満ちるのは静か
満たされる、って言葉は、なんだか照れる。
お腹いっぱいみたいな顔をして、「幸せです」と言うのは、歯に何か挟まってるときに笑うのに似ている。
嬉しいのに、ちょっと気まずい。
その朝の僕は、まさにそれだった。
起きて、カーテンを開けて、白湯を飲んで、アンの頭を撫でて。
千紗が「おはよ」と言い、僕が「おはよう」と返せて。
味噌汁は暴走しない。
トーストは焦げない。
冷蔵庫の牛乳はちゃんとある。
何も欠けてない。
……いや、怖い。
欠けてない日は、だいたい「どこかで支払う」みたいな気分になる。
現実通り、僕はそういうとこがある。
アンが床を滑走路みたいに歩いて、僕の足元で止まった。
じっと見上げてくる。議長の監視。
その目が「また余計なこと考えてる?」って言ってる気がする。
「ねえ」千紗がキッチンから声を飛ばす。
「なに」
「今日、あなた、顔が“満腹警戒”」
「……何その顔」
「満たされるのが怖い顔」
千紗は当たり前みたいに言って、当たり前みたいに笑った。
笑いが軽い。軽いのに雑じゃない。
それが、いちばん効く。
冷蔵庫の“うちのニュース”掲示板には、もう貼り紙があった。千紗の字。
『本日の議題:満たされる
※疑って壊さない
※詰め込み禁止
※スリット(余白)必須』
「スリット必須って、なんの工事」
「あなたの心の工事現場」
「また工事現場」
「うん、今日は“満腹の工事現場”」
千紗は真顔で言って、鈴をテーブルに置いた。
ちりん。
刃物じゃなく背中を押す合図。今日は押すというより、火加減を整える音。
「さぁ」
「……さぁ、で満たされ会議?」
「会議。たまり場式」
千紗は椅子を二脚引いた。向かい合わせ、だけど真正面じゃない。少し斜め。
ゼロか百かにしない角度が、今日も定位置みたいに収まる。
アンは当然のように椅子の下に潜り、第三の動き担当に就任した。
尻尾が床をトントン叩く。開始の合図。議長はルーティンに厳しい。
テーブルの上にコップが五つ並ぶ。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人。
それから、りんご。
食感で割るのは、幸せにも効く。幸せって、ときどき団子になって喉に詰まるから。
「じゃ、型」千紗が言う。
「チッ→凹凸→一手?」
「うん。あなた、チッして」
僕は舌で「チッ」と鳴らした。ブザー。
満たされてるのに不安で暴走するのを止めるブザー。情けないけど、役に立つ。
「凹凸」
「一手」
千紗が返す。手すりがあると、満ちた分の重さも持てる。
「一手目」千紗が言う。「あなたの“満腹警戒”を一文で」
「一文」
「説明で埋めない」
千紗が釘を刺す。僕の癖をよく知っている。
僕はりんごを噛んで、シャクで区切ってから言った。
「今が良すぎて、これが壊れる気がする」
言った瞬間、自分で恥ずかしくなって視線を逸らしかけた。
でも千紗は逸らさせない。
FACE TO FACE。逃げない。詰めない。斜めのまま。
「うん」千紗が頷いた。
「それ、分かる」
「……分かるの」
「分かる。だから今日は、壊れないように“満たされる”を扱う」
「扱う」
「うん。満たされるは、放置すると暴れる」
「暴れるの?」
「あなたの中で暴れる」
千紗は平然と言って、炭酸のコップを指で押した。勢い担当が「わかる!」ってやつをやりたがってる。
「だから封印寄り」
アンが椅子の下から「にゃっ」と鳴いた。音量注意の議長ブザー。
「二手目」千紗が言う。「“満たされる”を、物理に落とす」
「物理」
「うん。コップ」
千紗は空っぽのコップを一つ、僕の前に置いた。
「空っぽでも器は器」
「それ、最近よく出る」
「便利だから」
千紗は笑って続けた。
「満たされるって、コップが満杯になることじゃなくて」
「うん」
「器が“ここにある”って分かること」
僕はコップを見た。
透明で、何も入ってない。
でもちゃんと形がある。
これが“満たされる”って、ちょっと目から鱗だ。
「じゃ、僕は今」僕が言う。「空っぽの器で満たされてる?」
「うん。あなたは今、器を見つけてる」
「器を見つけてる」
「見つけたら、次は“適量”」
千紗は白湯を注いで、コップの底にほんの少しだけ入れた。
満杯じゃない。
ほんの少し。
「これが今日のスリット」
「余白」
「うん。余白がない満腹は、窒息する」
言い切る千紗の顔が、妙に頼もしい。
僕の内なるコーヒーが「正しい」と頷くけど、今日は鋭くしない。ほうじ茶でいく。
「三手目」千紗が言う。「満たされるの“証拠”を三つ数える」
「三つ」
「多いと詰め込み」
「了解」
平和の数え方の応用だ。
僕は指を折って、三つ選んだ。
「千紗が朝、笑ってた」
「うん」
「アンが椅子の下で寝てる」
「議長は信頼してる」
「冷蔵庫に牛乳がある」
最後が生活すぎて、僕は自分で笑ってしまう。
笑いが出るなら、今は怖くない。
千紗の三つも出た。
「味噌汁が溢れてない」
「うん」
「あなたが“なんでも”って言って逃げてない」
「……耳が痛い」
「痛くないように言ってる」
千紗が笑う。
「三つ目、あなたが今、コップを見てる」
「見てる」
「見てるのが、満たされる」
千紗は鈴を鳴らした。
ちりん。
承認の音。今日の“満たされ”を、風に飛ばさない音。
ここまでは良かった。
問題は、会議が終わったあとに来た。
午前中、僕は仕事のメールを返しながら、やけに落ち着いていた。
落ち着いているのに、落ち着いていることが怖い。
僕は自分の心を、まるで新品の皿を持つみたいに扱って、逆に手が滑りそうになる。
千紗がリビングの端で、ふと声をかけた。
「平和なことか」
合図だ。立ち止まって、三つ数えるやつ。
僕は椅子から立ち上がりかけた勢いを止めて、三つ数えた。
「アンが寝返りした」
「うん」
「コップに白湯がちょっと残ってる」
「うん」
「千紗がここにいる」
千紗が頷いて、鈴を鳴らす。ちりん。
「さぁ」
「戻る?」
「戻る」
僕らは言葉を短くして、呼吸を揃えた。
昼、千紗が提案した。
「外、出よ」
「え、急に」
「急に。満たされるって、家の中だけだと密閉される」
「密閉」
「うん。換気が要る」
千紗はコートを羽織って、アンの頭を撫でた。
「議長は留守番」
アンは抗議の顔をしたけど、すぐにソファの上に丸くなった。
議長は議長で、寝る仕事がある。
近所の小さな公園まで歩く。
冬の終わり寄りの空気で、刺さる寒さが減っている。
千紗は歩きながら、僕の手の甲に自分の手袋越しに触れた。
触れないで守る、じゃなく、触れて確かめる。
今日は触れていい日らしい。
「ねえ」千紗が言う。
「なに」
「満たされるって、あなたにとって、何の音?」
「音?」
「うん。声の波形」
僕は少し考えた。
満たされるの音。
派手なサビじゃなく、生活の音。
「……炊飯器が“保温”に切り替わる音」
千紗が吹き出した。
「なにそれ、最高に生活」
「炊けたってことじゃん」
「うん。で、焦らなくていい」
「そう」
僕は続けた。
「あと、アンが喉を鳴らす音」
「議長のゴロゴロ」
「うん。あれ、世界が安全って言ってる音」
千紗は頷いて、急に真面目な顔になった。
「じゃあ、私の満たされるは」
「うん」
「あなたが“今のままでいい”って顔をすること」
「……顔?」
「うん。顔。声じゃなくても分かる」
千紗は僕の頬を指でつついた。
「今、してる」
「してる?」
「してる」
僕は笑った。
笑うと、満たされるが少し軽くなる。
軽くなると、壊れにくい。
帰宅すると、アンが玄関まで出迎えに来て、僕らの足元でくるりと回った。
議長の審査。合格のくるり。
千紗が「ただいま、議長」と言い、アンが「にゃ」と返す。
この会話は短いのに、ちゃんと“僕たちの声”だ。
台所に行くと、千紗が掲示板に新しい紙を貼り始めた。
ピース。欠片を完成側へ戻す合図。
『本日の満たされ:
器がある/適量/換気(外に出る)/音=保温&ゴロゴロ』
そして一番下に、小さく書く。
『満たされるを疑ったら:チッ→凹凸→一手→三つ数える』
僕はその紙を見て、胸の中がじんわり温かくなった。
焔じゃない。
白湯くらいの熱。
燃えない。灯り続ける。
「ねえ」僕は言った。
「なに」
「今日、僕、満たされてるかも」
言った瞬間、照れが来た。歯に何か挟まってるみたいな気まずさ。
でも千紗は笑って、鈴を鳴らした。ちりん。
「採用」
「採用?」
「うん。言えたから採用」
「……じゃあ、僕も鈴鳴らす」
僕は鈴を指で弾いた。
ちりん。
音が小さいのに、部屋が少しだけ明るくなる。
アンがテーブルの脚に頭をこつんと当てた。
議長の承認。
僕はりんごを一欠片噛んだ。
シャク。
満たされるを、食感で区切って、喉に詰まらせない。
満たされるって、抱きしめて離さないことじゃない。
疑って壊すことでもない。
器がここにあるって、ただ分かること。
適量で、余白つきで、換気しながら。
そして、議長が寝ている。
それが今日の、僕の満たされる。




