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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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火加減のつまみ

 焔のように、って言うと、たいてい大げさに聞こえる。

 髪が逆立つとか、世界が赤く染まるとか、そういうやつ。

 でも実際の焔はもっと生活に寄っていて、コンロの青い火みたいに、見えないところでちゃんと役に立つ。


 その日、千紗の焔は、靴下から始まった。


「……やる」

 寝室で、彼女がベッドの端に座って、片方の靴下をぐいっと引き上げながら言った。

 寝癖のままの宣言はだいたい本物だ。


「なにを?」

 僕は枕を抱えたまま聞いた。

「今日、私、やる」

「二回言うのは、熱量高い」

「うん。熱い」

 千紗は自分の頬を手のひらでぺちぺち叩いて、温度を確かめるみたいにした。

「だから…火加減、必要」

「火加減」

「うん。焔は好き。でも燃えるのは嫌」


 アンが布団の上を歩いてきて、僕の胸の上にどすんと座った。

 議長が「朝の会議?」と顔で言っている。


「議長、おはよう」

 僕が撫でると、アンは当然の顔で瞬きをして、千紗の方にも視線を投げた。

 “勝手に突っ走るなよ”って感じの視線。猫の視線は短いのに説得力がある。


 台所に行くと、冷蔵庫の“うちのニュース”掲示板に新しい紙が貼られていた。千紗の字。


『本日の議題:焔 ※根性論禁止 ※燃え尽き禁止 ※火加減共有』


「朝から禁止事項が多い」

「必要」千紗は白湯を飲みながら言った。「熱い日の私は、規則がないと加速する」

「加速すると?」

「鍋が焦げる」

「具体が料理なの、助かる」

 僕が言うと、千紗は口元だけ上げた。

「現実通り、うちの焔はだいたい料理に出る」


 彼女はテーブルの上に小さな鈴を置いた。

 ちりん。

 刃物じゃなく背中を押す合図。

「さぁ」

「……さぁ、の声がもう火種」

「火種は大事」

「でも燃やしすぎない」

「うん」


 椅子を二脚、向かい合わせにする。けど真正面じゃない。少し斜め。

 ゼロか百かにしない角度が、今日も効く。

 アンは当然のように椅子の下に潜り、第三の動き担当に就任した。尻尾が床をトントン叩く。開始の合図。


 コップが五つ並ぶ。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人。

 そして、りんご。食感で割る保険。


「じゃ、型」千紗が言う。

「チッ→凹凸→一手?」

「うん。あなた、チッして」

 僕は舌で「チッ」と鳴らした。ブザー。

 勢いだけで走らないスイッチが入る。


「凹凸」

「一手」

 千紗が返す。刺さったときの手すりが机の上に置かれる感覚。


「まず確認」千紗が言う。「私の焔、何に対して?」

「……分かってないの?」

「分かってるけど、言語化すると燃え方が変わる」

 千紗は紅茶のコップを指で押した。優しい論理担当。

「今日は、言う」

「じゃあ聞く。受信機、立てる」

 僕は胸の前で両手を軽く広げた。拾う姿勢。


 千紗は一拍置いて、言った。

「書きたい」

「書きたい」

「うん。ずっと“飛べそう”を積んでたじゃん」

「うん」

「今日、飛ぶ」

 言い切ると同時に、千紗の目が少しだけキラッとする。

 焔って、こういう目をする。


 僕の内なる炭酸が「いけるいける!」と喉まで上がってきた。

 でも、今日は根性論禁止。煽り禁止。燃え尽き禁止。

 だから僕は先に、りんごを噛んだ。


 シャク。

 音が、僕の勢いをいい感じに切る。


「いいね」僕は言う。「何を書く」

「まだ一行」

「一行でも焔」

「うん。焔は一行からでも出る」

 千紗はほうじ茶を押した。落ち着き担当。

「ただし、火加減」

「火加減、共有」

「共有」


 千紗は紙を一枚出し、ペンで大きく丸を書いた。

 丸の中に、つまみの絵を描く。

 コンロのつまみみたいなやつ。


「これ」千紗が言う。「焔の音量つまみ」

「遠吠えの音量つまみ、の親戚」

「そう。遠吠えは音、焔は温度」

 千紗はつまみの周りに目盛りを描いた。

 0、1、2…と書きかけて、途中でやめる。

「数字だと百にしたくなるから、言葉にする」

「言葉の目盛り」

「うん」


 目盛りはこうなった。

 **白湯:ぬるい**

 **紅茶:あったかい**

 **ほうじ茶:落ち着く熱**

 **コーヒー:集中の熱**

 **炭酸:暴発の熱**


「暴発の熱は、封印じゃない?」

「封印じゃない。寄り」

「寄りはいい」

「ゼロか百かじゃない」

 千紗は自分で言って、ちょっと満足そうに頷いた。


「で」千紗が言う。「今の私はどれ?」

 僕は真面目に観察する。頬が少し赤い。足が小刻みに揺れてる。言葉が短い。

「……炭酸寄りのコーヒー」

「最悪じゃん」

「最悪じゃない。強い」

「強いのは、燃える」

「だから火加減」

 僕は鈴を指でちょんと弾いた。ちりん。

「さぁ」

「そこで鳴らすのは反則」

「背中押す音じゃなく、つまみ回す音として鳴らす」

「ズルい」

「ズルいのは生活」

 千紗が笑った。笑えるのは、もう落ち着ける証拠。


「じゃ、今日の一手」千紗が言う。

「うん」

「“燃やさず灯す”ための手順を三つ」

「三つ」

「多いと暴発する」

 千紗は今日、ルール設定が上手い。


 僕は指を立てながら言う。

「一つ目:時間でフレーム」

「フレーム」

「うん。火は長いと焦げる。だから短い額縁」

 僕はスマホのタイマーを取り出して、**25分**に設定した。

「島を作る」

 床にマステを貼る代わりに、今日はテーブルの端に紙で小さな四角を置いた。

「ここが“書く島”」

「島の外は?」

「触れないで守る」

 僕は手袋を一枚、テーブルに置いた。合図。


「二つ目」僕は続ける。

「“言い方”を先に決める」

「言い方」

「うん。焔は言い方で燃え方変わる」

 僕は千紗を見る。

「今日は“完璧に書く”禁止。代わりに」

「代わりに?」

「“下書きを作る”」

「下書き」

「下書きは燃えない。灯る」

 千紗は眉を上げて、少しだけ納得した顔をした。


「三つ目」

「食感で割る」

「りんご」

「うん。熱くなりすぎたらシャク」

 僕が言うと、アンが椅子の下で「にゃ」と鳴いた。

 議長が“賛成”の鳴き方をするのは珍しい。


「よし」千紗が言う。

 ちりん。鈴が鳴る。

「さぁ」

「今のさぁ、良い温度」

「ほうじ茶くらい」

「うん」


 千紗はノートPCを開いた。

 画面が白い。白いのに、今日の白は怖くない。

 なぜなら、白にフレームがある。25分という額縁。島という境界。手袋という安全。


「最初の一行」千紗が言う。

「うん」

「……書けたら、鈴」

「合図でピース化」

「そう」


 タイマーが動き出す。

 千紗はキーボードに指を置いたまま、一回だけ目を閉じた。

 焔が胸の中で息を吸ってる。

 それが分かったから、僕は余計な応援をしない。

 届くまで歌わない。下手くそ応援歌の作法。


 五分くらい経ったころ、千紗の肩が少し上がった。

 熱が上がるサイン。

 そして彼女は小さく舌打ちした。


「チッ」

 自分でブザーを鳴らした。偉い。

 僕は即座に返す。

「凹凸」

「一手」

 千紗はキーボードから手を離し、りんごを一欠片取った。

 シャク。

 音が、熱の輪郭を整える。


「……今、炭酸が出た」

「どんな炭酸」

「『全部書ける気がする!』って炭酸」

「それは危ない炭酸」

「うん。暴発の熱」

「つまみ回す?」

「回す」

 千紗は自分の胸の前で、つまみを回すジェスチャーをした。

「コーヒーまで下げる」

「集中の熱」

「うん。燃やさず灯す」


 そう言って、千紗はまた打ち始めた。

 カタカタ、という音が、火の音に似ている気がした。

 燃えてるわけじゃない。

 灯ってる。

 仕事をしてる焔。


 25分が終わる直前、千紗がふっと息を吐いた。

 そして、鈴を鳴らした。

 ちりん。

 音が小さいのに、部屋の空気が「できた」に寄る。


「一行?」僕が聞く。

「……三行」

「三行でも十分、焔」

「見ていい?」

「見て」

「でも、直さないで」

「直さない」

「触れないで守る」

「手袋」

 僕は手袋を指でトンと叩いた。


 千紗が画面をこちらに向ける。

 そこには短い文章が三行。

 内容はまだ荒い。でも、荒いのにちゃんと温度がある。

 読むと、胸の内側が少しだけ明るくなる。


「……これ」僕は言った。

「うん」

「焔だね」

「焔、だった」

 千紗は照れたみたいに鼻を掻いて、すぐにりんごを噛んだ。

 シャク。

 照れが熱に変わる前に割る。手順が板についてきた。


「ねえ」千紗が言う。「私、もう一セットやっていい?」

「二セット目は危ない?」

「危ない」

「じゃあ、フレーム変える」

「どう変える」

「二セット目は、時間を短く」

「短く?」

「**10分**」

「焔を小分け」

「小分けは正義」

 千紗が笑った。笑いが出るなら、燃えてない。


 10分をやって、千紗はまた鈴を鳴らした。

 ちりん。

 増えたのは文章じゃなく、灯りの数だった。

 大きな火じゃない。小さな火が二つ。

 それが、今日の勝ち方。


「掲示板に貼ろ」千紗が言う。

「何を」

「今日の焔の扱い方」

 千紗は小さな紙片を出して、ピースとして書いた。


『本日の焔:25分+10分/完璧禁止→下書き/熱くなったらシャク/つまみは共有』


 掲示板に貼って、鈴を鳴らす。ちりん。

 風に飛ばされない。


 アンが椅子の下から出てきて、紙の下で伸びをした。

 議長の“よくできました”の伸び。

 千紗はアンの頭を撫でて、僕の方を見た。


「ねえ、応援して」

 急に言うから、僕の中の炭酸が跳ねた。

 でも今日は下手くそ応援歌パート何番だって、僕らは知ってる。

 上手さ禁止。煽り禁止。戻る最優先。


「……ちゃんと見てる」

 僕はサビだけ言った。

 千紗は笑って、同じサビを返した。


「ちゃんと見てる」


 焔の如く、という言い方は大げさかもしれない。

 でも、台所の小さなつまみを二人で回せるなら、焔は怖くない。

 燃え尽きずに、灯ったまま、生活の中でちゃんと役に立つ。


「戻る?」千紗が聞く。

「戻る」

 僕は答えて、コップを持った。空っぽでも器は器。

 白湯を一口飲む。

 熱すぎない。

 ちょうどいい。

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