恋の魔法は生活
魔法って言うと、だいたい派手だ。
光が降るとか、花が舞うとか、心臓が爆発するとか。
でも僕らの家の魔法は、もっと静かで、だいたい台所にある。
その日の魔法は、メモ帳から始まった。
朝、僕が冷蔵庫を開けると、“うちのニュース”掲示板に紙が一枚追加されていた。
千紗の字。丸いのに強い。
『本日の議題:魔法
※派手禁止(照れる)
※効果測定する
※失敗しても笑う』
「効果測定って、研究者の恋?」
僕が言うと、千紗はトーストをひっくり返しながら答えた。
「恋は再現性があると強い」
「名言っぽい」
「名言じゃない。生活」
千紗は真顔で言って、すぐに口元だけ笑う。
この切り替えが、もう魔法だと思う。
アンが床を滑走路みたいに歩いてきて、僕の足元で止まった。
議長は今日も議長。
僕が撫でると、アンは当然の顔で喉を鳴らす。
ゴロゴロ。
それだけで部屋が少し柔らかくなる。猫の魔法は原始的で強い。
千紗がテーブルに鈴を置いた。
ちりん。
刃物じゃなく背中を押す合図。今日は“呪文の始まり”みたいに鳴らした。
「さぁ」
「……さぁ、って呪文っぽい」
「うん。うちの呪文」
「魔法の第一音は鈴」
「そう。音で始めると、気分が追いつく」
椅子が二脚、テーブルに引かれる。向かい合わせ、でも真正面じゃない。少し斜め。
ゼロか百かにしない角度で、魔法会議が始まる。
アンは当然のように椅子の下に潜り、第三の動き担当に就任した。
尻尾が床をトントン叩く。開始の合図。
コップが五つ並ぶ。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人。
りんごも置かれる。食感で割る保険。
魔法を信じるのが怖い日は、シャクで現実に戻れる。
「じゃ、型」千紗が言う。
「チッ→凹凸→一手?」
「うん。あなた、チッして」
僕は舌で「チッ」と鳴らした。ブザー。
恋の魔法を“盛りすぎて”照れて逃げるのを防ぐブザー。
「凹凸」
「一手」
千紗が返す。刺さったときの手すり。
魔法にも手すりが要る。刺さるのは怖いから。
「一手目」千紗が言う。「魔法を定義する」
「定義」
「うん。今日の魔法は何?」
千紗はペンを持って、紙の真ん中に小さなフレームを描く。
「ここに入るやつ」
「額縁」
「そう。ゆるい額縁」
僕は少し考えて、言った。
「……相手の顔が、昨日より軽くなること」
言うと自分で照れて、りんごを噛んだ。
シャク。
音で照れを割る。便利。
「いい」千紗が言う。「効果測定しやすい」
「顔の軽さを測るの?」
「うん。眉の角度」
「研究者」
「研究者」
千紗は真面目に頷いて、アンに睨まれた。
議長は“ふざけすぎ”に厳しい。
「二手目」千紗が言う。「魔法を“材料”に分解する」
「材料」
「うん。魔法はだいたい材料でできてる」
千紗は指を三本立てる。
「音、温度、距離」
「またそれ」
「効くから」
「確かに」
僕は頷いた。
恋も遠吠えも焔も、結局この三つだ。
「音」千紗が言う。
鈴をちりん。
「温度」
白湯を一口。
「距離」
椅子をほんの少しだけ斜めにする。
「はい、魔法の材料」
「地味だ」
「地味が最強」
千紗は言い切った。
「三手目」千紗が言う。「呪文を作る」
「呪文」
「うん。“大好き”は禁止。派手禁止」
「じゃあ何」
「短くて、戻れるやつ」
千紗は紙に書いた。
『呪文:見てる』
「見てる」
「うん。下手くそ応援歌のサビにも似てる」
「ちゃんと見てる、の短縮版」
「そう。短い方が日常で使える」
千紗は鈴を鳴らして、呪文を声に出した。
「見てる」
僕も言った。
「見てる」
言っただけで、少しだけ空気が甘くなる。
甘さは六角に分ける必要があるやつだけど、今日はまだ薄い甘さだ。扱える。
千紗は急に立ち上がって、キッチンの棚から小さな瓶を取り出した。
中身は飴。
ラベルにマジックで書いてある。
『魔法』
「いつの間に」
「昨日」
「仕込みが早い」
「恋は段取り」
千紗は飴を一つ取り出して、僕の掌に置いた。
掌に収まる欠片みたいな大きさ。
ピース化しやすいサイズ。
「これ、効果測定用」
「飴で測るの?」
「飴を舐めたら、あなた、眉が上がる」
「そんな単純?」
「単純が効く」
千紗は笑って、自分も一つ口に入れた。
甘い香りがふっと広がる。
僕は飴を舐めて、思わず眉が上がった。
酸っぱさが一瞬だけ来るタイプだった。
千紗が指差して笑う。
「ほら、軽くなった」
「くそ、実験成功」
「成功」
千紗は鈴を鳴らした。ちりん。
成功の合図。
僕らはこういう“小さな成功”に弱い。弱いのに、強い。矛盾が恋っぽい。
午前中、僕らはそれぞれ作業をした。
千紗は仕事、僕は自分の用事。
でも、魔法は仕事の邪魔をしない。
むしろ、邪魔しないのが魔法だと思う。
昼、千紗がふとキッチンで手を止めた。
眉が少しだけ寄っている。
僕の受信機が拾う。小さな叫びの手前の“息”。
僕は近づきすぎない距離で言った。
「見てる」
呪文。
千紗は振り返って、少し驚いた顔をして、それから笑った。
「効果測定」
「眉、戻った」
「戻った」
千紗はほうじ茶を飲んで、落ち着きの温度にする。
恋の魔法は、落ち着きにも効く。
夕方、買い物に行く途中で雨が降ってきた。
折り畳み傘は一本しかない。
こういうとき、距離が変わる。
近づくと、照れる。
照れると、余計な言葉が出て、空気がベタつく。
だから僕は、先にブザー。
「チッ」
千紗が笑いながら返す。
「凹凸」
「一手」
「一手は?」
「傘の下で、話題を盛らない」
「盛らない」
「うん。魔法は地味でいい」
千紗は頷いて、傘を少し僕側に傾けた。
その動きが、もう呪文みたいだった。
“見てる”の無言版。
帰宅すると、アンが玄関で待っていて、僕らの濡れた靴を睨んだ。
議長の不満。
千紗がすぐタオルを出す。
音、温度、距離。
タオルは温度の道具だ。濡れたものを冷たさから救う。
「ねえ」千紗が言う。
「なに」
「今日の魔法、効果測定どうだった?」
僕は少し考えて、答えた。
「眉が軽くなった回数、三回」
「三回」
「一回目は飴、二回目は“見てる”、三回目は傘」
「傘は強い」
「強い」
千紗は笑って、掲示板に今日のピースを貼った。
『本日の魔法:音(鈴)温度(白湯)距離(斜め)
呪文=見てる
効果=眉が軽くなる(3回)』
僕はその横に小さく書き足す。
『刺さったら凹凸→一手/失敗しても笑う』
アンが掲示板の下で伸びをして、欠伸をした。
議長は魔法に興味がないふりをして、たぶん一番信じている。
だって、猫は毎日「ここが安全」って世界に呪文をかけて寝ている。
夜、布団に入る前に、千紗が小さく言った。
「ねえ」
「なに」
「……見てる?」
呪文を疑問形にすると、急に可愛くなる。
僕は照れて、でも逃げない。
「見てる」
千紗が笑って、鈴を一回だけ鳴らした。
ちりん。
「さぁ」
「寝る」
「うん、戻る」
恋の魔法は、派手じゃなくていい。
再現性があって、失敗しても笑えて、明日もまた使える。
うちの魔法は、そういうタイプだ。




