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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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ゆるい額縁の作法

 フレームって、四角いくせに、性格がある。

 ぎゅっと締めると「ここから先は入れません」になるし、少しゆるめると「ここが目印です」になる。


 その日の朝、千紗は起き抜けに唐突な宣言をした。


「今日、うちにフレームが要る」

「うちに……額縁?」

「額縁でもいいし、枠でもいいし、線でもいい」

「急に概念が増えた」

「増える日もある」

 千紗は白湯を飲んで、ふうっと息を吐く。内なる五人のうち、素直担当が起動している顔だ。


 アンが僕の足元で「にゃ」と鳴いた。

 要求の鳴き声。たぶん朝ごはん。フレームの話は置いといて良いから早く、という顔。


「議長が怒ってる」

「議長はいつも正しい」

 千紗は真顔で頷いて、アンの皿にカリカリを出した。

 するとアンは態度を一段柔らかくして、椅子の下に潜り込む。第三の動き担当、就任。


 僕はトーストを焼きながら、冷蔵庫を開けた。

 掲示板の“うちのニュース”に、もう貼り紙がある。千紗の字。


『本日の議題:フレーム ※押し付け禁止 ※決めつけ禁止 ※ただし放置も禁止』


「禁止事項が多い」

「枠って、油断すると檻になるから」

 千紗はトースターの前で腕を組む。

「でも枠がないと、全部が全部、同じ重さで流れていく」

「全部が同じ重さ」

「うん。朝のパンと、仕事の嫌なことと、昨日の微妙な一言と、アンのヒゲが一本抜けたことが、同列になる」

「ヒゲは大事」

「大事。だからフレーム」

 千紗は鈴を指先で転がして、ちりん、と鳴らした。

 刃物じゃなく背中を押す合図の音。


「さぁ」

「……さぁ、で始まるんだね」

「始まる」


 千紗は椅子を二脚、テーブルに引いた。向かい合わせだけど、真正面にしない。少しだけ斜め。

 ゼロか百かにしない角度は、うちの定番だ。


「じゃ、型」千紗が言う。

「チッ→凹凸→一手?」

「うん。あなた、チッ」


 僕は舌で「チッ」と鳴らした。ブザー。

 これで、余計な勢いで踏み荒らさないモードに入る。


「凹凸」

「一手」

 千紗が返す。刺さったときの手すりが、机の上に現れる感じ。


「一手目」千紗が言う。「フレームが必要な理由を、一文で」

「一文」

「長文禁止。説明で埋めない」

「うっ……」

「ほら。すぐ埋めたがる」

「努力します」

「ほうじ茶案件」

 千紗がほうじ茶のコップを指で押す。落ち着き担当が「落ち着け」をやってくる。


 僕は一回、りんごを噛んだ。

 シャク。

 音で、言葉の余計な枝が折れる。


「……今日は、頭が散らかってて、何を優先したらいいか分からない」

 僕の一文。

 千紗が頷いた。受信機が拾った合図。


「私の一文」千紗が言う。

 紅茶を一口飲んで、優しい論理担当が起動する。

「あなたが散らかると、あなたは自分に厳しいフレームを急に貼る」

「貼る?」

「貼る。『こうすべき』の枠」

「……確かに」

「だから今日は、“ゆるいフレーム”を先に作る」

「ゆるい」

「ゆるいは、甘やかしじゃない。手順」

 千紗は言い切って、鈴を鳴らした。

 ちりん。

 “ゆるい”が、ただの雰囲気じゃなく、道具になる。


「二手目」千紗が言う。「フレームを物理に落とす」

「物理」

「うん。買いに行く」

「額縁?」

「額縁も。あと、マステ」

「マステでフレーム?」

「床に貼る」

「床に」

「床にフレームを作ると、そこが“今やること”の島になる」

 千紗は手を広げて、見えない島を作った。

「島の外は、今日は触れないで守る」

「手袋だ」

「そう。精神の手袋」

 千紗は得意げに言って、アンに睨まれた。

 議長は“精神の手袋”という言い方が気に入らないらしい。猫は概念のネーミングに厳しい。


 僕らは朝ごはんの後、近所の雑貨屋へ行った。

 冬の終わり寄りの空気で、刺さる寒さは減っている。

 千紗は店内を歩きながら、何度も「現実通り」と小さく言った。

 現実通り。今日は焦って良い日じゃない、という自分への合図。


 額縁コーナーで、千紗は二つのフレームを持ち比べた。

 片方は木のフレームで、少し幅が太い。

 もう片方は細くて軽い、金属っぽいフレーム。


「どっちがいい?」

「何を入れるの?」

「まだ決めない」

「決めない」

「決めないフレームもある」

 千紗は当たり前みたいに言う。

 それが今日の彼女の強みだ。先に箱を作って、中身は後。

 僕はだいたい逆で、先に中身を詰めて箱が破裂する。


「じゃあ」僕は言う。「太い方が安心するけど、重くなりそう」

「うん」

「細い方が軽いけど、落ちそう」

「うん」

「……凹凸」

 僕が言うと、千紗はすぐ返した。

「一手」

「一手は?」

「“両方買わない”」

「え」

「冗談」

 千紗は笑って、結局、細い方を選んだ。

「これ。ゆるいフレーム」

「どうして」

「太い枠って、安心するけど、“中身を正しくしなきゃ”が強くなる」

「なるほど」

「細い枠は、『とりあえず置いとこ』ができる」

「置いとこ、好き」

「今日のあなたに必要」

 千紗の言葉が、僕の胸の中で小さく留まる。


 マステも買った。色は薄いグレー。

 千紗が「これ、線が主張しすぎない」と言ったからだ。

 線は壁になりやすい。主張しすぎない線がいい。


 帰宅すると、アンが玄関まで出迎えに来て、僕らの買い物袋を検品し始めた。

 鼻を突っ込んで、額縁を見て、ひと鳴き。


「議長、審査」

「合格?」

「たぶん。鳴き方が“まあいい”」

「上からだな」

 千紗が笑う。笑いが明るい。沈まない。


 千紗はさっそく床にマステを貼り始めた。

 リビングの一角に、四角い枠を作る。

 枠の中には、座布団を一枚。

 そして、椅子を一脚、枠の角に置く。椅子が第三の動きになる配置。


「ここ」千紗が言う。「今日の島」

「島」

「ここに入ったら、今日やることだけ」

「島の外は?」

「今日は触れないで守る。手袋」

「了解」

 僕は思わず真面目に頷いてしまう。

 こういうの、効く。

 気合じゃなく、見える形で自分を守れる。


 千紗はテーブルの上に、コップを五つ並べた。内なる五人。

 そして、りんごも置く。


「シャク、挟む?」

「挟む」

「じゃ、島の入り口でチッ」

「お、手順が濃い」

「今日は濃い日」

 千紗が鈴を鳴らす。ちりん。

「さぁ」


 僕は島の枠の中に入って、座布団に座った。

 妙に落ち着く。

 ただのマステの線なのに、脳が「ここは別枠」と理解する。


「チッ」

 僕が言う。ブザー。

「凹凸」

 千紗が返す。

「一手」

「一手は」千紗が言う。「今日の“やること”を、ピースにする」

 彼女は小さな紙片を持ってきて、ペンで書く。

 ピース。欠片を完成側へ戻す合図。


『今日の島:やること3つだけ』


「3つ」

「多い?」

「いや、ちょうどいい」

「じゃ、決める」

 千紗は紙に番号を書いた。

1)連絡1件

2)作業30分

3)休む合図を出す


「休む合図?」

「うん。“がんばってます”の反対側」

「反対側って何」

「“今日はここまで”」

 千紗はさらっと言う。

 フレームは、終わりを作る道具でもある。終わりがないと、人は延々と続けてしまう。


 僕は一番目の連絡を送った。

 送信ボタンを押した瞬間、胸がきゅっとなる。

 返事が怖い。

 怖いは、いつものやつ。


 僕は舌で「チッ」と鳴らした。

 千紗の目がすぐこちらに来る。受信機が立っている。


「凹凸」

「一手」

「今の一手は?」千紗が聞く。

「……りんご」

「よし」

 僕はりんごを噛む。

 シャク。

 音が、怖いを“今の感情”の箱に入れてくれる。

 箱に入れると、持てる。抱え込まなくて済む。


「いいね」千紗が言う。「怖いを、島の外に投げないで、島の中で扱えた」

「島の中で扱う」

「そう。フレームは檻じゃなく、作業台」

「作業台」

「うん。ここで直す」

 千紗は鈴を鳴らした。ちりん。

「さぁ、二番目」


 二番目の作業を始めると、僕はつい「完璧にやらなきゃ」の太いフレームを貼りたくなる。

 でも今日は、細いフレームの日。


 千紗が椅子を少し動かした。

 僕の視界の端に椅子が入る。第三の動きが「今はここ」と教えてくる。


「線、見て」

 床のマステの線。

 薄いグレー。主張しすぎない。

 それでも、ちゃんと境界だ。


「枠の外のこと考えたくなったら」千紗が言う。「“フレーム”って言って」

「そのまま」

「うん。そのままが一番早い」

「フレーム」

「いい」

「……フレーム」

 僕は二回言った。

 それだけで、頭の散らかりが少し収まる。

 言葉って、枠になる。


 三十分が過ぎた。

 千紗はタイマーを止めて、勝利宣言みたいに鈴を鳴らした。ちりん。

「さぁ、三番目」

「休む合図」

「うん。ここが大事」


 僕は息を吸って、言った。

「今日はここまで」

 言えた瞬間、肩が少し落ちる。

 落ちるのは、負けじゃない。着地だ。


「よし」千紗が言う。「コップ」

 彼女は空っぽのコップを僕の前に置いた。

「空っぽでも器は器」

「今日は空っぽにしていい」

「うん。むしろ空っぽが正解」

 千紗はにこっとして、りんごを差し出した。

「シャク」

 僕は噛んだ。

 シャク。

 音が、今日の島の終わりをきれいに区切る。


 夕方、千紗は買ってきた細いフレームをテーブルに置いた。

「こっちのフレームも使う」

「何入れる?」

「決めない」

「また決めない」

「決めないのを飾る」

 千紗はスマホを取り出して、アンの写真を見せた。

 アンが椅子の下で丸くなって、こっちを見上げている写真。

 目が「議長です」って言ってる。


「これ、入れる?」

「それは決まってるじゃん」

「決まってるのも入れる」

 千紗は笑って、写真をプリントする設定を始めた。

「でももう一枚、空白を入れる」

「空白?」

「うん。写真じゃなく、白い紙」

「なんで」

「これが“ゆるいフレーム”の証拠」

 千紗は指でフレームの角を軽く叩いた。

「空白があると、フレームが檻にならない」

「……なるほど」

「いつか、入れたいものができたときに入れる」

「未来用の席」

「そう。たまり場の続き」

 千紗の言葉が、なんだか嬉しい。


 千紗は掲示板に、今日の結論を貼った。


『本日の結論:フレームは檻じゃなく作業台。細く、ゆるく、空白つき。』


 その横に、僕は小さく書き足した。


『刺さったら凹凸。チッしたら一手。』


 アンが「にゃ」と鳴いた。

 議長は、異議なし。たぶん“よくできました”の鳴き方。


 床のマステの島は、夜になっても剥がさなかった。

 今日の島は明日には要らないかもしれない。

 でも、必要ならまた貼ればいい。

 フレームは固定じゃない。

 僕らの生活は、四角い枠を、ちょっとだけゆるくして回っている。


「ねえ」千紗が言う。「明日、枠の形、変えていい?」

「いい」

「丸でもいい?」

「マステで丸、難しくない?」

「難しいのは炭酸さんに任せる」

 千紗が炭酸のコップを指で押した。勢い担当。

「いけるいける!」

 僕は笑って、りんごをもう一口噛んだ。


 シャク。

 音が、ゆるい額縁の中で、ちゃんと明日へ続いていく。

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