半歩の許可証
冷蔵庫の掲示板に、今日も貼り紙が増えた。
貼り紙の忍者、千紗の仕事だ。
『0.5=半分じゃない
半歩
ゼロ/百禁止のための手順
線/スリット/椅子
チッ→凹凸→一手
錨:現実通り
最後にシャク』
僕は白湯を飲みながら、それを声に出して読んだ。
「半分じゃない、半歩」
千紗はキッチンでコーヒーを淹れつつ、うん、と頷いた。
「.5って、数字の中で一番やさしい」
「1じゃないの」
「1は“やった感”が強い」
「確かに」
「.5は、やったふりじゃなく、やった途中」
「途中」
「うん。途中を認めないと、ゼロか百になる」
アンは椅子の上で丸くなり、しっぽの先で床をトントンしている。椅子。第三の動き。
猫の生き方はだいたい.5だ。寝てる途中、起きてる途中、甘えてる途中。完成してないのに、ちゃんとしてる。
僕は最近、ゼロか百になりがちだった。
仕事が忙しい日、家事を“完璧にやる”か“まったくやらない”か。
返信を“全部返す”か“放置する”か。
ニュースを“全部読む”か“一切見ない”か。
極端は、罠。TRAP。
極端の前にはいつも「チッ」が鳴る。
そして今日も、鳴った。
洗面所で、歯ブラシを握ったまま固まった。
鏡の中の僕は、目が疲れている。
歯磨きすら“ちゃんとやらなきゃ”が乗ってくる。
乗ると、疲れる。
疲れると、やらない。
やらないと、自己嫌悪。
自己嫌悪は暗く沈む。うちは沈ませない。
胸の奥で「チッ」。
舌打ちじゃない、ブザー。
“ゼロか百”の起動音。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凹凸。刺さったときの手すり。
「凹凸」
僕は洗面所で小さく言った。
すると、キッチンから千紗の声が返ってきた。距離があっても届く。受信機。
「凹凸!」
返ってくると、手すりが立つ。
落ちない。
僕は一手を探した。
一手は…….5だ。
「半歩でいい」
僕は鏡に向かって言った。
自分に許可を出す。
許可がないと、極端になる。
歯磨きは、丁寧に三分じゃなくて、十五秒。
それでもゼロじゃない。
.5。
口の中が少しだけ現実通りに戻る。
台所に戻ると、千紗が鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。半歩、見せて」
「歯磨き、十五秒」
「いいね」
「大会にしないで」
「現実通り」
千紗は笑う。
「現実通り、良い」
千紗はテーブルの椅子を指差した。
「椅子。今日は椅子で半歩会議」
「半歩会議」
「うん。半歩を並べると、ちゃんと進む」
僕らは座った。椅子。第三の動き。
座ると、やることが“敵”じゃなく“項目”になる。
項目なら、.5が挟める。
「線、引くよ」
千紗が紙に一本線を引いた。線。
真ん中に小さな切れ目。スリット。通気口。
「左が“百”、右が“ゼロ”。真ん中が“.5”」
「図が分かりやすい」
「図は優しい」
「言葉はベタつくときがある」
「蜂蜜みたいに」
「六角にする?」
「今日は半歩」
千紗はペンで真ん中に小さく「.5」と書いた。
「ここに置けること、挙げて」
「え」
「今日のあなた、何がゼロか百になりそう?」
千紗は受信機のトーンで聞いた。取り調べじゃない。
僕は少し考えて言った。
「洗濯物」
「うん」
「畳むか、放置か」
「二択にしない」
「あと、返信」
「全部返すか、見ないふりか」
「あと、夕飯」
「作るか、やめるか」
「あと…自分の気分」
「元気なふりするか、沈むか」
千紗は頷いて、貼り紙のルールを指でトントン叩いた。
「ゼロ/百禁止。だから.5」
千紗が鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。半歩を決める」
僕らは“半歩メニュー”を作った。
決めると言っても、がっつりじゃない。
選ぶ。置く。戻る。
現実通りの範囲で。
「洗濯物の.5は?」
千紗が聞く。
「…分けるだけ」
「分けるだけ?」
「Tシャツだけまとめる。靴下は後」
「いいね。線とスリット」
「全部畳まない」
「でもゼロじゃない」
「うん」
「返信の.5は?」
「一通だけ返す」
「どれ?」
「期限が近いやつ」
「具体、コーヒー」
「コーヒーは議長になりたがる」
「今日は白湯議長」
千紗が鈴をちん。
「炭酸は観客席」
内なる五人を呼ぶのを忘れていたので、ここで呼ぶ。
呼ぶだけで、.5の席ができる。
「白湯:落ち着け」
「紅茶:順番」
「ほうじ茶:温度」
「コーヒー:具体」
「炭酸:やるなら全部!やらないなら寝ろ!」
炭酸はいつも極端。
でも炭酸も悪じゃない。元気の象徴。
ただ議長席には座らせない。
「夕飯の.5は?」
千紗が聞く。
僕は悩んだ。
料理って、やると全部やりたくなる。
やらないと罪悪感が来る。
その間が難しい。
「…“戻る日”にする」
僕は言った。
「戻る?」
「たまり場式。湯が先。スープだけ」
「石鳩亭みたいなごっちゃ煮?」
「うん。具、放り込むだけ」
「それ、.5じゃなくて.7くらいある」
「盛らない」
「盛らないのも大事」
千紗が頷く。
「じゃあ夕飯は“ごっちゃ煮スープ”.5」
「.5でスープって言うと薄い」
「薄くていい日もある」
「現実通り」
「現実通り」
最後に気分の.5。
これは一番難しい。
「元気なふり、しなくていい」
僕は言った。
「でも沈むふりもしない」
「沈むふり?」
「沈みたがる自分がいる」
「炭酸?」
「炭酸」
「観客席」
千紗が鈴をちん。
「さぁ。錨、打つ?」
錨の一語+理由一行+鈴。
風に飛ばされない発言手順。
僕は短く言った。
「錨:現実通り」
「理由:今日は半歩の日。進みが遅いのは正常」
千紗が鈴をちん、と鳴らした。
「固定。これ、効く」
昼。
僕は洗濯物を分けた。Tシャツだけを畳んだ。
靴下はカゴに入れたまま。
完璧じゃない。
でも床は少し見える。床が見えるだけで、気持ちが.5上がる。
返信は一通だけ返した。
送信した瞬間、胸の奥のブザーが静かになる。
“一通だけ”は、意外と強い。
ゼロじゃないって、ちゃんと身体が分かる。
夕方、千紗が帰ってきた。
僕はスープの鍋に冷凍野菜と豆腐を放り込んで、味噌を溶いた。
湯が先。質問は後。
たまり場式の匂い。
「おかえり」
「ただいま」
千紗が鍋を覗いて笑う。
「今日、半歩進んでるね」
「大会にしないで」
「じゃあ言い換え」
「現実通り」
「現実通り、進んでる」
アンは椅子の上で丸くなりながら、スープの匂いにだけ鼻を動かした。
猫は.5が好きだ。
急に変えると嫌がる。
少しずつがいい。
それは人間も同じ。
食後、千紗がりんごを切って出した。
「最後にシャク」
「今日も」
「.5の締め」
僕が噛む。シャク。
千紗も噛む。シャク。
音が、今日の半歩を現実通りに固定する。
「ねえ」
千紗が言った。
「.5ってさ、半分じゃないんだよ」
「半歩」
「うん。半歩は、次の半歩を呼ぶ」
「百じゃなくても、進む」
「ゼロじゃなくても、戻れる」
「戻れる」
「戻る場所があると、半歩が怖くない」
僕は頷いた。
極端の罠は、いつも甘い。
“全部やれば偉い”とか、“やらなければ楽”とか。
でもその甘さはベタつく。
蜂蜜より厄介だ。
だから僕らは、.5という形を持つ。
千紗が鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。明日も半歩、置ける」
「置ける」
僕も復唱した。
アンは椅子の上で目を細め、ゆっくりと尻尾を一度だけ振った。
猫の判決は、いつも現実通り。
“それで十分”。




