紗は笑って、炭酸を封印寄りにした顔で言った。
「甘さ、六角に分けた?」
「……分けたつもり」
「じゃあ一個目は」
千紗が指を一本立てる。
「今のは“照れのうなずき”の翻訳成功」
僕は笑ってしまった。
アンが「にゃ」と鳴く。
議長は“雑談しすぎ”に厳しい。
「戻る」千紗が言う。
「戻る」
僕らはテーブルに戻った。
会議の終わりをちゃんと作る。終わりがあると、安心する。
千紗は掲示板に、今日のピースを貼った。
『本日のうなずき:
分類→翻訳→実演
共感=それ、分かる
保留=保留(今は言葉が出ない)
逃げ=今怖い(終わらせたくなってる)
照れ=言うと甘くなる』
僕はその横に小さく書き足した。
『チッ=ブザー→凹凸→一手/うなずきは“声”にもなる』
アンが掲示板の下で伸びをした。
議長の承認。会議終了。
夜、寝る前。
千紗が布団の中で、いつもの声で言った。
「ねえ」
「なに」
僕は反射でうなずきそうになって、笑ってしまって、短く言った。
「聞いてる」
千紗が笑って、鈴の代わりに僕の手を握った。
それが今日の合図。
うなずきは、もう逃げのドアじゃなくなっていた。




