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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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泣き跡を手すりにする

 涙って、振り返らない人ほど、静かに落とす。


 千紗はたぶん、泣くときの音量が世界でいちばん小さい。

 泣いたあとも、いちばん最初に笑える。

 まるで「ここで止まらない」が呼吸と同じみたいに。


 その日の夜も、そうだった。


 玄関のドアが開く音。

 靴が脱がれる音。

 アンが「おかえり」の脚で床を駆ける音。

 そして、千紗の声。


「ただいま」

「おかえり」

 僕は台所から顔を出して言った。

 千紗は笑って、アンを撫でて、いつものように上着をハンガーに掛けた。


 いつも通りの手順。

 だからこそ、違いが目立つ。


 目元が、ほんの少しだけ赤い。

 頬の高いところに、乾きかけた線が一本。

 気づかなかったふりをするのも、気づいたと言うのも、どっちも乱暴になりそうで。


 僕の中の受信機が、いちばん小さな叫びを拾ってしまって、

 拾ったまま、置き場所が分からなくて、立ち尽くす。


 千紗は僕を見て、首をかしげた。

「ん?どうしたの」

「……なんでも」

 出た。僕の“なんでも”。

 便利な嘘。

 そしてだいたい、後で膝が笑うやつ。


 アンが僕の足首に体を擦りつけた。

 たぶん「手順使え」と言ってる。議長は時々厳しい。


 千紗が冷蔵庫を開け、掲示板の“うちのニュース”を見て、ペンを取った。

 そして、あっさり新しい紙を貼る。


『本日の議題:涙 ※捕まえない ※置き去りにしない』


「……議題、涙」

「うん」千紗は軽く言った。「今日はちょっと、目が先に疲れた」

「目が先に」

「そう。心の前に。だから重くしない」

 その言い方が、振り返らない人の言い方だと思った。

 振り返らないのは、無かったことにするためじゃなくて、引きずらないための技。


 でも僕は、あの乾いた線を、無かったことにしたくなかった。


 千紗が鈴をテーブルの上に置いた。

 ちりん。

 刃物じゃなく背中を押す合図。


「さぁ」

「……さぁ、が来ると、ちゃんとやるやつ」

「ちゃんと、でも、暗くしない」

「うん」


 千紗は椅子を二脚引いた。向かい合わせ。

 だけど、真正面にしない。ほんの少し斜め。

 ゼロか百かにしない角度。

 アンは当然のように椅子の下に潜り、第三の動きとして配置完了。


 テーブルには、コップが五つ並ぶ。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人。

 そして、りんご。

 食感で割る、いつものやつ。


「じゃ、型」千紗が言う。

「チッ→凹凸→一手?」

「うん。あなた、チッして」

 僕は舌で「チッ」と鳴らした。ブザー。

 ここから先は、勢いで踏み荒らさない。


「凹凸」

「一手」

 千紗が返す。手すりがある。


 僕は一度、息を吸って、言った。

「ねえ、千紗」

「うん」

「……今日、泣いた?」

 直球だった。

 でも、直球は乱暴になりがちで、だからこそ手順の上で投げた。


 千紗は一瞬だけ目線を外して、それから戻した。FACE TO FACE。

「泣いたよ」

 あっさり言った。

 振り返らない人は、認めるのが速い。

 速いから、僕が追いつけない。


「……ごめん」

 僕が言うと、千紗は首を振った。

「謝らないで。泣いたの、私の仕事の一部だった」

「仕事の一部?」

「うん。今日の私は“がんばってる係”だった」

 千紗は笑う。

 笑うけど、笑いが“ふた”になってないか、受信機が勝手に心配する。


 僕の内なるコーヒーが口を挟みそうになった。

 理屈で救おうとする癖。

 それは時々、相手の呼吸を奪う。


 だから、僕はコーヒーを押し込めて、白湯の声で言った。

「泣いたの、忘れたくない」

 言った瞬間、千紗の目が少しだけ細くなる。

 その表情は優しいのに、どこかで「重くなるかも」を警戒してる。


「忘れたくない、ってさ」千紗が言う。「鎖っぽく聞こえるときある」

「……うん」

 図星。

 “覚えてる”は、時々、相手をその場に固定する。


「でも」千紗は続けた。「あなたが言いたいの、鎖じゃないのも分かる」

「分かる?」

「うん。あなたは“置き去りにしない”って言いたい」

 千紗の受信機が、僕の小さな叫びを拾ってくれた。

 それだけで救われる。

 救われるけど、ここで終わりにすると、また僕は“なんでも”に逃げる。


 アンが椅子の下から「にゃ」と鳴いた。

 議長が「続けろ」と言っている。たぶん。


「じゃあさ」千紗が言う。「“忘れない”を、うちの言葉に直そう」

「うちの言葉」

「うん。ゼロか百かにしない、生活の言葉」

 千紗はりんごを切って、皿に置いた。

 その音が、やけに優しい。


「シャク、先に一回」

「今?」

「今」

 千紗がりんごを差し出す。

 僕は噛んだ。

 シャク。

 音が、胸の中の言葉をほどく。


「じゃ、翻訳」千紗が言う。

「翻訳」

「“振り返らない君の涙を僕は忘れない”を、うちの型にする」

 曲名みたいな響きが一瞬だけ空気に浮かんだ。

 でも今日は、題名じゃなく、手順にする日。


「まず、錨」千紗が言う。

「錨の一語+理由一行+鈴?」

「うん。あなたが決めて」

 僕は少し考えて、言った。


「錨の一語は……“記録”」

「理由一行」

「忘れない、を心の中で暴れさせないために」

 千紗が鈴を鳴らす。

 ちりん。

 言葉が床に固定される。飛ばされない。


「次」千紗が言う。「手袋」

 薄い手袋をテーブルに置く。

「触れないで守る」

「涙に触れない?」

「ううん。涙を理由に、あなたが私を“止めない”ための手袋」

「……なるほど」

「あなた、優しさで止めがち」

「止めがちかも」

「だから手袋」

 千紗は笑って、僕の指先を軽くつついた。

 叱ってない。整えてる。


「次」

 千紗はコップをトンと叩いた。

「コップ」

「空っぽでも器は器」

「そう。泣いた理由を全部言えなくても、器はある」

「器を持つのが、僕の役目」

「うん。でも器を持つとき、顔を怖くしない」

「……努力します」

「努力のときは、ほうじ茶」

 千紗がほうじ茶のコップを押す。落ち着き担当。

 僕は息を整えた。


「最後」千紗が言う。「凹凸」

「刺さったら手すり」

「そう。泣いた話は刺さりやすい。だから手すりが先」

「手すりがあると、振り返らずに話せる」

「うん」


 ここまでで、僕の中の言葉が、だいぶ“道具”になった。

 鎖じゃなく。

 重りじゃなく。


 僕は改めて千紗を見る。FACE TO FACE。

 でも、真正面から詰めない。斜めの角度のまま。

 通れる線の上で。


「じゃあ」僕は言った。「“忘れない”の代わりに、こう言う」

 千紗が頷く。受信機が立つ。


「今日の涙は、うちの手すりにする。必要な日に、触れる」

 千紗の目が、少しだけ柔らかくなる。

「それ、いい」

「鎖じゃない?」

「鎖じゃない。手すり」

「置き去りにしない?」

「しない。でも捕まえない」

「うん」


 その瞬間、アンが椅子の下から出てきて、テーブルの脚に頭をこつんと当てた。

 “よし”の合図みたいだった。


 千紗はペンを取って、掲示板に小さな紙を貼った。

 ピース。欠片を完成側へ戻す合図。


『今日の涙:目が先に疲れた(がんばってる係)』

 千紗の字は、丸くて強い。


「あなたも書いて」

 僕は紙の横に、短く書いた。


『手すり:凹凸/器:コップ/合図:鈴』


「情報量が多い」

 千紗が笑った。

「ごめん、僕、説明で埋めがち」

「今日は埋めない日」

「じゃあ、一文だけ」

「うん」

 僕は一文だけ言った。


「泣いた顔も、笑った顔も、同じ人だって覚えてる」

 千紗は、少しだけ口元を上げた。

「それなら、いい」


 沈まない。

 重くしない。

 でも、消さない。

 そのバランスが、僕らの生活の技。


「ねえ」千紗が言う。「今日、終わり方、明るくしていい?」

「うん」

「外、行こう」

「今から?」

「うん。冬の終わりっぽいし」

「今日は“冬の終わり”じゃなくて?」

「“泣き跡が乾く日”」

 千紗はさらっと言って、上着を取った。

 振り返らない人の歩き出し。

 でも今日は、その歩き出しの横に、手すりが一本増えている。


 僕らは玄関で靴を履く。

 千紗の靴先は、もう外側を向いていない。

 まっすぐ。

 アンは留守番を拒否する顔をしたけど、今日は議長にお願いして寝てもらう日だ。


「おみやげ、買う」千紗が言う。

「アンに?」

「アンに。あと、うちに」

「うちに?」

「りんご、もう一個」

「シャク、増量」

「そう。食感で割る、が効いたから」

 千紗は鈴をポケットに入れて、ちりん、と小さく鳴らした。

「さぁ」

「さぁ、で出発」


 外の空気は冷たいのに、刺さらない。

 千紗は前を見て歩く。

 僕はその横で、乾いた線を思い出す。

 思い出すけど、追いかけない。

 鎖にしない。

 手すりにする。


「ねえ」千紗が歩きながら言った。

「なに」

「今日の涙、忘れないでね」

 振り返らないまま、言う。

 その言葉は、重くない。

 軽くもない。

 ちょうどいい重さで、僕に渡される。


 僕は笑って、すぐ答えた。

「凹凸」

 千紗が、前を見たまま頷く。

「一手」

「戻る」

「うん、戻る」


 僕らはコンビニの前で、同時にりんごジュースを買った。

 紙パックを握る手が少し冷える。

 冷えるけど、嫌じゃない。

 千紗がストローを刺して、僕に差し出す。


「飲む?」

「飲む」

 僕が吸うと、甘さが口に広がる。

 涙の塩気じゃない。

 でも、その甘さは、泣き跡を否定しない甘さだ。


 振り返らない君の涙を、僕は忘れない。

 その代わりに、僕らはこうする。


 掲示板に貼る。

 鈴で整える。

 凹凸で手すりにする。

 コップで器を持つ。

 りんごでシャクと割る。

 そして、ちゃんと前を向いたまま、同じ速度で歩く。


 帰ったらアンが怒るかもしれない。

 でも大丈夫。

 謝り方も、うちには手順がある。

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