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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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照れの六角形

 蜂蜜って、なんであんなに「ちゃんとした甘さ」をしてるんだろう。

 砂糖みたいにパッと終わらない。飴みたいに硬くもない。

 口に残るのに、嫌じゃない。……いや、量を間違えるとベタつくけど。


「ねえ、買っていい?」

 千紗がスーパーの棚の前で、透明な瓶を持ち上げた。黄金色が、蛍光灯の下でゆっくり揺れる。

 僕の脳内に、すぐにパンが出てくる。トースト。バター。蜂蜜。最強。


「いいよ」

 と言ってから、僕は一瞬だけ言葉を飲み込んだ。

 本当は「いつもありがとう」って付けたかった。

 千紗は最近、僕の“外の雑音”を上手に減らしてくれる。世界のNEWSも、僕の内側のTRAPも、遠吠えも。

 だから、甘い何かを返したい。


 でも、ありがとうって言うのは、たまに蜂蜜よりベタつく。

 自分の舌にくっついて、うまく離れない。


 胸の奥で「チッ」。

 舌打ちじゃない、ブザー。

 “言いたいのに言えない”の合図。


 チッ=ブザー→凹凸→一手。

 凹凸。刺さったときの手すり。


「凹凸」

 僕が小さく言うと、千紗は瓶を抱えたまま振り向いた。受信機が早い。

「凹凸?」


「……なんでもない」

「なんでもない顔じゃない」

「蜂蜜、重いなって」

「それ、現実通り」

 千紗は笑って、瓶をカゴに入れた。

「持つ?」

「持つ」

 僕はカゴを持った。持つのは得意だ。言うのは、たまに下手。


 帰り道、千紗がコンビニの前で立ち止まった。

「リンゴも買う?」

「最後にシャク?」

「うん。甘さの後にシャク」

「いいね」

 甘いものには、歯ごたえが必要だ。

 気持ちにも、食感が要る。


 家に帰ると、アンが玄関で待っていた。

 猫の待ち方は、堂々とした「遅い」でできている。


「ただいま」

 千紗が言う。

「にゃ」

 アンが言う。

「アン、おはよう」

 僕が言いかけて、すぐ訂正した。

「……ただいま」

 アンは目を細めた。許可。


 キッチンのテーブルに蜂蜜の瓶を置く。

 椅子が二脚。第三の動き。座れば会議、立てば戦争。

 今日は会議にしない。甘さの日だ。


「ねえ、蜂蜜で何作る?」

 千紗が袖をまくる。

「トースト」

「即答」

「蜂蜜はトースト」

「単純シンボル」

「シンプルシンボル」

「曲名みたいに言わないで」

「言ってない、概念」


 千紗が冷蔵庫の扉を開けた瞬間、アンが椅子に飛び乗った。

 猫は会議に参加したがる。たぶん議決権があると思っている。


「アンは蜂蜜ダメだよ」

「にゃ」

 納得してない声。


 千紗はバターを取り出し、僕はパンを焼く。

 湯が先。質問は後。たまり場式の台所は、なぜか手が勝手に動く。


 トーストが焼けた。

 バターを塗る。そこまでは順調。

 そして、蜂蜜の瓶の蓋を開けた。


「……うわ」

 千紗が言った。


 蜂蜜の糸が、思ったより長い。

 瓶の縁から、だらり。

 僕の指に、べたり。

 そして、テーブルに、とろり。


 蜜は落ちる音を立てない。

 落ちたあとで、空気だけが「やっちゃった」を叫ぶ。


 胸の奥で「チッ」。

 舌打ちじゃない、ブザー。

 “ベタつき”の合図。


 チッ=ブザー→凹凸→一手。

 凹凸。


「凹凸」

 僕が言うと、千紗はすぐ返した。

「凹凸」


「一手」

 千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ」


 刃物じゃない武器。背中を押す合図。

 ベタつきは敵じゃない。手順で扱える。


 千紗は引き出しから手袋を出した。

「手袋」

「触れないで守る」

「うん。蜂蜜は素手で戦うと負ける」


 僕は手袋をはめる。

 千紗はキッチンペーパーを広げる。

 線を引くみたいに、テーブルの上を区切って拭く。


「スリット、作る」

 千紗が言った。

「スリット?」

「全面拭きは疲れる。ベタついたところだけ拭いて、残りは呼吸」

「呼吸する蜂蜜」

「概念」


 拭く。拭く。

 アンが椅子の上からじっと見ている。

 猫の目は「舐めたい」と「怒られたくない」の二択で揺れている。


「アン、そこはダメ」

 千紗が言うと、アンは椅子から降りて、テーブルの下へ。

 第三の動きは、猫にもある。降りて逃げる。賢い。


 蜂蜜のベタつきは、時間をかければ落ちる。

 焦ると広がる。

 感情と同じだ。


 ふと、僕は思った。

 さっき飲み込んだ「ありがとう」も、これに似てる。

 焦って言うとベタつく。

 言えずに溜めると固まる。

 じゃあ、どうすればいい?


 千紗が冷蔵庫に貼り紙を一枚追加した。貼り紙の忍者。

 太い字で、今日のルール。


『甘さ=六角に分ける

 (ベタつき防止)

 椅子/線/スリット

 錨:現実通り

 最後にシャク』


「六角?」

 僕が読むと、千紗は頷いた。

「蜂の巣って六角形でしょ」

「うん」

「甘さも六角に区切るといい。全部一気に流すとベタつく」

「……なるほど」

「ひとつずつ。ピースにする」

「ピース」

「欠片→ピース化。完成側へ戻る」


 蜂蜜の瓶を閉めて、僕らは椅子に座った。

 トーストはまだ温かい。

 いい匂いのまま待ってくれている。食べ物は優しい。


「内なる五人、呼ぶ?」

 千紗が聞く。

 今日は甘いから、炭酸が暴れそうだ。

『言え!今!ドラマを作れ!』みたいに。


「呼ぶ」

 僕は頷いた。


「白湯:落ち着け」

「紅茶:順番」

「ほうじ茶:温度」

「コーヒー:具体」

「炭酸:今言え!今しかない!告白みたいに!」


 炭酸がうるさい。

 千紗が鈴をちん、と鳴らす。

「炭酸は観客席。議長は白湯」

「はい」


 白湯議長で、六角のひとつ目。

 僕は言った。


「現実通り、蜂蜜こぼした」

「うん」

 千紗が頷く。

「でも戻った」

「戻った」

 戻る。たまり場の錨。

 それだけで“失敗”が“事件”にならない。


 二つ目。

「千紗、手袋すぐ出した」

「うん」

「助かった」

「現実通り」

 千紗は笑う。

「私、蜂蜜対応は強い」


 三つ目。

 ここで「ありがとう」を言いたい。

 でも六角の運用。

 ベタつき防止。

 錨がいる。


 錨の一語+理由一行+鈴。

 風に飛ばされない発言手順。


 僕は短く言った。

「錨:受信機」

「理由:最近、千紗が僕の“うるさい”を拾ってくれて助かってる」

 言い切ったところで、千紗が鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ。受け取った」


 受け取った、の一言はコップみたいだ。

 空っぽでも器は器。

 僕の言葉が、器に落ちた感覚がある。


 千紗は少しはにかんだ。

 はにかむ、って動作は、蜂蜜より甘いのにベタつかない。

 なぜか。

 量がちょうどいいからだ。六角分だけ。


「……私も言う」

 千紗が言った。

 六角の四つ目。


「錨:椅子」

「理由:あなた、最近ちゃんと座れるようになった。走らなくなった」

 鈴がちん。

「さぁ」


 僕は息を吐いた。吐くのが先。クロール。

 褒め言葉が、ちゃんと胸に入る。

 入ったまま、溺れない。

 線とスリットがあるから。


 五つ目。

 トーストに蜂蜜を垂らす。今度は慎重に。

 細く。六角に区切るみたいに。

 バターの上に、細い線。

 甘さが“線”になると、美しい。


「……ねえ」

 千紗が言う。

「蜂蜜ってさ、ヌルっと滑るけど、形はちゃんとしてるよね」

「蜂の巣があるから」

「そう。形があると甘さが保てる」

「形がないとベタつく」

「うん。言葉も同じ」


 六つ目。

 最後にシャク。

 りんごを一口。


 シャク。

 歯ごたえが、甘さを締める。

 部屋の空気が、少しだけ明るく跳ねる。

 炭酸が観客席で拍手してる気配がする。うるさいけど、今日は許す。


「アンもシャク欲しい?」

 千紗が聞くと、アンは「にゃ」と言った。

 でもリンゴは猫には少しだけ。現実通り。

 千紗が極小の欠片を置く。

 欠片はピース。ピースは完成側へ戻る。


 アンはぺろりと舐めて、満足そうに椅子へ戻った。

 猫の会議は、いつも早い。結論が“食べた”だから。


 食後、千紗がテーブルの端に、蜂蜜の瓶を戻した。

 ベタつきは拭き取られて、テーブルは現実通りの木目に戻っている。

 戻るって、こういうことだ。


「ねえ」

 僕が言った。

「今日は“甘さ”が上手くいった気がする」

「大会にしない」

 千紗が即座に言う。

「じゃあ言い換え」

「現実通り」

「そう」


 千紗は貼り紙を指でトントン叩いた。

『甘さ=六角に分ける』

「これ、便利だね」

「うん」

「“ありがとう”も“好き”も、六角でいい」

「全部流さない」

「全部流すとベタつく」

「でもゼロにしない」

「ゼロは寒い」

「百は重い」

「だから六角」


 僕は笑って頷いた。

 甘さは、量じゃなく形。

 蜂の巣みたいに、区切りがあるから保てる。


 千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らす。

「さぁ。次は何の六角にする?」

「……NEWS?」

「それは掲示板」

「じゃあ、眠りたい?」

「それは光量」

「じゃあ、今日の締め」

「うん」


 僕はりんごをもう一口噛んだ。

 シャク。

 甘さが、ベタつかずに終わる音。


 アンは椅子の上で丸くなり、目を細めた。

 猫の判決はいつも同じ。

 “今日は、いい日”。

 その“いい”を、僕らは六角に分けて、ちゃんと保存できた。

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