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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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届くまで歌わない

 応援って、上手いと眩しい。

 眩しいのが苦手な日もある。そういう日に必要なのは、たぶん“上手さ”じゃなくて“手順”だ。


 その夜、千紗は玄関で一回だけ立ち止まってから入ってきた。

 ドアの音、靴の音、アンの小走りの音。いつも通りの並び。なのに、千紗の「ただいま」がほんの少しだけ薄い。


「おかえり」

 僕は台所から言って、すぐに言葉を追加しそうになって止めた。

 説明で埋める癖が、僕の“下手くそな応援”の正体だと最近分かってきたから。


 アンが千紗の足元にすり寄って、くるりと回ってから座った。

 議長は、今日の空気を嗅いでいる。千紗はしゃがんでアンの首を撫で、撫でたまま少し動かない。


「……今日さ」千紗が言った。

「うん」

「なんか、うまくいかない」

「うん」

 僕は頷くだけにした。ここで「なにが?」と聞くと、千紗の中の箱を全部開けさせる可能性がある。

 千紗は振り返らない人だ。振り返らないまま言える分だけ言う。だから僕も、追いかけない練習をする。


 千紗が立ち上がって、冷蔵庫を開けた。掲示板の“うちのニュース”を一瞥して、ペンを取る。

 そして新しい紙を貼った。


『本日の議題:応援 ※上手さ禁止 ※煽り禁止 ※戻る最優先』


 僕はその紙を見て、変な笑いが出そうになった。

「上手さ禁止って、規則が厳しい」

「厳しい日もある」千紗は真顔で言って、すぐに口元だけ少し緩めた。

「眩しい応援は、今日は刺さる」

「刺さる」

「だから、凹凸」

 千紗がさらっと言う。合言葉。刺さったときの手すり。


「一手」

 僕も返す。

 言葉が噛み合っただけで、部屋の空気が一段、落ち着く。


 千紗はテーブルの上に鈴を置いた。

 ちりん。

 刃物じゃなく背中を押す合図。だけど今日は押しすぎない音量にする感じで、控えめに鳴らした。


「さぁ」

「……さぁ、で会議?」

「会議」

 千紗は椅子を二脚引いた。向かい合わせだけど真正面じゃない。少し斜め。

 ゼロか百かにしない角度で、たまり場を起動する。


 アンは当然のように椅子の下に潜って、第三の動き担当に就任した。尻尾が床をトントン叩く。

 開始の合図。議長は手順にうるさい。


 テーブルにはコップが五つ並んだ。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人。

 それから、りんご。食感で割るための予備。

 千紗がわざとらしく言う。


「下手くそな応援歌、パート3」

「パート3なんだ」

「うん。前の二つ、覚えてる?」

「……一個目は『がんばってます』を顔を合わせて言う練習」

「正解」

「二個目は、平和を数えるやつ」

「そう」

「じゃあ三個目は」

 千紗は少しだけ首を傾げて、言った。


「“届くまで歌わない”」

「歌わない応援歌?」

「下手だから。歌い出したら止まらない」

「僕のこと?」

「あなたのこと」

 千紗は笑った。僕も笑った。

 笑えるのは、まだ余白がある証拠だ。


「じゃ、型」千紗が言う。

「チッ→凹凸→一手?」

「うん。あなた、チッ」

 僕は舌で「チッ」と鳴らした。ブザー。

 ここから先は、応援を“勝手に届けた気になる”のを禁止するモード。


「凹凸」

「一手」

 千紗が返す。手すりがある。


「一手目」千紗が言う。「今日の“うまくいかない”を、箱にする」

「箱?」

「フレームでもいい。枠でもいい。とにかく、散らばらせない」

「またフレーム」

「フレームは便利」

 千紗はマステを取り出して、テーブルの端に小さな四角を作った。

 四角の中に、紙を一枚置く。空白。

「ここが箱。今日は“詳細”を入れなくていい」

「空白でいいの?」

「空白でも器は器」

 千紗がコップを指でトンと叩く。

 空っぽでも器は器。今日の合言葉はそれだ。


「じゃあ僕の応援は」僕は言う。「箱の外でやる」

「そう。箱の中身を勝手に開けない」

「手袋」

 僕が言うと、千紗は頷いて手袋をテーブルに置いた。触れないで守る合図。

「そう。触れないで守る」


 アンが椅子の下から「にゃ」と鳴いた。

 賛成の鳴き方。


「二手目」千紗が言う。「下手くそ応援を、材料に分解する」

「材料」

「うん。言葉が下手なら、材料を変える」

 千紗は冷蔵庫から小皿を出した。りんごの薄切りを追加して、台所で小さく包丁を動かす。

 トントン、シャク。

 音が整う。

 千紗は皿を置いて言った。


「応援の材料は三つ。音、温度、距離」

「距離」

「うん。近すぎると刺さる。遠すぎると届かない」

「今日は、斜めの椅子」

「そう。距離の調整」

 千紗は鈴を指で弾いて、ちりん、と軽く鳴らした。

「音。大きくしない」

 そして白湯を飲む。

「温度。熱くしない」

 最後に、僕を見た。

「距離。詰めない」


「了解」

 僕は頷いて、内なる五人を呼び出すみたいにコップを見た。


「じゃあ、白湯さんから」千紗が言う。

「白湯の応援は、たぶん」僕は言う。「“ここにいる”」

「それだけ?」

「それだけ」

 千紗が小さく頷く。

 僕の“それだけ”は、普段よりずっと上手い。


「紅茶さん」

 千紗が紅茶を一口飲んで、優しい論理で言う。

「今日のあなたは、間違ってない。うまくいかない日を引いた」

「くじ引きみたい」

「そう。運要素もある」

「それ、助かる」

 僕は言った。

 責任の塊が、少し軽くなる。


「ほうじ茶さん」

 僕がほうじ茶を持って、落ち着きの声で言う。

「今夜は“戻る”でいい」

 千紗の眉が、少しだけ緩む。

 “戻る”は錨だ。たまり場回の錨。


「コーヒーさん」

 千紗がコーヒーを持って、鋭い声の真似をする。

「応援は、解決じゃない。応援は、横に置く手すり」

「凹凸」

 僕が言う。

「一手」

 千紗が返す。


「炭酸さん」

 僕が炭酸を持って、勢いで言う。

「いけるいける!飛べる飛べる!」

 言った瞬間、アンが「にゃっ」と鳴いた。

 音量注意。議長のブザー。

 僕と千紗は同時に笑ってしまう。

 笑いは、沈まないための空気穴。


「炭酸さんは今日、禁止寄りだね」千紗が言う。

「禁止寄り」

「うん。封印じゃない。寄り」

「寄りは、いいね」

「ゼロか百かじゃない」

 千紗はそう言って、りんごを僕の口に入れてくれた。

 シャク。

 音が、会議を区切る。


「三手目」千紗が言う。「応援歌を、歌わずに作る」

「どうやって」

「一行だけ、繰り返す」

「サビだけ?」

「サビだけ。下手くそだから」

 千紗は照れ隠しみたいに鼻を掻いて、言った。

「今日のサビは、“ちゃんと見てる”」

「……ちゃんと見てる」

 僕は復唱した。

 復唱すると、言葉が自分の口の形に馴染む。

 それだけで“嘘じゃない”に近づく。


「じゃ、私も言う」千紗が言う。

 FACE TO FACE。逃げない。

「今日の私は、がんばってる」

 たった一文。

 彼女は振り返らない。だから言える分だけ言う。


 僕の胸が少し熱くなる。熱くなると、僕は応援を上手くしようとしてしまう。

 だから、先にブザー。


「チッ」

 僕が小さく言う。

「凹凸」

 千紗がすぐ返す。

「一手」

「一手は」僕は言う。「上手い言葉を探さない」

「いい」

 千紗は鈴を鳴らした。ちりん。

 承認の音。背中を押しすぎない音。


「じゃあ、下手くそでいく」

 僕は息を吸って、サビを言った。

「ちゃんと見てる」

 千紗は少しだけ笑って、同じサビを返す。

「ちゃんと見てる」

「……なんか、応援歌っぽい」

「っぽいでしょ。下手でも成立」

「成立した」

「成立したら、次は“戻る”」

 千紗が言う。


「戻る」

 僕は言って、椅子の角度のまま、背中を預けた。

 応援は、前へ押すことだけじゃない。戻れる場所を確認することでもある。


 千紗は掲示板に、今日のピースを貼った。

 小さな紙片に、丸い字。


『今日の応援:サビは一行/ちゃんと見てる/戻る最優先』


 僕はその横に小さく書き足した。


『刺さったら凹凸→一手→りんご(シャク)』


 アンが椅子の下から出てきて、紙の下で伸びをした。

 議長は、異議なし。むしろ賛成の伸び。


 それから僕らは、何も解決しなかった。

 “うまくいかない”の詳細は、箱の空白のままだった。

 でも、空白でも器は器。

 今夜は、その器をテーブルの上に置けた。それが大事だった。


「ねえ」千紗が言う。

「なに」

「あなたの応援、下手だね」

「……知ってる」

「でも、下手なところが好き」

「それ、褒めてる?」

「褒めてる。だけど煽ってない」

「煽り禁止」

「うん」

 千紗は笑って、鈴を一回だけ鳴らした。ちりん。

「さぁ」

「何」

「お風呂、先に入っていい」

「それが応援?」

「そう。今日の私は、先に温めたい」

「了解」


 千紗が立ち上がって、ふわっと背中を伸ばした。

 薄い疲れがまだ残っているけど、動ける。振り返らない人の歩き出し。


「ねえ」僕は言った。

「なに」

「サビ、もう一回だけ」

 千紗は振り返らずに、でも肩越しに小さく言った。


「ちゃんと見てる」

 僕も小さく返した。

「ちゃんと見てる」


 上手い歌じゃない。

 でも、たまり場にはちょうどいい音量で、ちょうどいい温度で、ちょうどいい距離で、ちゃんと届いた。

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