遠吠えの音量つまみ
夜の空気って、ときどき、喉の奥にひっかかる。
湿度でも、寒さでもなくて、言えなかった言葉の残り香みたいなやつ。
その日は、外から遠吠えが聞こえた。
ワン、じゃない。アオーン、でもない。
もっと長くて、少しだけ泣き笑いに似た音。
アンは椅子の上で丸くなったまま、耳だけを立てた。椅子。第三の動き。
猫は吠えないくせに、吠え声の話は真剣に聞く。評論家みたいに。
「……犬?」
僕が言うと、千紗はソファの背にもたれて、目を細めた。
「犬かもしれないし、風かもしれないし、誰かの心かもしれない」
「心が吠えるのは、ある」
「ある」
千紗は短く頷いた。
その瞬間、僕の胸の奥で「チッ」が鳴った。
舌打ちじゃない、ブザー。
“千紗の心の方が吠えそう”って、受信機が拾った音。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凹凸。刺さったときの手すり。
「凹凸」
僕が小さく言うと、千紗は笑わずに、でもちゃんと返した。受信機がつながっている。
「凹凸」
僕はすぐ続けたくなる。
「どうしたの?」
「何があった?」
「どこが痛い?」
質問の銃撃戦になりやすい。
でも今日は違う音がしてる。
遠吠えの夜は、答えを当てに行くより、音量を下げる方が先だ。
「……Tell me?」
僕がそっと言うと、千紗は小さく首を横に振った。
「まだ言葉の前」
「NANANA?」
「うん、それに近い」
千紗は立ち上がって、冷蔵庫に貼り紙を一枚増やした。貼り紙の忍者。
太字で、今日の運用が増える。
『Howl=言葉の前の叫び
当てない(まず整音)
椅子/線/スリット
チッ→凹凸→一手
錨:戻る(現実通り)
最後にシャク』
「Howlって書いちゃった」
僕が言うと、千紗は肩をすくめる。
「曲名じゃない。現象」
「編集が強い」
「現実通り」
千紗は鍵の鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。整音」
刃物じゃない武器。背中を押す合図。
その音で、部屋の中の“何かしなきゃ”が一段落ちる。
「整音って何するの」
「音量つまみを探す」
「つまみ」
「うん。叫びは消せないけど、音量は変えられる」
僕らは椅子に座った。椅子。第三の動き。
立っていると吠え声に引っ張られる。座ると、音が“外”に出ていく。
遠吠えが、もう一度。
今度は少し近い。
もしかしたら、隣の通りの犬かもしれない。
もしかしたら、風が電線を擦ってるのかもしれない。
でも千紗の瞳の奥にも、同じ長い音が立っている気がする。
「内なる五人、呼ぶ?」
僕が聞くと、千紗は少しだけ笑った。
「うん。吠えるの、炭酸が得意そう」
「確かに」
僕らは心の中の会議室を開いた。
「白湯:落ち着け」
「紅茶:順番」
「ほうじ茶:温度」
「コーヒー:具体」
「炭酸:吠えろ!全部ぶちまけろ!今だ!」
炭酸が立ち上がる気配。
千紗が鈴をちん、と鳴らす。
「炭酸は観客席。議長は白湯」
「はい」
僕も同意する。白湯は静かな拳。
「で」
千紗が言った。
「今日、私、吠えたい」
その言い方は、暗く沈ませないタイプの正直だった。
“吠えたい”を言えた時点で、すでに少し明るい。
「吠えたいの種類、青?赤?」
僕は質問を一つだけ出した。三つまでのルールの手前。
千紗は少し考えて答える。
「黄寄りの赤」
「怒り?」
「うん、怒り。でも笑える怒り」
「笑える怒りは、生活の燃料」
「燃料が噴き出るやつ」
千紗はスマホを机に置いた。
画面は見せない。覗かない。手袋。触れないで守る距離。
「会社の連絡、また“丸投げ”だった」
「丸投げ」
「うん。『これお願い』の一行だけ。前提も、期限も、目的も書いてない」
「それは吠える」
「でしょ」
千紗は笑いながら、でも眉間に小さな線を寄せた。
「吠えたいのに、吠えると“怖い人”になるじゃん」
「なる」
「だから喉の奥に溜まって、遠吠えみたいになる」
遠吠え。
まっすぐ言えないと、長くなる。
長くなると、夜に響く。
僕の胸の奥でチッ。ブザー。
“今すぐ解決策を出したい”が起動する。
でも解決は百になりやすい。
ゼロか百禁止。
今日は、音量つまみ。
「凹凸」
僕が言う。
「凹凸」
千紗が返す。
手すりを握って、一手へ。
「一手、線にしよ」
僕は紙を出して一本線を引いた。線。
そして、真ん中に小さな切れ目。スリット。通気口。
「左が現実通り、右が吠えたい気持ち。混ぜない、閉めない」
「うん」
千紗が左に書く。
『現実通り:丸投げの一行。前提なし。期限なし。』
右に書く。
『吠えたい:なんで私が?なめてんの?でも言い方分からん!』
「“なめてんの?”が出た」
僕が言うと、千紗は吹き出した。
「出た。遠吠えの核心」
「核心が出たなら、ピース化できる」
「ピース?」
「欠片→ピース化/完成側へ戻る」
「完成側ってどこ」
「千紗が怖い人にならずに、でも丸投げを減らす側」
千紗はペンをくるくる回して、考えた。
「……錨、打つ」
「いいね」
錨の一語+理由一行+鈴。風に飛ばされない発言手順。
千紗は短く言った。
「錨:現実通り」
「理由:丸投げは悪意じゃなく、情報不足の事故のこともある」
鈴をちん。
「さぁ」
現実通り、は強い。
相手を悪者にしないまま、自分の尊厳を守れる。
「じゃあ、吠えはどうする?」
僕が聞くと、千紗は肩を回した。
「吠えは…出す」
「家で?」
「うん。でも怖くない吠え方」
怖くない吠え方。
それ、うちの十八番になりつつある。
「場所で線を引こう」
僕は窓際の椅子を指差した。
「ここ、遠吠え席」
「遠吠え席」
「ここでだけ吠えていい。ソファは戻る席」
「たまり場式だ」
千紗が言って、鈴をちん。
「さぁ、席替え」
僕らは窓際の椅子に並んで座った。
アンもついてくるかと思ったら、椅子には乗らず、少し離れたところで香箱座り。
観客席。炭酸の席。
「じゃ、吠える」
千紗が言う。
「うん。僕は受信機」
「受信機、音量下げて」
「了解。拾うけど増幅しない」
千紗は深呼吸して、わざとらしく口を尖らせた。
「……あおーん」
妙に可愛い遠吠えが出た。
僕は耐えきれず笑った。
「ちがう!もっとこう!」
千紗がもう一回。
「おぉぉおおおーん!」
近所迷惑にならないよう、声量は抑えてるのに、気持ちだけが全力。
それが妙にツボで、僕はまた笑った。
「笑うな!」
「ごめん、でも、かわいい」
「かわいいは今いらない!」
「現実通り、かわいい」
「現実通り言うな!」
アンが「にゃ」と一回鳴いた。
たぶん「音程が不安定」と言っている。評論家。
「ねえ」
千紗が息を整えながら言う。
「吠えると、ちょっと空っぽになる」
「コップだ」
「うん。空っぽでも器は器」
千紗は自分の胸に手を当てた。
「空っぽになったら、注げる」
注ぐ。
ここでコーヒーが議長を取り戻そうとする。
『具体に落とせ!返信文を作れ!』
でも今日は段だ。
音量つまみの日。
いきなり完璧な返信を作ると、また炭酸が吠える。
「一手だけ、作る?」
僕が提案すると、千紗は頷いた。
「うん。一手だけ」
「一手は“質問”にする?」
「質問」
「『期限と目的を教えてください』って」
「それなら怖くない」
「手袋で触る感じ」
「うん、手袋」
僕は紙に短く書いた。
『確認です:目的/期限/前提(共有事項)を教えてください。優先度も分かると助かります。』
千紗はそれを見て、肩の線がほどけた。
「これなら吠えなくて済む」
「吠えた後だからね」
「そう。吠えた後だから優しくなれる」
遠吠えの外の音が、いつの間にか止まっていた。
犬だったのか、風だったのか、分からない。
でも分からなくていい。
うちの遠吠えは、ちゃんと着地した。
「最後にシャク」
千紗が言う。
僕らはキッチンでりんごを薄く切った。
噛む。シャク。
食感で割る。
吠えた喉の奥が、歯ごたえで現実に戻る。
「ねえ」
僕が言った。
「吠えるの、悪くないね」
「うん」
千紗はもう一口噛んで言う。
「悪いのは、吠えっぱなしで自分が疲れるやつ」
「抜きっぱなしの穴みたいに」
「そう。だから縫い目」
「縫い目は?」
「凹凸と、椅子と、スリットと、鈴」
千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らす。
「さぁ、寝る前に戻る」
「戻る」
僕が復唱すると、千紗は満足そうに頷いた。
アンは椅子に飛び乗って、丸くなる。
猫はもう降り終わっている。眠りの階段を。
布団に入る直前、千紗が小さく言った。
「今日の遠吠え、聞いてくれてありがとう」
「受信機の仕事」
「仕事って言うと固い」
「じゃあ…たまり場式」
「それ。たまり場式の受信機」
僕らは、吠えたい夜を暗く沈ませずに扱う方法を一つ増やした。
叫びを消さずに、音量を調整して、席を決めて、錨を打って、最後にシャク。
遠吠えは怖い音じゃなく、戻るための合図にもなる。




