眠りへ降りる手順
「眠りたい」
千紗がそう言ったのは、夜ごはんの皿を流しに運んだあとだった。
疲れた、よりも、静かな音。
眠い、よりも、願いに近い音。
アンは椅子の上で丸くなって、今日の家の空気を鼻で嗅いでいる。椅子。第三の動き。
猫は眠りのプロだ。寝たいと言わない。寝る。
僕は一瞬、返事に困った。
「眠りたい」って、お願いなのか。宣言なのか。SOSなのか。
僕の受信機が、勝手にチャンネルを増やす。
胸の奥で「チッ」。
舌打ちじゃない、ブザー。
“考えすぎ”の起動音。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凹凸。刺さったときの手すり。
「凹凸」
僕が小さく言うと、千紗は頷いて返した。受信機がまだつながっている。
「凹凸」
それで少し落ち着く。
この合言葉、便利すぎて、たまに神棚に飾りたくなる。
でも神棚に飾った瞬間、日用品じゃなくなる。
凹凸は、手すりでいい。
「……眠りたい、は」
僕は言葉を探しながら言った。
「いま、何が一番うるさい?」
千紗は眉を上げた。
「質問、変」
「変なのは自覚してる」
「でも、悪くない」
千紗は冷蔵庫に貼り紙を一枚増やした。貼り紙の忍者。
太い字で短く、今日の運用。
『眠りたい=光量を落とす
チッ→凹凸→一手
椅子/線/スリット
内なる五人(議長は白湯)
錨:戻る(現実通り)
最後にシャク』
僕が読み上げる。
「光量を落とす」
「うん」
千紗は少しだけ笑った。
「眠りって、気合いで登る山じゃなくて、階段で降りるやつだから」
階段で降りる。
いい表現だ。
僕はよく、眠れない夜に「早く寝なきゃ」と自分を追い立てて、逆に眠れなくなる。
山登りみたいに。
でも眠りは、降りる。
それなら、手順がいる。
「さぁ」
千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らした。
刃物じゃない武器。背中を押す合図。
「階段、いこ」
まず椅子。第三の動き。
僕らはソファに座った。立っていると“やること”が増える。座ると“いま”が増える。
「内なる五人、呼ぶ?」
千紗が聞く。
眠りの話に五人を呼ぶの、ちょっと面白い。
でも面白いときほど、役に立つことがある。
「呼ぶ」
僕が言うと、千紗は指を折っていった。
「白湯:落ち着け」
「紅茶:順番を守れ」
「ほうじ茶:温度を下げろ」
「コーヒー:やることを整理しろ」
「炭酸:寝るな!今のうちに全部片付けろ!考えろ!」
炭酸は夜に出る。
夜の炭酸は、最悪の上司みたいに元気だ。
千紗が鈴をちん、と鳴らした。
「炭酸は観客席。議長は白湯」
「はい」
僕も、心の中で白湯をすすった。ぬるめで。
「で」
千紗がソファの背にもたれて言う。
「いま一番うるさいのは、頭の中の“やり残し”」
「やり残し」
「うん。今日の返信、返したっけ?とか。明日の準備、できてる?とか。あと……」
千紗は言い淀んだ。
言葉の手前のスリットが見える。
「あと、なんか、心がまだ仕事してる」
仕事してる心。
それ、よく分かる。
心だけ残業してるやつ。
僕の胸の奥でまた「チッ」。ブザー。
“今すぐ全部解決してあげたい”が立ち上がる。
でも解決しようとすると、眠りは遠ざかる。
眠りは階段で降りる。
だから一手。
一手は、線。
僕は紙を一枚持ってきて、一本線を引いた。線。
線に小さな切れ目。スリット。通気口。
「左が現実通り、右が心の残業」
「混ぜない」
千紗が頷く。
「閉めない」
「うん。息は通す」
左に書く。
『現実通り:明日の準備が未完/返信が気になる』
右に書く。
『心の残業:失敗したらどうしよう/言い方が嫌だった/まだ悔しい』
書くだけで、千紗の肩が少し下がる。
目に見えると、うるささが“ひとつの塊”じゃなくなる。
塊は怖い。欠片なら扱える。
「ピース化、する?」
僕が聞くと、千紗は少し迷ってから頷いた。
「うん。今日はピースでいい。完成じゃなく、完成側」
ピース。欠片→ピース化/完成側へ戻る。
眠りの前に“完成”を求めると、炭酸が議長に戻ってくる。
だから“完成側”。
「ピース、二つだけ」
千紗が指を二本立てた。
「一つは、明日の準備を“紙に書く”だけ」
「やる、じゃなく書く」
「うん。書いたらコップ」
「コップ?」
「空っぽでも器は器。やれてなくても“器がある”って確認する」
「いいね」
「もう一つは、心の残業に手袋」
「手袋?」
「触れないで守る。今は掘らない」
千紗は真顔で言う。
「掘ると夜が深くなる。深くなると眠りが逃げる」
僕は頷いた。
夜に掘削工事はしない。
マイセルフの工事現場は、営業時間を守る。
「錨」
千紗が言った。
「ここで錨を打ちたい」
錨の一語+理由一行+鈴。風に飛ばされない発言手順。
千紗は少し考えて、短く言った。
「錨:戻る」
「理由:今日は解決じゃなく、家に戻って眠る」
鈴がちん。
「さぁ」
“戻る”は、たまり場回の錨。
家をたまり場にするのは、だいたいお湯から始まる。
石鳩亭の作法じゃないけど、うちにもある。
質問より先に湯が出る。たまり場式。
「白湯、作る」
僕が立ち上がると、千紗は小さく「うん」と言った。
それだけで、部屋の光量が一段落ちた気がした。
湯を沸かして、白湯を二つ。
ついでに、間接照明の明るさを落とす。
カーテンを少しだけ引く。
スマホは充電器へ。
“見ない練習”じゃなく、今日は“置く練習”。
置くだけでいい。ゼロか百かにしない。
戻ってくると、千紗はアンの背中をゆっくり撫でていた。
アンは撫でられながら、椅子の上でさらに丸くなる。
猫は眠りの階段を勝手に降りていく。
「白湯、どうぞ」
「ありがとう」
千紗は白湯を両手で包んで、湯気に顔を近づけた。
「ねえ」
千紗が言う。
「眠りたい、って言うの、ちょっと怖かった」
「どうして」
「言ったら、何かをやらなきゃいけない気がして」
「眠るのに?」
「うん。眠るのに、頑張らなきゃって思う日がある」
分かる。
眠りは“できた/できない”の採点になりやすい。
採点が始まると、炭酸が笑う。
『ほら、できない!』
僕は白湯を一口飲んで、息を吐いた。吐くのが先。クロール。
そして言った。
「眠りたい、は、合図でいいよ」
「合図」
「うん。背中を押す鈴みたいに」
僕は千紗の鍵の鈴を軽く指で鳴らした。ちん。
「さぁ、光量を落とす、って」
千紗は笑った。
ギャグに寄せすぎない、小さな笑い。
「眠りの号令、なんか変」
「変だけど効く」
「現実通り」
千紗が紙に、明日の準備を“書くだけ”のリストを作った。
僕はそれを横で見守る。
当てない。
掘らない。
手袋で守る距離。
「書けた」
「コップ」
僕が言うと、千紗は頷いた。
「空っぽでも器は器」
リストは器。明日の自分が注げる器。
ここまで来たら、最後の階段。
食感で割る。りんごのシャク。
眠る前に食べるのはどうなんだ、という疑問はあるけど、うちのシャクは“ひとかけら”だ。
歯ごたえだけ借りる。
僕はりんごを薄く切って、皿に三切れだけ置いた。
アンが目を開ける。
猫は“シャク”の気配にだけは敏感だ。
ただしアンの分は、りんごじゃなく猫用おやつ。現実通り。
「最後にシャク」
千紗が言う。
僕が噛む。シャク。
千紗も噛む。シャク。
音が、今日の残業を“明日扱う箱”に入れてくれる。
「ねえ」
千紗が小さく言った。
「いま、眠りの階段、何段目?」
僕は考える。
数字にすると大会になるから、色で言った。
「青寄りの白」
「いいね」
「千紗は?」
「白寄りの青」
「ほぼ同じ」
「同じは、安心」
アンが椅子から降りてきて、僕らの足元を一周して、また椅子へ戻った。
猫の見回り。
家の安全確認が終わった合図みたいだ。
「じゃ、寝よ」
僕が言うと、千紗は少しだけ目を細めて頷いた。
「うん。戻る」
「戻る」
僕も繰り返した。
寝室へ向かう途中、千紗がふと振り返って言った。
「ねえ、今日の一番良かったニュース」
「ニュース?」
「うん。うちの速報」
千紗の目が笑っている。
僕は少し考えて答えた。
「『眠りたい』って言えたこと」
「それ、速報だね」
千紗が鈴をちん、と鳴らす。
「さぁ。寝るよ」
布団に入ると、世界が一段小さくなる。
小さくなるのは、狭いんじゃなく、守られている感じ。
千紗は僕の手を軽く握った。痛くない握り方。
ぎゅーじゃない。輪。
「明日、心の残業、掘る?」
僕が聞くと、千紗は首を横に振った。
「明日は明日。今日は手袋」
「了解」
「現実通り」
「現実通り」
僕は最後に、心の中で手順を小さく確認した。
チッ→凹凸→一手。
椅子、線、スリット。
白湯議長。
錨:戻る。
シャク。
眠りは、頑張って獲りに行くものじゃない。
光量を落として、階段を降りて、戻ってくるもの。
そのやり方を、僕らは今日も一つ増やした。




