台所の発射台
朝の台所は、だいたい平和だ。
コップが鳴って、トースターがカチッと鳴って、アンが「ここが滑走路」と言わんばかりに床を歩く。
今日も平和…のはずだった。
僕が冷蔵庫を開けると、掲示板の“うちのニュース”が更新されていた。
千紗の字。
『本日の議題:飛ぶ ※落ちない工夫を先に ※根性論禁止』
「根性論禁止が先に来るの、うちっぽい」
僕が言うと、千紗がコーヒーを淹れながら振り返った。
「飛ぶときに根性でいくと、だいたい着地が雑になる」
「雑な着地は膝が笑う」
「そう。膝は大事」
千紗は真面目な顔で頷いてから、わざとらしく鈴を鳴らした。
ちりん。
刃物じゃなく背中を押す合図の音。
「さぁ」
「……さぁ、が来ると、何か始まる」
「始める」
千紗は椅子を二脚、テーブルに引いた。
向かい合わせ、だけど真正面にしない。少しだけ斜め。
ゼロか百かにしない角度で、飛ぶ話をする。
アンは当然のように椅子の下に潜り、第三の動き担当として配置完了。
その尻尾が、床を軽く叩く。トン、トン。
開始の合図みたいで、僕は少し笑った。
「飛ぶってさ」僕が言う。「いきなり空に行くことじゃないよね」
「うん」千紗が言う。「離陸」
「離陸」
「まず足が床から離れる、あの一瞬」
「そこが怖い」
「怖い」
千紗が同意してくれるだけで、怖さが半分になる。
受信機が拾った証拠。
「じゃ、型」千紗が言う。
「チッ→凹凸→一手?」
「うん。あなた、チッ」
僕は舌で「チッ」と鳴らした。ブザー。
ここからは、飛ぶ話を“勢い”でやらない。
落ちない工夫を先にする。
「凹凸」
「一手」
千紗が返す。
手すりがあると、飛ぶ前から安心できる。矛盾っぽいけど、こういう矛盾が生活には効く。
「今日の飛ぶは」千紗が言う。「高く飛ぶじゃなくて、“飛べそう”を増やす」
「飛べそう」
「飛べそう、を積み上げると、気づいたら飛んでる」
「いいね」
「根性じゃなく、積み木」
千紗はそう言って、テーブルの上に小さな紙片を置いた。
“ピース”と書いてある。
欠片をピース化する合図。完成側へ戻す。
「じゃあ、飛べそうの材料」千紗が言う。「まず、あなたの」
「僕の?」
「今、飛びたい?」
「飛びたい…っていうより」
僕は言葉を探して、見つけたのは“現実通り”だった。
「現実通り、今のままだと、落ちそう」
千紗は頷いた。
「落ちそうって言えるの、飛ぶ準備」
「そうなの?」
「そう。落ちそうを隠すと、落ちるから」
痛いけど、正しい。
僕はりんごを一欠片、口に入れた。
シャク。
音で、胸の中を区切る。
「じゃ、飛ぶための“線”引く」千紗が言う。
「線」
「落ちない線」
千紗は紙にペンで線を引いた。
真っ直ぐじゃない。途中で少し曲がる。
曲がる線は、生活の線だ。
「この線の左が、飛ぶ準備」
「右が?」
「飛んだ後」
「飛んだ後、があるのいいね」
「飛ぶって、後が大事」
千紗はそう言って、鈴を鳴らした。ちりん。
線が、ただの落書きじゃなくルールになる。
「じゃ、準備ゾーンでできることを三つ」千紗が言う。
「三つ」
「質問攻めはしない」
僕らの合意。
「一つ目、道具。二つ目、時間。三つ目、言い方」
「言い方?」
「言い方で飛び方が変わる」
千紗は真顔で言う。
こういうときの千紗の真顔は、だいたい正しい。
「一つ目、道具」
千紗は引き出しから小さなクリップを出した。
何の変哲もない、銀色のクリップ。
「これ、今日の武器」
「武器がクリップ」
「刃物じゃないでしょ」
「背中押すやつ?」
「うん。名付けて“留め具”」
千紗はクリップを紙に挟んだ。
カチッ。
小さい音。だけど、ちゃんと留まる音。
「飛ぶ前に、心が散らばるでしょ」
「散らばる」
「散らばったのを、クリップで一回留める」
「なるほど」
「留めるのは、閉じ込めるじゃなく、整列」
「整列って言い方いい」
「でしょ」
「二つ目、時間」
千紗はスマホのタイマーを出した。
「飛ぶ時間、最初から長く取らない」
「短い?」
「短い。三分」
「三分で飛べる?」
「飛ぶんじゃない。“離陸ごっこ”」
千紗が笑う。
「離陸ごっこ」
「三分だけ、足が床から離れる想像をして、戻る」
「戻る」
錨だ。たまり場回の錨。
戻れるなら、飛べる。
「三つ目、言い方」
千紗は僕の方を見て言う。
「“飛ばなきゃ”は禁止」
「禁止」
「“飛びたい”も、今日はまだ早い」
「じゃ、何」
「“飛べそう”」
千紗は一音ずつ丁寧に言った。
「飛・べ・そ・う」
その言い方だけで、空気が軽くなる。
責任の塊がほどける音がした気がする。
アンが椅子の下から出てきて、僕の足に頭を擦りつけた。
それが「うん、それで」と言ってるみたいで、僕は少し照れた。
「じゃ、実験」千紗が言う。
「今?」
「今。台所は発射台」
千紗は鈴を鳴らす。ちりん。
「さぁ」
「……発射台って言われると、トースターがロケットに見える」
「見えるでしょ」
「見える」
「それでいい」
千紗はタイマーを三分にセットした。
ピッ。
数字が走り出す。
「三分間だけ」千紗が言う。「あなた、飛べそうを一個言って」
「一個」
「一文」
「……」
僕は息を吸って、紙の線を見た。準備ゾーン。
ここなら言える。
「今週、ひとつだけ、やってみたいことがある」
「何」
「言っていい?」
「言って。受信機、立てる」
千紗は胸の前で手を軽く広げた。拾う姿勢。
僕は一文にまとめる。
「外に出す文章を、一本だけ仕上げて、送ってみたい」
言った瞬間、胸が少し熱くなる。
熱くなるのは悪くない。
燃やしすぎないように、りんごを噛む。
シャク。
音が、熱を整える。
「いい」千紗が言う。「それ、飛べそう」
「でも怖い」
「怖いもセット。落ちない工夫」
千紗はクリップを僕の方に滑らせた。
「じゃ、留め具」
「何を留める?」
「怖いの形」
千紗は紙を一枚出して、僕にペンを渡した。
「怖い、を一言で書いて」
「一言」
僕は書いた。
『返事が怖い』
千紗が頷く。
「うん。じゃ、これをクリップで留める」
カチッ。
怖いが紙の上に留まる。
胸の中に漂ってたものが、外に出て、形になる。
形になると、扱える。
「じゃ、三分の最後」千紗が言う。
タイマーがピピピ、と鳴る直前の音が、少しだけ緊張を連れてくる。
「錨」
「錨?」
「飛べそうって言ったら、戻る場所も言う」
「戻る」
「うん。“戻る”の具体」
千紗は鈴を持つ。
ちりん。
「言って」
僕は一文で言った。
「返事が来るまで、ここでコップを持って、アンを撫でる」
千紗が笑った。
「いいね。たまり場式」
「たまり場式」
「現実通り、生活に戻れる」
「それが落ちない工夫」
「そう」
タイマーが鳴った。ピピピ。
三分は、短い。
でも短いからこそ、僕は“飛べそう”を手のひらに乗せられた。
掌に収まる欠片。
それをピースにする。
千紗は掲示板に新しい紙を貼った。
『本日の飛べそう:文章一本/怖い=返事/戻る=コップとアン』
そして僕にペンを渡す。
「あなたも書いて」
「何を」
「最後の合言葉」
僕は小さく書き足した。
『凹凸(刺さったら手すり)』
アンが「にゃ」と鳴いた。
議長は、異議なし。
「ねえ」千紗が言う。「高く飛ぶ日は、いつか来る」
「うん」
「でも今日は、離陸が怖くない日」
「うん」
「だから、胸を張って言っていい」
千紗は鈴を鳴らした。ちりん。
「がんばってます」
僕は笑って、返した。
「がんばってます」
台所のトースターがカチッと鳴った。
パンが跳ね上がる。
小さな飛行。
それを見て、僕は思った。
飛ぶって、こういうことからでいい。
落ちない工夫を先にして、戻る場所を用意して、
それでも少しだけ、床から離れてみる。




