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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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石を下ろす一言

 「まぁいいや」って言葉は、万能っぽい顔をしてる。

 でも万能な顔をしてるものほど、使い方を間違えると危ない。

 包丁じゃないのに、指を切るみたいな危なさ。


 その日の朝、僕は「まぁいいや」を危ない方向に投げた。


 財布が見当たらない。

 いつも置く場所にない。

 ポケットにもない。

 ソファの隙間にもない。

 アンの寝床の下にもない。

 議長は「知らない」と言いたげに欠伸をした。


「……まぁいいや」

 僕はそう言って、スマホ決済でなんとかなるか、と適当に上着を掴んだ。

 適当、は時々、未来への請求書になる。


「待って」

 千紗の声が、いつもより短くて、いつもより低い。

 それだけで、僕の背中が少し冷える。刺さる寒さじゃないけど、刺さりそうな予感。


 千紗は台所から出てきて、冷蔵庫の“うちのニュース”掲示板を指差した。

 そこには、もう貼り紙がある。千紗の字。


『本日の議題:「まぁいいや」

※投げるの禁止

※置くのはOK

※置いたら戻る場所を作る』


「……朝から、ピンポイント」

「あなたが今、投げたから」

 千紗は淡々と言って、鈴をテーブルに置いた。

 ちりん。

 刃物じゃなく背中を押す合図。今日は押すというより“止める”ための音。


「さぁ」

「……さぁ、で止められるの、ちょっと悔しい」

「悔しいでいい。止まるのが優先」

 千紗は椅子を二脚引いた。向かい合わせだけど真正面じゃない。少し斜め。

 ゼロか百かにしない角度で、“まぁいいや”を扱う会議が始まる。


 アンは当然のように椅子の下に潜り、第三の動き担当に就任した。

 尻尾が床をトントン叩く。議長は会議の開始にも律儀だ。


 テーブルの上にコップが五つ並ぶ。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人。

 それから、りんご。食感で割る保険。

 財布の話なのに、りんごが出てくるのがうちだ。


「じゃ、型」千紗が言う。

「チッ→凹凸→一手?」

「うん。あなた、チッ」

 僕は舌で「チッ」と鳴らした。ブザー。

 勢いで投げる癖を止めるブザー。


「凹凸」

「一手」

 千紗が返す。刺さったときの手すりがここにある。


「一手目」千紗が言う。「あなたの“まぁいいや”は、どっち?」

「どっち」

「投げた?置いた?」

 千紗は真顔。

 真顔だけど怒ってない。受信機が立ってる顔だ。


 僕は一回、りんごを噛んだ。

 シャク。

 音で、自分の言葉の雑さを区切る。


「……投げた」

「うん」

「投げた理由は」

 千紗が言う。

「焦り」

「……うん」

「二手目」千紗が言う。「“置くまぁいいや”を作る」

「作る?」

「うん。口癖を改造する」

 千紗は紙を一枚出して、真ん中に小さな四角を描いた。フレーム。

「この四角が“置き場”」

「置き場」

「投げると行方不明になる。置くと戻れる」

「戻る」

「うん。たまり場式」

 錨の単語が、空気に浮かぶ。


「じゃあ」千紗が続ける。「置くまぁいいや、は三点セット」

「三点」

「錨の一語+理由一行+鈴」

「錨」

「うん。風に飛ばされないための発言手順」

 千紗は鈴を指でつまむ。

 ちりん、の準備。


「錨の一語」

 千紗が僕を見る。

 僕は少し考えて、言った。


「……保留」

「理由一行」

「今は探し方が雑になるから、落ち着いてから探す」

 千紗が鈴を鳴らした。

 ちりん。

 “まぁいいや”が投げられずに、テーブルの上に置かれる音。


「これが“置くまぁいいや”」千紗が言う。

「保留」

「うん。逃げじゃなく、順番」

「順番」

「守る対象は、今日は財布じゃない。あなたの焦り」

 千紗はほうじ茶のコップを押した。落ち着き担当。

「焦りを守るって変だけど、放置すると暴れる」

「暴れると、財布も見つからない」

「そう」


「三手目」千紗が言う。「一手を決める」

「一手」

「財布を探す一手。雑じゃないやつ」

 千紗は指を一本立てた。

「質問攻め禁止。探し方も攻めない」

「了解」

 僕は頷く。

「一手は」僕が言った。「“最後に触った場所”を再生する」

「いい」

「記憶のリプレイ」

「うん。現実通り、昨日の自分を追跡」

 千紗は笑う。

「で、必要なら“フレーム”」

「島作る?」

「床にマステは大げさだから、今日は“机の上フレーム”」

 千紗は紙で小さな枠を作って、テーブルの端に置いた。

「ここに“思い出した候補”を書いていく」

「候補」

「候補は責めない。候補は候補」

 ゼロか百かにしない。今日の会議はそれで回ってる。


 僕は昨日の夜を再生した。

 帰宅して、上着を脱いで、アンに挨拶して、牛乳を飲んで、掲示板を見て、千紗と少し笑って。

 そのあと…コンビニの袋を片付けた。

 そのとき、ポケットから何かを出した気がする。


「……袋」

 僕が言うと、千紗は頷いた。

「候補、袋」

 紙のフレームに千紗が書く。

『候補:コンビニ袋付近』


 僕らは台所のゴミ箱を覗く。

 アンも覗く。議長は現場に強い。


 見当たらない。

 僕の中の炭酸が「ほら!ない!時間ない!」と騒ぎ出す。

 危ない。暴発の熱。


 僕は舌で「チッ」と鳴らした。

 千紗が即座に返す。

「凹凸」

「一手」

「一手は?」

 千紗が聞く。

 僕はりんごを指差した。

 シャク。

 音で区切る。

 焦りを割る。

 そして言った。


「保留」

 置くまぁいいや。

 投げない。置く。


「理由一行」千紗が促す。

「今、焦って雑になる」

 千紗が鈴を鳴らした。ちりん。

「よし。じゃあ、順番」

「順番」

「出かける前に“探す”じゃなく、“確認”を一個だけ」

「確認」

「うん。財布がないと困るの、何?」

 千紗は問いを絞る。質問攻め禁止の範囲で、必要な確認だけ。


「身分証」

「現金」

「ポイントカード」

 僕が答えると、千紗は頷いて言った。

「じゃあ今日の一手は、“身分証の代替”を持つ」

「代替」

「保険。これで焦りの火が下がる」

 千紗は僕のスマホケースを指差した。

「そこに入ってるカード、一枚」

「……あ」

 僕は忘れていた予備の身分証コピーを思い出す。

 現実通り、僕はこういう“保険”を入れたまま忘れる。


 焦りが一段落ちた。

 落ちると、視界が広がる。

 広がると、財布の影が見える。


 玄関の棚の上。

 鍵のトレーの隣に、財布がちょこんと座っていた。

 まるで「最初からここですが?」という顔で。


「……あった」

「でしょうね」

 千紗は笑って、僕の背中を軽く叩いた。叩き方が優しい。

「投げたまぁいいや、回収できた」

「回収できた」

「次からは置こうね」

「置く」

 僕は頷いた。


 台所に戻って、千紗は掲示板にピースを貼った。

 欠片を完成側へ戻す合図。


『本日のまぁいいや:投げる×/置く○

錨=保留(焦って雑になるから)+鈴

一手=確認→代替→視界が広がる』


 僕はその横に小さく書き足した。


『チッ=ブザー→凹凸→一手/困ったらシャク』


 アンが掲示板の下で伸びをして、欠伸をした。

 議長の“終わり”の合図。会議終了。


 玄関で靴を履きながら、僕は千紗に言った。

「ねえ」

「なに」

「“まぁいいや”って、悪くないね」

「うん」

「投げなければ」

「そう。置ければ」

 千紗は鈴をポケットの中で鳴らした。

 ちりん。

「さぁ」

「出発」


 外は冬の終わり寄りの空気で、刺さらない寒さだった。

 僕は財布をポケットで確かめて、笑ってしまった。

 今日の僕の“まぁいいや”は、ちゃんと置けた。

 石を下ろす一言として。

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