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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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小さな波で名乗る

 声って、あるのが当たり前だと思ってるうちは、たぶんちゃんと聞こえてない。

 失くしたときにだけ、部屋の空気が急に広くなる。


 その朝、僕は起きて最初の「おはよう」を失敗した。


「おは……」

 喉の奥で、紙やすりが擦れたみたいな音が出て、そこで止まる。

 言葉は立ち上がろうとして、膝から崩れた。


 隣の布団から、千紗が半分寝たまま手を伸ばしてきて、僕の喉に手の甲を当てた。

 体温チェックの仕草。受信機の触診。


「……声、どした」

 千紗の声も寝起きの白湯みたいに薄い。

 僕は肩をすくめて、息だけで笑う。笑いも掠れる。


 アンが布団の上を歩いてきて、僕の胸にどすん。

 議長は今日も議長だ。

 僕はアンの背中を撫でる。撫でる音は声じゃないけど、ちゃんと意思がある。


 千紗が起き上がって、スマホのメモを開いて、僕に見せた。


『喉、痛い?』


 僕は首を横に振る。

 痛くない。ただ、出ない。

 出ないと、焦る。焦るとさらに出ない。

 このループは知ってる。何回かやったことがある、嫌なやつ。


 千紗は小さく頷いて、メモを打ち直す。


『じゃあ今日は、声を“使わないで守る”日。手袋』


 手袋。触れないで守る。

 僕はその言葉に、少しだけ安心して頷いた。

 声が出ないことを、失敗扱いしなくていいフレームが、今貼られた。


 台所に行くと、冷蔵庫の“うちのニュース”掲示板に新しい紙が貼られていた。

 千紗の字。早い。


『本日の議題:僕たちの声

※声が出なくても参加

※大声禁止(喉・心どっちも)

※置き去りにしない(でも捕まえない)』


 僕はその紙を見て、喉じゃなく胸が少し温かくなった。

 “声が出なくても参加”って、なかなか優しい規則だ。


 千紗はテーブルに鈴を置いて、控えめに鳴らす。

 ちりん。

 刃物じゃなく背中を押す合図。今日は押しすぎない音量。


「さぁ」

 千紗が言って、椅子を二脚引いた。向かい合わせだけど真正面じゃない。少し斜め。

 ゼロか百かにしない角度。

 アンは当然のように椅子の下に潜り、第三の動き担当に就任した。尻尾が床をトントン叩く。開始の合図。


 コップが五つ並ぶ。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人。

 そしてりんご。食感で割るための予備。

 今日は声が割れないぶん、シャクがいつもより頼りになるかもしれない。


「じゃ、型」千紗が言う。

「チッ→凹凸→一手、やる?」

 僕が声の代わりに指で“チッ”の形を作って見せると、千紗は笑った。

「かわいいブザー」

 僕はちょっと不満そうに眉を上げてみせる。かわいいじゃない。緊急手順だ。


 千紗はちゃんと返す。

「凹凸」

 僕は指で“1”を立てる。

「一手」

 声じゃなくても、合図が噛み合うだけで、部屋の空気が整う。


「一手目」千紗が言う。「今日の“僕たちの声”を、声以外で集める」

 千紗はペンと紙を出して、テーブルの真ん中に置いた。

「声が出ないとき、あなたは何で“返事”してる?」

 僕は少し考えて、紙に書いた。


『頷く/眉で返す/ため息(小)/アンを撫でる』


「ため息(小)って何」

 千紗が笑う。

 僕は肩をすくめて、もう一つ書く。


『目で言う』


「目で言う、は分かる」

 千紗は頷いて、今度は自分の欄に書いた。


『手の甲で体温チェック/鈴/言葉を短くする/椅子を斜めにする』


「椅子を斜めにする、は声なの?」

 千紗が自分で書いて自分で笑っている。

 僕はりんごを指差して、シャク、と口の形だけ作る。

 千紗がそれを理解して、りんごを一切れ渡してくれた。


 シャク。

 音で区切る。

 区切ると、次が入る余白ができる。


「二手目」千紗が言う。「声の“役割”を分ける」

「役割?」

 僕が目で聞くと、千紗はコップを指で順番に押した。内なる五人の召集。


「白湯は、ただいる」

「紅茶は、整える」

「ほうじ茶は、落ち着く」

「コーヒーは、言葉を鋭くする」

「炭酸は、勢い」

 千紗は炭酸のコップを見て、わざと変な声を作る。

「いけるいけるー!」

 アンが椅子の下から「にゃっ」と鳴いた。音量注意。議長のブザー。

 千紗は笑って口元を押さえる。

「はい、炭酸さんは今日は封印寄り」

 封印じゃない。寄り。ゼロか百かじゃない。


 千紗は僕を見て言う。

「あなたの声が出ない日、あなたは“コーヒー”を使いがち」

 僕は眉を少し上げる。図星。

「言葉が出ないぶん、目が鋭くなる」

 僕は首を傾げる。そんなつもりはない。

「でも、鋭くなると、あなたが疲れる」

 千紗はほうじ茶を押した。

「だから今日は、ほうじ茶でいく。うんうんでいい」

 僕は頷いた。

 頷く。頷くは、今日は立派な声だ。


「三手目」千紗が言う。「“僕たちの声”を残す」

 残す、という言葉に僕の中の警戒が少し立つ。

 残すは、時々鎖になる。

 千紗はそれを見抜いたみたいに、すぐ続けた。


「鎖じゃない。手すり」

 凹凸の運用だ。刺さったときの手すり。

「残して、縛らない。後で困った日に使う“取説”みたいなやつ」

 取説。

 それなら、いい。

 僕は指でOKを作る。


 千紗はスマホのボイスメモを開いた。

 画面が赤い丸を見せる。録音ボタン。


「テーマは」千紗が言う。「たまり場式“声の取説”」

 千紗は鈴を軽く鳴らした。

 ちりん。

「さぁ」

 僕は笑ってしまって、喉がカサッと鳴った。

 笑い声にすらなりきれない音。でも、音は出た。

 小さな波。


「今、出た」千紗が目を丸くする。

 僕は頷いて、指で“ちょっとだけ”を示す。

 千紗は頷いて、録音を始めた。


「じゃあ、最初は私」

 千紗はスマホに向かって、いつもの“明るく沈ませない”声で言う。

「うちの声の取説です。今日は、声が出ない日でも、ちゃんと会話に参加できます」

 少し照れたみたいに笑って、続ける。

「手順は簡単。まず、ブザー」

 千紗は自分で小さく舌打ちする。

「チッ。これで“勢いで踏み荒らさない”モードになります」

 そこで一拍。

「次、手すり。凹凸」

 千紗は鈴を鳴らす。ちりん。

「で、一手。ひとつだけ次の動作を決める。質問攻めしない」


 僕は録音中のスマホを見て、胸の奥で拍手した。

 こういうの、千紗は上手い。

 上手いけど、それが眩しくならないのが、いちばん助かる。


「ここから、例」千紗が言う。

「声が出ない人は、頷く。眉で返す。紙に書く。アンを撫でる。どれでもOK」

 アンの名前が出た瞬間、アンが椅子の下から出てきて、スマホに鼻を近づけた。

 録音に「ふん」と小さな鼻息が入る。

 千紗が笑って続ける。

「議長の監修も入ります。大丈夫です」


 僕は指で“僕の番”を示す。

 千紗が頷き、スマホを僕の方に向けた。

 声は出ない。出ないけど、ゼロじゃない。

 小さな波でもいい。


 僕は息を吸って、喉を擦らないように、短く言った。


「……ここ、いる」


 それだけ。

 掠れてる。

 でも“ここにいる”は、白湯の声で、一番大事だ。


 千紗の目が少し潤む。

 泣きそう、じゃなく、受信機がちゃんと受信できたときの目だ。


「それ、採用」

 千紗は録音に向かって言う。

「声が出ない人のサビは、“ここ、いる”。以上」

 以上、が軽いのに、雑じゃない。

 この軽さが、うちの明るさだ。


「次、追加合図」千紗が録音に向かって言う。

「ピース。欠片を完成側へ戻す」

 千紗は小さな紙片を見せるみたいに、机をトントン叩いた。

「コップ。空っぽでも器は器」

 コップを指で叩く。

「手袋。触れないで守る」

 手袋をテーブルに置く音。

「錨。風に飛ばされない言い方」

 千紗はそこで、少し真面目な声になる。

「錨の一語+理由一行+鈴。これを使うと、大事なことを安全に言えます」


 僕は指で“錨”の形を作ってみせる。

 千紗が笑った。

「あなた、錨の形って何」

 僕は肩をすくめる。分からないけど、雰囲気でやった。

 雰囲気でも参加できるのが、今日の議題。


「じゃ、練習」千紗が言う。録音は続いている。

「錨の一語」

 千紗は僕を見る。

 僕は少し考えて、短く言った。


「……戻る」


 千紗がすぐ続ける。

「理由一行」

 僕は喉を守りながら、短く。


「……焦る、前」


 千紗が鈴を鳴らす。

 ちりん。

 録音に、きれいな合図の音が残る。


「はい、完成」

 千紗は録音を止めた。

 赤い丸が止まって、一本の音声がそこに残る。

 “僕たちの声”が、鎖じゃなく、手すりとして保存された。


 千紗はそれを掲示板にも貼る勢いで、紙に書き始めた。

 今日のピースだ。


『声の取説:チッ→凹凸→一手/サビ=ここ、いる/錨=戻る(焦る前)/議長監修』


 貼った。

 貼ると、部屋の中に“説明”が固定される。

 説明が固定されると、普段は説明しなくて済む。

 説明しなくて済むのは、平和だ。


 昼過ぎ、僕の喉は相変わらず弱かった。

 でも、僕は不思議と焦らなかった。

 声が出ない日は、声が出ない日の手順がある。

 それが分かっているだけで、喉は少しだけ休める。


 千紗は仕事をしながら、ときどき僕を見て、短く言う。

「水、飲む?」

 僕が頷く。

「白湯?」

 頷く。

「りんご?」

 頷く。

 頷いてばかりで、僕は少し笑ってしまう。

 笑いは喉に良くない。

 でも笑いがあるのは、心に良い。

 どっちが勝つかは、その日のバランス。


 夕方、千紗がふと思いついたように言った。

「ねえ、今日の“僕たちの声”、もう一個作らない?」

 もう一個。

 僕は首を傾げる。

「なに」

 千紗は指で、冷蔵庫の掲示板の上の方を指した。

「“うちのニュース”の上に、固定の一枚貼りたい」

「固定?」

「うん。いつでも戻れるやつ」

 戻る。錨。たまり場回の錨。

「タイトルは」

 千紗は少し考えて、笑う。

「“僕たちの声”じゃなくて、“僕たちの音量”」

「音量」

「うん。声は時々出ない。でも音量つまみは共有できる」

 遠吠えの音量つまみの親戚だ。

 焔の温度つまみの兄弟でもある。

 生活って、つまみが増えていく。


 千紗は紙に、つまみの絵を描いた。

 目盛りは数字じゃなく言葉。


 **白湯:ここにいる**

 **紅茶:整える**

**ほうじ茶:落ち着く**

**コーヒー:集中(刺さり注意)**

**炭酸:勢い(封印寄り)**


 そして一番下に、小さく書く。


『チッ=ブザー→凹凸→一手/困ったら“戻る”』


 僕はその紙を見て、胸がきゅっとした。

 きゅっとするのは、良い方のきゅっと。

 生活の取説って、愛情の形をしてる。


 千紗が紙を貼って、鈴を鳴らした。

 ちりん。

 風に飛ばされない。


 アンが紙の下で伸びをして、欠伸をした。

 議長の承認。

 僕はアンの頭を撫でて、千紗を見る。FACE TO FACE。

 でも真正面に詰めない。椅子は少し斜めのまま。

 僕らの声は、まっすぐだけで作られてない。斜めの余白も含めて、僕たちだ。


 夜、ベッドに入る前に、千紗がスマホを持ってきた。

「ねえ、聞く?」

 何を。分かってる。

 今日録ったボイスメモ。


 僕は頷く。

 千紗は再生ボタンを押した。


 『チッ。凹凸。で、一手』

 千紗の声が、部屋に戻ってくる。

 そこに、アンの鼻息。

 そして、僕の掠れた声。


 『……ここ、いる』


 たったそれだけなのに、笑ってしまった。

 喉がカサッと鳴る。

 千紗が慌てて言う。

「笑うと喉」

 僕は手を振って大丈夫の合図を出す。

 笑いは声じゃない日にも出る。

 それが、ちょっと嬉しい。


「ねえ」千紗が小さく言った。

「なに」

「僕たちの声ってさ」

「うん」

「音だけじゃなくて、手順も入ってるね」

 僕は頷く。

 手順も声。

 椅子の角度も声。

 鈴も声。

 りんごのシャクも声。


 千紗は鈴を枕元に置いて、ちりん、と一回鳴らした。

「さぁ」

 その“さぁ”は、背中を押すんじゃなく、布団に沈める“さぁ”だった。

 光量を落とすみたいに。


 僕は掠れ声で、短く言った。

「……おやす」

 言えた。

 小さな波が、ちゃんと届いた。


 千紗が笑って、返す。

「おやすみ。ここ、いる」

 僕は頷いた。

 声が出る日も、出ない日も、僕たちの声は案外たくさんある。

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