平和の数え方
平和って、ニュースにならない。
だから気づくには、受信機を“逆向き”にしないといけない。
叫びじゃなくて、息の音を拾う向き。
その日の朝、僕は派手に失敗した。
味噌汁の鍋を火にかけたまま、別のことを考えていた。
考えていたのは「今日のタスク」とか「返事が来るかも」とか、そういうやつ。
気づいたときには、鍋のふちから泡がふくふく溢れて、コンロの上が小さな海になっていた。
「……あ」
僕が固まった瞬間、背後で軽い足音。
アンが尻尾を立てて現場検分に来る。
その顔が「議長は見ました」って感じで、僕は妙に背筋が伸びた。
「何してんの」
千紗の声。
でも今日は、“問い詰め”の声じゃない。
受信機に直した「なにしてんの」の声。
「味噌汁が、暴走」
「暴走の規模は?」
「中海くらい」
「それは…平和」
千紗は笑いながら、火を止めて、鍋をずらして、濡れ布巾を取り出した。
手の動きが迷わない。
誰かが怪我をしたわけじゃない。
家が燃えたわけじゃない。
ただ、味噌汁がやる気を出しすぎただけ。
僕は布巾をもう一枚取って、千紗の隣に並んだ。
床に落ちた泡を拭く。
アンが僕らの足元を避けるように歩く。
猫がちゃんと避けられる余白があるのが、すでに平和だと思った。
「ねえ」千紗が言う。
布巾を絞りながら、冷蔵庫の“うちのニュース”へ向かう。
今日も、すでに貼り紙がある。千紗の字。
『本日の議題:平和なことか ※油断で割らない ※軽く扱わない』
「平和を軽く扱わない?」
「うん」千紗は頷く。「平和ってさ、雑にすると消える」
「雑にすると消える」
「だから今日は、平和をちゃんと数える」
千紗は鈴をテーブルに置いて、ちりん、と鳴らした。
刃物じゃなく背中を押す合図。
「さぁ」
「……さぁ、で平和の会議」
「会議」
椅子が二脚、テーブルに引かれる。向かい合わせ、でも真正面じゃない。少し斜め。
ゼロか百かにしない角度で、平和を扱う。
アンは当然のように椅子の下に潜って、第三の動きの担当に就任。
コップが五つ並ぶ。白湯・紅茶・ほうじ茶・コーヒー・炭酸。内なる五人。
りんごも置かれる。食感で割る、いつもの保険。
「じゃ、型」千紗が言う。
「チッ→凹凸→一手?」
「うん。あなた、チッして」
僕は舌で「チッ」と鳴らした。ブザー。
ここからは、平和を“当たり前”にしない時間。
「凹凸」
「一手」
千紗が返す。手すりがあると、平和もちゃんと掴める。
「一手目」千紗が言う。「今日の平和を、三つだけ言う」
「三つ」
「多いと雑になる」
「分かった」
僕はさっきの味噌汁を思い出して、まず一つ。
「味噌汁が溢れたのに、笑えた」
「いい」
「アンが逃げ足じゃなく、見物足だった」
「議長は大事」
「千紗が怒鳴らなかった」
言った瞬間、僕は自分で苦笑した。
怒鳴らなかった、が平和の一部になってるの、過去の僕がちょっと怖がってた名残だ。
千紗はそれを見て、ゆっくり頷いた。
「それ、平和になり直してる途中だね」
「途中」
「うん。途中はいい」
千紗は鈴を鳴らした。ちりん。
途中が許可されると、平和は長持ちする。
「私の三つ」千紗が言う。
紅茶を一口飲んで、優しい論理担当で言葉を整える。
「あなたが味噌汁を見て固まった瞬間、すぐ“謝らなかった”」
「え」
「前はすぐ『ごめん』って言って、私に処理を丸投げした顔になるときあった」
「……あった」
「今日は一緒に拭いた。平和」
僕の胸が少しだけ熱くなる。
熱くなるのは、嬉しいの方向だ。
「二つ目」千紗が続ける。
「冷蔵庫の牛乳が、ちゃんと残ってた」
「それは、買ったから」
「買ったの覚えてた。平和」
「三つ目」
千紗は少し考えて、笑った。
「アンが今、椅子の下で寝る気だ」
アンは聞こえたみたいに「にゃ」と鳴いて、丸くなった。
寝る気がある猫は、世界を信じてる証拠だ。
「二手目」千紗が言う。「平和を“飾る”」
「飾る?」
「フレームの応用」
千紗は小さな紙を出して、ペンで書き始めた。
ピース。欠片を完成側へ戻す合図。
『今日の平和:味噌汁の海/拭く二人/議長は見物』
そして紙を掲示板に貼った。
ニュースになるには小さすぎる。
でも、うちにはニュースだ。
「飾るとどうなるの」
「忘れない」
「忘れないって、鎖にならない?」
「鎖じゃない。手すり」
千紗はさらっと言う。
最近、手すりが増えている。
増えてるのが平和だ。
「三手目」千紗が言う。「平和を割るものを先に言う」
「割るもの」
「うん。油断で割らない」
「……僕は、焦り」
「焦り」
「焦ると、平和の上に走る」
「うん」
「千紗は?」
千紗はほうじ茶を押して、落ち着き担当を呼び出す。
「私は、“平和を守るために頑張りすぎる”」
「守るために頑張りすぎる」
「うん。守りすぎると、檻になる」
「フレームの話に戻る」
「そう。だから、ゆるい」
千紗は笑って、僕の手の甲を指でつついた。
「平和は、ゆるい額縁で飾る」
「なるほど」
僕はりんごを噛んだ。
シャク。
音が、頭の中の焦りを少し削る。
平和を割る前に、食感で割ってしまう。うちのズル技。
「じゃ、合図決める」千紗が言う。
「合図?」
「平和が割れそうなときの合図」
「チッ?」
「チッはブザー。もっと柔らかいの」
千紗は少し考えて、言った。
「“平和なことか”」
「そのまま」
「そのままが一番効く」
「平和なことか」
「うん。言われたら、立ち止まって、三つ数える」
「三つ」
「さっきのルール」
「了解」
昼過ぎ、僕は仕事のメールで少し焦って、キッチンを行ったり来たりしてしまった。
何か落ち着かない。
そんな僕を見て、千紗が言った。
「平和なことか」
優しい声。
叱ってない。呼び戻してる。
僕は立ち止まって、三つ数えた。
「アンが寝てる」
「うん」
「湯が沸いてる」
「うん」
「千紗が、ここにいる」
千紗は頷いて、鈴を鳴らした。ちりん。
「さぁ」
「戻る?」
「戻る」
僕は椅子に座って、コップを持った。空っぽでも器は器。
白湯を飲む。
白湯は、派手じゃない。
でも、派手じゃないものが喉を通るのが、平和だ。
夕方、味噌汁はちゃんと出来た。
今度は溢れなかった。
でも溢れなかったことより、溢れた朝を笑えたことのほうが、今日は大事だった気がする。
「ねえ」千紗が言う。
「なに」
「平和ってさ、面白いね」
「面白い?」
「うん。何も起きないのに、起きてる」
「……たしかに」
アンが欠伸をした。
あくびって、世界への信頼の形だと思う。
僕はりんごを最後の一口、噛んだ。
シャク。
音が、今日の平和をしっかり区切る。
そして区切ったから、明日もまた数えられる。
平和なことか。
うん。
平和なことだ。




